第十一話 ただの“ケシ”
「おケシちゃん、どうしたの? 稽古に身が入らないなんて、あなたらしくもない……。
ねぇ、ゴマちゃんも言ってやってよ!」
三味線の稽古から戻るなり、一緒に戻った生駒があやを呼び止めた。
玄関に居合わせたゴマも巻き込み、座敷で問い詰める。
生駒はあやを可愛がっていたが、決して甘やかしはしない。
あやが稽古に身が入らないなど、今まで一度たりともなく、生駒は本当に心配していた。
「え? ケシが? 稽古でぼーっとしていたんですか? 本当に?」
ゴマも信じられないと問い返す。
あやは、これ以上黙っていることも、ごまかすことも、
ひとりで抱えることもできないと、思い始めた。
生駒もゴマも、信頼できる人間だ。
そう思って、重い口を開いた。
「……本当に、ふがいないんですが……。
今日、陸軍の将校さんが来たでしょう?
あれ、私の姉と、その夫なんです……」
「は? ケシって、天涯孤独なんじゃないの?」
ゴマが歯に衣着せず言うと、生駒が「ちょっと」とたしなめる。
「はは……うん、天涯孤独は本当。
姉をはじめ、親戚連中からは絶縁されてる。
父が借金を重ねて、母がおかしくなって。
父は母を切って、自害したけど、
誰も葬式に来なかったし、私の引き取りも拒否された」
「ひどいわねっ、村八分以下じゃない。」
思わず声を上げた生駒に、あやは力なく首を振った。
「たぶん、それだけのことを、父と母はやったんだと思います……。
少なくとも、姉に対しては、縁を切られても仕方ないだけのこと、してきたんです。
それを思い出したら、急に全部怖くなって、
自分が恥ずかしく思えてしまって……」
うつむいたあやを、生駒は泣き出しそうな顔で見つめてから、
感極まったように彼女をひしと抱きしめる。
突然のことに、あやはビクリと身を震わせて驚いた。
「そうだったんかい。それは辛かったねぇ……。
でもね、もういいんだよ。おまえはもう武家の娘でない。
ただの“ケシ”だ。翠玉楼の下働きのケシだよ。」
「生駒姐さん……。」
あやが戸惑い名を呼ぶと、生駒はますます強く抱きしめる。
「言い方は悪いが、おまえは武家の枠から捨てられたんだ。
だからもう、過去は過去だ。
無理に背負い続けなくても、いいんだよ。
これからを、まっすぐ生きて行けばいい。」
――本当に、捨ててしまっていいの?
あやは、生駒の腕の中で考えた。
武家の血が流れている。
それは、変えようと思って変えられることだろうか。
――でも、生駒姐さんの言葉で、心は軽くなった。
つまり……、今ここで、“ケシ”であることを、
今の自分を、恥じることはないのだ。
「――生駒、また下の子を甘やかしているね。」
いつの間にか襖が開いていて、一番人気の芸妓・雁金が眉をひそめて柱にもたれかかっていた。
「慰めていただけよ。人聞きが悪いわ。」
生駒が膨れると、雁金はフンと鼻を鳴らして今度はあやを一瞥する。
「おまえの慰めごときで立ち直れるなら、大したことあるまい。
さっさと支度をしろ。もう時間だぞ。」
雁金の言葉に、生駒も時を思い出したのか、「いっけなーい。」と慌て始める。
やがてあやが解放された時、雁金はもう柱から身を離し、その場から離れようとしていた。
あやは彼女に向かって頭を下げたが、
自分が手放すべきものは、武家の血の誇りではないと、あやは思い始めていた。




