第一話 落日の午後
「ねえ、嘉七さまは、あやの着物、褒めてくださるかしら?」
梅雨の晴れ間の昼下がり。
座敷いっぱいに着物を広げ、その極彩色の渦の中で、
あやはくるりとその場で一回りし、母を見やった。
浅葱の地に桃色の紫陽花がこぼれんばかりに咲いた上等の振袖。
「ええ、とても似合っていてよ。やはり江戸表の呉服屋は、趣味が良いわ。」
母・さいは満足そうに笑い、女中が畳に広がる着物を拾い集めてゆく。
「お母様。今では江戸ではなく、東京と申しますのよ?
そのような古い名を呼び続ければ、田舎武士だとバカにされます。」
「まあまあ、そうでした。あやは賢いのね」
今年十三になったあやに、七つ年上の許嫁があてがわれたのはつい先日。
嘉七は某藩の郷士の出で、子どもは女しかいない片岡家に、婿養子に入ることが決まっている。
祝言まで相手の顔など見ることもないのが当たり前。
けれどもあやは、許嫁との交流を望んだ。
数日後の数度目の顔合わせに向けて、あやは一番の着物を選んだのだった。
万延元年。片岡あやは、科州静間藩の番頭表御用人を務める家に生まれた。
父は片岡 兵十郎 重直、母は後添えで入った さいだった。
家には前妻の忘れ形見の姉・りよがいたが、あやとの接点は希薄だった。
片岡家は、城勤めの家柄として、それなりに名はある。城勤めだった父は、あやにとって誇りだった。
けれどもそれも、あやが十歳になるまでのこと……
幕府が倒れ、大政奉還、そして版籍奉還、文明開花。
世の中が、華々しく鮮やかに裏返っていく中で、父は城仕えの地位を失った。
一家はそれでも藩主に従って江戸から名を改めた東京へと上京。
今は元静間藩士の集まる界隈に居を構えている。
父は、元藩士仲間と何やら事業を始めていて羽振りがよく、あやの婚約者もその集まりの有望な若者だという。
「そうそう、“あれ”の嫁ぎ先が決まったのよ。やっと厄介払いできるわ。」
試着した振袖から普段着へと着換えるあやに、
さいは、どこか晴れやかな顔で微笑んだ。
「そうなの」
あやは細心の注意を払って、何でもないことのように答える。
「ええ、これでやっと、片岡家は本当の家族だけでの生活が始まるわ。」
「そう、ね。」
あやもあいまいに微笑んだ。
さいが“あれ”というのは、腹違いの姉、りよのことだ。
あやはさして悪感情も、関心も抱いていなかったが、母は、姉のことを蛇蝎のごとく嫌っていた。
どんな形であれ、下手に興味を示すと、ろくなことにならないのは、十数年この家で生活していてよくわかっている。
姉は数日後には嫁ぎ先へと赴いた。
だが、いつ片岡の家を発ったのかを、あやはついに知らなかった。




