2.悪役令嬢が婚約破棄される件
体をゆすられる感覚と共に、僕はぼんやりと意識を取り戻した。
目を開けると、僕の目前にはメイドの格好をした若い女性が涙を浮かべており、僕は彼女に抱きかかえられていた。。
「お嬢様!お嬢様!」
いや、メイドさんに抱きかかえられるのは大変結構なことなのだが、誰のことを言っているのだ。
しかし、意識がはっきりするに従い、僕は状況をだんだんと理解してきた。
そう。新しい肉体の中に入ったということは、脳の記憶も共有することになる。
僕は、伯爵令嬢ヌトセ=カームブルの肉体に転生してしまったのだ。
ちょっと待て、女の体だと?
これってなんの罰ゲームだ?いやご褒美なのか?
とにかく、まだ混乱している僕をメイドが抱きしめた。
やっぱりご褒美だったようだ。
「あー、お嬢様、ご無事だったようで何よりです。
ラグナラは心配で死ぬ思いでした」
そうだ、この子は僕、つまりヌトセ付きのメイドのラグナラだ。
ラグナラの胸の中で僕はヌトセの記憶を引き出し、今の状況を整理していった。
ヌトセは高慢で狡猾な女だった。社交界ではライバルをあの手この手で罠にはめて蹴落とし、地位の高い者にはその美貌で取り入り、ついには皇太子の婚約者にまで上り詰めていた。当然、その過程で他家の令嬢の多くから恨みを買っていたが、そんなものは自分が皇太子妃になってしまえば力づくで押さえつけることができる。何の問題もない。僕は全てを手に入れることができるのよ。おほほほほ。
そこまで考えて、はっと正気に返った。
いかん、ヌトセの記憶によって、僕の人格も影響を受けている。冷静になって状況を分析しよう。
そうだ、先程王宮の使者がやってきて、皇太子から婚約破棄されたことを下知されたのだ。
カームブル家は大騒ぎとなり、とにかく父親がヌトセを伴って王宮に真意を正しに行く準備を始めたのだが、その隙にプライドの高いヌトセは自室のテラスから身を投げたのだ。
ん?これって、なろう系でよくある悪役令嬢ものなのか?僕は乙ゲーはしないからよくわからないが・・。
まあとにかく、それでヌトセが死んで、その体に僕が入り込んだってわけだな。
一応体の損傷は修復されたのか、問題はないようだ。
僕はとにかく周りに違和感を与えないよう、状況に合わせることにした。
「ラグナラ、心配をかけたわね」
女言葉をしゃべるのは気持ち悪いかとも思ったが、ヌトセの記憶を使っているせいかすらすらと言葉が出て違和感がなかった。というか、ヌトセの言語中枢を使ってこの世界の言葉を使うため、ヌトセがしゃべっていたしゃべり方を使うのが一番簡単だった。
「わたくし、少し混乱して取り乱しましたが、今はもう大丈夫です。
お父様と一緒に王宮に行きますから、準備してちょうだい」
「はい、お嬢様」
ラグナラはそう答えると、急いで立ち上がり、そそくさと準備を始めた。
いやもうちょっと抱きしめたままにしてもらえばよかったかも。
王宮に向かう馬車の中では、父親のカームブル伯爵と向かい合わせに座っていた。
「自ら命を絶つなど、早まったことをするでない、ヌトセよ」
「はい、お父様。
発作的に飛び降りてしまいましたが、もう落ち着きました。
二度とあのようなことは致しません」
「とにかく無事でよかった。
お前には将来后妃になって、わが家を引っ張り上げてもらわねばならんのだからな」
もしかしてこの父親は、ヌトセの体の心配ではなく、政略的利用価値の心配をしているのか、と僕は疑問を感じた。
「でもお父様、使者の方が婚約破棄って・・」
「ヌトセ、この婚約破棄についてなにか心当たりはないのか」
「はい、お父様。私にとっても寝耳に水のことですわ」
と言ったものの、これまでのヌトセの行いを考えれば、誰かの讒言によるものであろうことは予想がついた。僕は乙ゲーはしないが、悪役令嬢もののアニメはたくさん見ているのだ。
「ふむ、どういうことだ。
おまえが将来皇帝の妃になることで、カームブル家もいずれは侯爵、いや公爵にだってなれることを夢見ておったのに、これでは台無しではないか」
いや、おとーさんの教育にも問題があったのではないですかー、とつっこみたかったが、言えるはずはなかった。
馬車はすぐに王宮に到着し、謁見の間に通され、しばらくして皇帝と皇太子が謁見の間に現れた。
カームブル伯爵はうやうやしく頭を下げ、早々に口を開いた。
「皇帝陛下におかれましては、そのご威光あまねくいきわたり参らせられ、お慶び申し上げます。
さて、本日皇太子殿下のお名前により娘ヌトセとの婚約破棄のお知らせを受領いたしましたが、そのご真意をお聞かせいただくべく参上いたしました。
本件、いかがでございましょうか」
皇帝ルートラ=ディオールは覇気のない声で気だるそうに応じた。
「皇子よ、お前が応えてやれ」
その指示に従い、皇太子シュイが前に出てきた。その後ろには赤髪の若い女性が立っていた。
「父上に代わって私シュイが説明してやろう。
伯爵令嬢ヌトセ=カームブルよ、お前の数々の悪行はすでに明らかにされている。
こちらの聖女シアエガに対する非礼の数々、知らぬとは言わせぬぞ」
うん、たしかに相当ないやがらせをしたことがヌトセの記憶に残っていた。
してみると、あの聖女シアエガという赤髪の女が乙ゲーのメインヒロインだったんだな。
彼女は傷や病人を癒す光魔法を得意とするため、聖女と呼ばれている。平民の分際でヌトセにないその能力にむかつき、また皇太子がそれを重宝することにさらに嫉妬して、ヌトセはシアエガを陥れようとした。まあとにかく、あんなことやこんなことをした心当たりがありすぎて、自分でもこの結果に納得である。
だた、自分が糾弾されているにもかかわらず、どこか他人事として客観的に状況を観察していた。まあ僕自身がやったことではないからな。
「それだけではないな、ヌトセよ。
多くの令嬢たちからお前の悪行に関する証言を得ている。
私は将来この国を治めていく者として、お前のようなものを婚約者として認めるわけにはいかない。
二度と私の前に顔を出すな」
うんよかった。
たとえ皇太子であろうと、男の妻になるなど考えただけでも身の毛がよだつ。
せいせいした気分だったが、一応家のためにも礼節は保っておくことにした。
「これまでのわたくしの数々の所業について、今となっては忸怩たる思いでおります。
残念極まりますが、殿下がお決めになったことでありますので、ご意向に従います」
礼儀にのっとった作法で頭を下げ、さっさとその場を後にした。
残された皇太子は唖然として立っていた。もっと自分に執着して言い訳などをするものと思っていたのだろう。
帰りの馬車では、当然のことながらカームブル伯爵は激高していた。
「なんということだ、この恥さらしめ。
よそのご令嬢たちになにをしたのだ」
いや、他を押しのけてでも皇太子の寵愛をものにしろと言ってたのはあんただろ。
「ああー、わしはどうしたらいいのだ。
これではカームブル家は他家にどう償えばよいのかわからん」
しばらく頭を抱えて黙り込んだ後、カームブル伯爵はこちらを睨みつけて言った。
「お前を勘当する。
そうだ、悪行を働いた娘を勘当することで、わが家は悪行を許さないことを世間に示すことができる。
家に帰ったらさっさと荷物をまとめて出て行け。
もうお前は赤の他人だ」
突然の宣言に一瞬驚いたが、よく考えるとそんなに困ることでもない。
今日初めて訪れた家や家族には別に未練はないし、実は行き先や収入の当てもある。
そもそも娘を政略の道具としてしかみなしていない父親なぞ、こっちから願い下げだ。
さっさと出ていくことにしよう。
一応今後のために、後足で砂をかけて出ていくような真似だけはやめておこう。
「わかりましたお父様。
カームブル家にこれ以上迷惑をかけないようにするために、私は身を引くことにします。
これまでのご恩は決して忘れません。
ほんとうにありがとうございました」
なんだかこれまでとえらく違う娘の反応に戸惑いながらも、カームブル伯爵は娘を遺留することはなかった。
葛藤するカームブル伯爵をよそに、家に着くまで僕はすでに冷静に別のことを考えていた。
荷造りする際、自分の持ち物で何を持ち出せば効率がいいだろうか。
お金になる物はあっても困らないのだ。
家につくと早速荷造りした。
だいたい考えがまとまっていたので、さっさとまとめることができた。
よし、これぐらいなら負担なく持っていけるだろう。
部屋を出ようとしたとき、ラグナラが飛び込んできた。
「お嬢様、出ていかれるってほんとうですか」
なぜかラグナラだけは心底ヌトセになついている。
ヌトセの記憶を持つ僕としてもラグナラには好感を持っており、彼女を置いていくことだけは後ろ髪をひかれていた。
「ラグナラ、私は出ていくけど、あなただけはいずれ私が引き取るから、それまで待っていてちょうだい」
「お嬢様ぁ」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたラグナラを残し、僕は家を後にした。