60:女王として、母として
アクエリアム=アプラ=アンフィトリテ=メルグリアは、リュリュイエの女王であると共に、二人の子どもの母親だ。
僅か十歳という幼さで聖女となったアクエリアムは、決して平坦な人生を送ってきたわけではない。
それでも、彼女がなんとか頑張ってこられたのは、家族や侍女達、何よりその当時、王子であったウラヌセウトの支えがあってこそだった。
だからアクエリアムは、ウラヌセウトとの間にもうけた二人の子ども達を、本当に大切に思っていた。
そして、自分がそうであるように、二人にも良い相手との婚姻を、と考えている。
王族はこの都を治める責務を負っているが、良い政を行うには、まず自らの心が穏やかでなければと、ウラヌセウトが教えてくれたのだ。
アクエリアムは、ぼんやりと昔のことを思い起こす。
かつてアクエリアムが聖女であった頃、義務感と責任感と自己犠牲に潰され、倒れかけたことがあった。
都を護れるのは自分だけなのだからと、自分だけの幸せを考えることは、単なる我儘だと、若かった彼女は必死だった。
そんな時に、ウラヌセウトがストップをかけた。
――私の幸せについても考えてくれないか?
アクエリアムは、すぐに意味を理解出来なかった。
……わたくしは、ウラヌセウト様をはじめ、都に住む全ての人々の幸せを願い、日夜祈っている、と。
彼は言葉を続ける。
――君が笑顔でいられることが、私の幸せだと言ったら、君は君自身の幸せについてもきちんと考えてくれるであろうか?
アクエリアムは、心の底から驚いた。
都のために祈ることこそが、自分の幸せだと。
本当にそう思っていたのだから。
……今のわたくしは、笑えていない?
――君が都の幸せを護るのなら、私は全力で、君の幸せを護ろう。
そう言ってウラヌセウトは、自分と婚約した。
コンコンッ
控えめにドアを叩く音が、思考の海に沈んでいたアクエリアムの意識を現実に戻した。
「陛下、夜分に申し訳ございません。急ぎの文とのことで、お持ち致しました」
「……お入りになって」
顔を上げ、聞き慣れた声の主に返事をする。
既に就寝の支度を整えてはいるものの、ライティングデスクの上には冷めた黒茶と幾つもの資料が積まれている。
アクエリアムは手にした資料の一つをまとめると、横に置いた。
「失礼致します」
侍女は音も立てずに部屋へと入ってくると、アクエリアムのデスクの前にやってくる。
「オーケヌスあたりからかしら?」
「……よくお分かりになりましたね。さすがはアクエリアム様」
「あら? 貴女が優秀なお陰よ」
そういってふふふと笑ってみせる。
「わたくしはただ、アクエリアム様の御指示に従っているだけです」
整った美しい顔の眉一つ動かす事なく、答える侍女。
「……ナナリア。そこはもう少し嬉しそうにしていいのよ?」
微笑みの一つでも覚えれば、引く手数多でしょうに。とアクエリアムは小さく溜息をつく。
「……わたくしは、生涯をかけて貴女様にお仕えすると決めておりますゆえ」
「……もう。伴侶を得ても、わたくしに仕えることはできるでしょうに」
(弱みを作ることは、仕事に差し支える。と言ったら、この優しすぎる御方は傷つく)
その様な思いはおくびにも出さず、ナナリアは机の真ん中に封筒をそっと置いた。
アクエリアムはその白い指先で封筒を手に取り、封蝋印を剥がして手紙を取り出す。
「……何か、確信を得たのかしら……それとも、違和感からの……?」
独り言のように呟き、アクエリアムはナナリアの顔を見上げた。
「……本日フィニアス様からもたらされたお話は、王子殿下の御耳には入っておりません」
「……そう」
アクエリアムは、トントンっと人差し指で机を叩く。
(……これは、どうしたものかしらね)
「……王子殿下は、なんと?」
「婚約の承認を、と。それから……自分の身に起きた事の詳細を知りたいらしいわ」
本日フィニアスから『啓夢』の内容を聞き、驚くよりも先に、「あぁ、やはり」と納得した。
オーケヌスの様子が、『還魂の儀』から変化したのはわかっていたが、結果良い方に向かうのならそれで良いと思っていたのに。
アルシエから召喚されたと思われる少女、ティアが来てからというもの、オーケヌスの変化が顕著になった。
オーケヌスの中には、混ざり合った二つの魂が存在している。一つは、オーケヌス自身の魂。もう一つは、元々アルシエの住人である、『器』に宿った魂。
本来であれば、『魂合の儀』により、二つの魂は完全に一つに融合するはずだった。
そもそも『器』に宿った魂は、所詮予備であり、まさかそこに感情があるなどとは、思っていなかった。
しかし、アクエリアムは徐々に変化する息子に、不安をおぼえていた。
アルシエにも、ここと同じ様に人々の生活があり、『器』にも、自身の感情がある……。
それに気づいたのは、オーケヌスが倒れた理由を知った時。神の世界であるリュリュイエと違い、神の力など行使できるはずもない、アルシエの人間……『器』に宿った魂が、『魂合の儀』を発動させたと知った時だ。
フィニアスは言っていた。ここではない、どこか――アルシエと思われる場所で、オーケヌスによく似た少年が……と。
あの時、強引にオーケヌスの身体に魂を呼び戻したことで、何か異変が起きていても不思議ではない。
仕方なかったのだ。あの少年に、感情があろうとなかろうと、混ざり合って彷徨っていた魂の行き場は、アルシエにはもう無かったのだから。
オーケヌスの身体に呼び戻したことは、間違っていない。
――もしもあの時、二つの魂が完全に溶け合わなかったとしたら。今回、アルシエから召喚されたらしい「ティア」と名乗る少女の魂と、オーケヌスの中にあるアルシエの少年の魂が、引き合い、影響することもあるのだろうか。
本日フィニアスより、新たな『啓夢』の発動により得た情報は、とても無視できない内容であった。
オーケヌスの中にあるもう一つの魂の持ち主の少年と、ティア。二人はあろうことか、元々とても親密な関係であったことが判明した。
どうりでティアを気にかけるわけだ。と納得した。
オーケヌスの魂が、『器』の魂に完全に飲まれてしまうことがあってはならないと、アクエリアムは内密に勅命を出すことにしたのだ。
自分の息子の全てを暴く。それは、家族を大切に想うアクエリアムにとっては、とても辛い決断だった。
しかし、リュリュイエの女王として、神の血を引く者としての責務が、そうするしかない、と決断させた。
アクエリアムは同時に、もう一つの重い決断をしようとしていた。
ティアが現れた当初、試してみようとしたこと。
――あの時は、オーケヌスの行動により、防がれる結果になったが。
アルシエの住人で、ミオティアルの『器』である彼女の魂に、危機を負わせる。
そうすることで、失踪したミオティアルの魂を、ティアの中に呼び込み、融合させる。
オーケヌスの身体に起きたのだ、ミオティアルとティアの間にも同じことが起きるであろう。
だかそれは、もし気づかれれば、オーケヌスと、オーケヌスと共にいる少年が、どんな反応をするか……。
アクエリアムは一度難しい表情をした後、視線をナナリアに向ける。
「アクエリアム様。いかが致しますか?」
主の心が決まったのだと判断したナナリアが、静かに問う。
「……そうね。では、五日後に手配して頂戴。それと……それまでにお願いすることがあると思うから、明日の朝までに指示をまとめておくわね」
「……かしこまりました」
そう言ってナナリアは、「おやすみなさいませ」と部屋を出ていった。
一人になったアクエリアムは、冷たくなった黒茶を飲み干すと、残っていた仕事に再び取り掛かる。
彼女の脳裏に、ある言葉が過ぎった。
――君はなんでも抱え込み過ぎる。憶えておいてくれ。君は独りではない。私がいるのだから。
(……ウラヌセウト……貴方は、わたくしの決断を、どう思うかしら)
次回更新は木曜夜です。




