第十九話 ほどけた蜜柑
岡本とその連れは、事件から間もなく、忽然と姿を消した。
独り身だった岡本が経営していた商会は、
いつの間にか藤沢の商会の傘下に入っていた。
玉兎に直接乱暴をはたらいた男の中には、
少し名の売れた役者や若手の官僚も混ざっていたが、
彼らも最初からいなかったかのように、痕跡が拭い去られていた。
――翠玉楼の旦那衆を怒らすと、とんでもない対価を払うことになるらしい……
宵月・玉兎襲撃事件は、新橋の花街で都市伝説のように囁かれた。
だが、真相を知る者は皆、口を閉ざした。
本当のことが広まることは、ついになかった。
舞えなくなった宵月は、
半玉時代からの馴染みで、藤沢とも懇意にしていた商会経営者の後妻にと請われ、落籍した。
吉田の献身で回復を見せた玉兎は、水揚げして“望月”と名を変えた。
もちろん、旦那は吉田であった。
彼女の芸妓としての時間は、すべて彼が買い上げ、
まもなく落籍すると専らの噂だった。
「……小唄は、水揚げとか、考えないの?」
師匠の都合で稽古が休みになった、冬のある午後。
文を書いていたあやに、望月は蜜柑を剥きながら、ぼんやりと問いかける。
「……考えてる。考えているけど、なかなかいい縁がなくてね……
決まりかけては破談になり、また決まりかけては破談に――
かれこれもう三回よ……
そろそろ私に問題があるんじゃないかって、噂になり始めているのは、知っているでしょう?」
「それって……、誰か妨害してるんじゃない?
どうしてもあんたの旦那になりたいけれど、今は時期が悪いとかで、
名乗り上げられない御仁が、影で手を回しているとか……」
あやはカタンと音を立てて筆を置き、望月へと振り返る。
「私なんかに?
――望月ならともかく、私にそんな執着をする人がいるなんて、考えられないわよ。」
「……別に、あんたの悪い噂なんて、聞かないけどねぇ……」
みかんの房の筋をゆっくりと外しながら、望月はつぶやく。
「土産写真で評判になったとはいえ、
元来あんたと私じゃ、人脈は被らないからね。
吉田さまの周りで、私の話が出ないのは当たり前じゃない。」
あやもそのまま座り直すようにしてすり寄り、
望月の目の前のかごから、みかんを一つ取り上げた。
そんなあやを望月は、探るような上目遣いで見つめてくる。
「そんな事ない。
実はね、吉田さまのお友達で、島田さまっているでしょ?
あの方、かなり本気で小唄の旦那に立候補しようって言っていたのよ。
あんたは自分を低く見積もりすぎだと思う。」
「またまたぁ――」
あやは鼻で笑って、素早くみかんの皮をむくと、筋も取らずに房をほおばった。
そんなあやに、望月は目を細めてじとりと睨む。
「……筋、取らないと、腹を下すって、女将さんが言っていたわよ。」
「――そんな話聞いたこともない。」
咀嚼もほどほどに飲み込んで、あやは次の房を口へと放り込んだ。
蜜柑に酸味はほとんどなく、ただただ甘く口の中でほどけた。
廊下を足音が近づき、襖が開く。
現れたのは、女将さんだった。
「小唄や、ちょっといいかね。大切な話があるんだよ。」
あやは、女将の顔を見上げて、ごくりと口の中の蜜柑を呑み込んだ。




