第九話 静かな新生活
あやの新生活は、お蝶との遭遇以外は、静かに始まった。
下働きの少女たちは、お蝶によって酷い名を付けられていた。
ゴマやチリなどは、まだ良い方だという。
中には、マチと呼ばれる少女もいた。
――芸妓になるのを「待ちぼうけ」の「マチ」だ、と誰かがひそひそ教えてくれたが、
そもそも最初は、お蝶が『マ○』と――男の陽物を指す言葉を名づけそうになったのを、さすがに女将が止めたのだと聞く。
あやには、どちらも十分に残酷に思え、『ケシの実のケシ』で良かったと思った。
お蝶は時折現れては、半玉に言いがかりをつけて折檻したり、下働きがやった仕事を台無しにしたりと、災厄のように暴れまわっていた。
それを止める立場にあるはずの翠玉楼の主人といえば、置屋の奥で起きていることには、ほとんど目を向けていなかった。
彼は還暦を過ぎたほどの老人で、芸妓のことは女将に任せ、人当たりもよく、誰からも好かれていた。
お蝶を野放しにする以外は、何もかも完璧な男だった。
「旦那様に申し上げればいいのに。」
ある時、せっかく拭き上げた廊下を、花瓶の中の腐った水をぶちまけられて台無しにされたあやが、ゴマに向かって囁いた。
「うーん、無駄だと思うよ。稼ぎ頭だった姐さんが、半年前に涙ながら訴えたんだけど、なーんにも変わらなかったんだ。
旦那様は、『すまんなぁ、すまんなぁ。あの子はかわいそうな子で、いずれ時が来れば、まっとうになるから、長い目で見てやってくれ』って、泣き落されたってさ。
長い目って、私らは人生がかかってるっつーの。」
ゴマの口真似は完璧で、あやはクスリと笑った。
芸の稽古も始まった。
読み書きに教養、茶道に華道は片岡家にいた頃の花嫁修業がそのまま役に立った。
舞踊と唄は花街にふさわしい華やかなものを教えられ、楽器は新たに三味線を与えられた。
あやは三味線はなかなかうまくならなかったが、踊る事と唄うことは、花街のものの方が気に入った。
華やかな振り付けに心躍り、はやりの拍子は彼女の張りのある声によく合った。
彼女にまず目を付けたのは、唄の師匠だった。
芸歴四十年を優に超える彼女は、あやとの出会いを“千載一遇”とまで言い切り、
「文化文政の唄の名手、千代藤の再来だ」と、半ば興奮した様子でほめそやした。
踊りの師匠は辛口な男だった。
滅多にあやを褒めなかったので、あやは気に入られていないのだと思っていたが、
酒飲み友達の女将さんには、酔うと
「あれは磨けば新橋一、いや東京一だ」
と、管を巻いていた。
三月も経つと、下働きでも、気の合う合わないがだんだんと出てくる。
最初に声をかけてくれたゴマとは気が合って、その後も変わらずつるんでいた。
カスとチリともすぐに打ち解けた。
ただ、マチとはどうにもそりが合わなかった。
マチは、あやから見てもハッとするような美しさを持った少女だった。
彼女が舞えば、見るものを釘付けにし、人々の視線を集める不思議な吸引力を持っていた。
お蝶がイチモツを名にして、貶めようとしたのもうなづける。
噂では、どこぞの藩主だか幕臣の御落胤で、世が世なら姫君として、どこぞの名家に嫁ぐ可能性もあったという。
もっとも父とされる人物は、戊辰戦争で新政府に楯突いたとして、斬首されたとか、北へ左遷されたとか言われていたが。
彼女は何かにつけてあやを見下し、
片岡家の禄を、うっかり二百石だと口を滑らしてからは、
鬼の首を取ったようにあやのことを『二百石殿』などと呼ばわった。
ゴマもマチのことは嫌っていて、
「あいつは“ニセモノ”。
完全に嘘じゃないけど、せいぜい下町同心だよ。」
などと揶揄していた。
お蝶もマチも、あやにはうっとおしかったが、
掃除や洗濯、それから稽古にと、追い立てられて、季節はあっという間に巡る。
あやの後にも何人か下働きが入り、カスは半玉となり、若造酒と名を変えた。
カスは酒粕のことにしたらしい。
いつしか桜の咲く季節となって、あやは十四の春を迎えていた。




