ぬる~い地獄
「何! 貴様……今、なんと言った!」
「ひ、ひいっ……あ、あの……え、閻魔大王様……その……」
そこは地獄――閻魔大王の裁きの場。底なしの闇の奥から絶えず呻き声が響き、血と硫黄の焦げつくような臭いが鼻を焼く。死者たちは列をなし、まるで屠殺を待つ家畜のように一人ずつ裁きの前へ進む。閻魔大王は巨大な帳面をめくりながら、生前の業を淡々と読み上げ、どの地獄へ落とすかを事務的に告げていた。
だが、ある男がおそるおそる手を挙げ、その流れを遮ったのだ。
「こ、このお金を差し上げますので、どうか、かる~い地獄へ送っていただけないでしょうか、と申し上げました……はい……」
閻魔大王の真っ赤な顔はさらに深く染まり、額からこめかみにかけて血管がぷちぷちと浮き上がった。ずいと身を乗り出し、巨大な顔を男の眼前へと迫らせた。
燃え盛る炎のような眼光に射抜かれ、あまりの恐ろしさに男は小便を漏らしそうになり、ぶるぶる震えながら手にしていた大判小判をチャリチャリと落とした。ぱっくりと開いた腹からは腸がずるりと滑り出て、死んだミミズのようにくたっと垂れ下がった。
男は現世では名の知れた資産家だった。生前、自分の遺体の腹へ金を詰め込むよう指示していたのだ。地獄で閻魔大王に賄賂を渡すために。
地獄に持ち込むことには成功した。だが今、目の前の圧倒的な存在感に男は後悔し始めていた。
「貴様、このわしを買収しようというのか!」
「ひっ! すみませんすみません! じ、じ、地獄の沙汰も金次第……と、聞いたことがあったもので……!」
生前は阿漕な手段で巨万の富を築き、金の力で多くをねじ伏せてきたこの男も、閻魔大王の前では形無し腰砕け骨抜きである。へなへなと床にへたり込み、小便の染みを広げながら青ざめた。しかし――。
「いや、その通りだ」
閻魔大王は、にたりと口角を吊り上げた。
「お前のように物の分かったやつはなかなかおらん。感心したぞ」
「へ……へへえ! 光栄にございます!」
「して、どんな地獄を望む?」
閻魔大王は黒々とした髭をゆったりと撫でつけながら訊ねた。
「ええと……その、できれば涼しいところがいいですねえ。ここでもすでに暑くて、暑くて……」
「地獄はどこも暑いぞ。地の底だからな」
「へえ、じゃあ天国も太陽に近いから暑いんでしょうかね?」
「知るか。暑いのが嫌なら、極寒地獄に送ってやろう」
「極寒!? そ、それはちょっと……」
「心配するな。極寒地獄と灼熱地獄の狭間に立てばよい」
「いやあ、それは……あのう、暑さは我慢しますから、どこかその……もっと楽な、いや、ほどほどの地獄はありませんでしょうか……?」
「そんな地獄があるわけないだろう……いや、そうだな。あるぞ。ぬるま湯地獄だ」
「ぬるま湯地獄? そんな地獄があるんですか?」
「あるとも。地獄とは、あらゆる人間に苦痛を与える場だからな。価値観に合わせて千差万別に分かれておる。虫地獄、甘味地獄、孤独地獄、集合体地獄、枚挙に暇がない」
「ははあ、なるほど……。ですが、ぬるま湯程度で苦痛になるものですかね」
「ああ。お前だって、せっかくの風呂がぬるかったら、がっかりするだろう?」
「……まあ、それもそうですな」
ここで余計な反論をして閻魔大王の機嫌を損ねては阿保らしい。男はそう思い、大げさに頷き、感心してみせた。
こうして男は、ぬるま湯地獄へ送られることになった。心の中でほくそ笑む。これで地獄でも安泰だ、と。
しかし――。
「おい! この湯、冷たいぞ! しっかりやれ!」
「ひ、ひい、へ、へい!」
到着した先で男に任命されたのは、ぬるま湯地獄の管理責任者。湯が熱すぎれば極寒地獄へ氷を取り行けと鬼に殴られ、冷えすぎれば火山から燃え盛る石を運んでこいと蹴り飛ばされる。温度管理の他に清掃、苦情対応――。
地獄の管理職は、決してぬるくないのであった。




