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戦史に残る死闘 ~福岡県・岩屋城の戦い~

作者: 三野原明音

 皆さんは福岡県・太宰府市の四王寺山を舞台に繰り広げられた「岩屋城の戦い」をご存知だろうか。

 この戦いを話題に出すと、「そのような豊臣秀吉の九州平定に大きな影響を及ぼすような出来事が福岡であったのか」とびっくりされる方も少なくない。

 そこで、今年も七月二十七日の城兵たちの命日を迎えたばかりなので、よかったらしばらくこの話にお付き合いいただきたい。


 領地拡張のためにしのぎを削る有力武将たちがひしめく九州の戦国時代において、一時は薩摩の島津と九州を二分するほどの勢力を拡大していた豊後の大友宗麟は、天正六(一五七八)年の耳川の合戦において島津義久に大敗するや、味方の有力国人による離反が相次ぎ、その立場は風前の灯となっていた。


 このような大友の没落にも関わらず、敢然と主家に忠義を捧げたのが重臣・立花道雪と高橋紹運である。

 しかし、道雪は生涯三十七戦三十七勝、その勇猛さを諸国から恐れられていたものの、肥前の龍造寺との戦闘のさなか、惜しくも陣中にて病没。これを好機とみた島津軍は北上を続け、ついに天正十四(一五八六)年七月、高橋紹運の居城・岩屋城に五万の大軍で迫った。

 城中の将兵はわずかに七百六十三名。

 多勢に無勢は一目瞭然であったが、紹運側の士気は高く、徹底抗戦を続けた。


 対する島津は落城に数日ともかからないと見ていたところ、戦況は膠着し、おびただしい死傷者が出るに従い、再三の降伏勧告を紹運に試みるも、彼は、「生者必滅は世の習いである。国が衰えても義を守り筋を変えないのが武士の本分であろう。もし島津が衰えたら、貴殿は君主に背き、国を捨てられるのか」と、まったく動じる気配がない。


 ついに戦闘は半月におよび、島津側の死傷者は死者二千五百名、負傷者千五百名に上った。

 が、紹運側の獅子奮迅の活躍も虚しく、二十七日午前四時より、猛烈な白兵戦が八時間にも及び、さしもの岩屋城の防衛線も次々と破られる。

 紹運は本丸の櫓で部下を励まし、死者には一人ひとり会釈してその労をねぎらい、負傷者には手ずから薬を与えて介抱した。が、次々と城内に押し寄せる敵兵の群れを見るや、自ら長刀を手にして斬り込み、さんざん敵を薙ぎ払うと、もはやこれまで、と本丸に戻り、辞世をしたため、従容として自刃した。


「流れての末の世遠く埋もれぬ  名をや岩屋の苔の下水」

 時に天正十四年七月二十七日の暮れ、紹運、行年三十九歳。


 生き残りの将兵五十名も紹運の死を見届けると、次々とこれに殉じ、ここに七百六十三名すべてが討ち死にしたのである。


 勝利した島津側の反応は、「大刀洗町史」に詳しい。以下、そのまま抜粋させていただく。

 「寄せ手の大将・島津忠長は、首実検の際、床几を降りて礼拝した。

 紹運の鎧の引き合わせにあった文一通が発見され、開いてみると、

『数度の御意見かたじけなく存じます。ご助言に従わなかった理由はいろいろあります。もちろん私の宿意ではありませんので、少しも恨みには思いません。後日の批判、ありていになさって下さい。無心を申すようですが、この手紙を大友のところに届けて下されば有難い』

と日頃親しくしている友達に頼むように書いてあったという。

 島津忠長は涙を流し、『さても数少ない勇士であることよ。この人を生かしておいて友としたならば、どんなに清々しいことであったろう。弓矢の道こそ恨めしいものはない』と涙にむせび、しばらくは言葉もなかったという。」


 この岩屋城の戦いによって島津軍の進軍は膠着し、結果、秀吉を総大将とする二十万の島津討伐軍の到着を許す遠因となった。九州全域を手中に収めるという島津の野望は潰え、翌十五年の四月十七日に島津義久が根白坂で大敗すると、ついに島津軍は降伏することとなるのである。

 これが俗に言う秀吉の九州平定だ。


 さて、岩屋城の戦いにおいて、高橋紹運をふくむ城兵七百六十三名が全員討ち死に、あるいは自害したことは、戦況を見物して強い側につき、あるいは逃げだす兵が珍しくなかったこの時代、その忠義は多くの人々に語り継がれ、かの秀吉をして「戦場の花」とまで言わしめた。


 ところで、この戦いには後日談がある。


 岩屋城の戦いを前にして、ある日、高橋紹運は部下の藤内左衛門丞重勝を呼び寄せて次のように語った。

「お前はもはや年老い、戦いには向かぬが、その信心には深いものがある。よって、この仏像を持って山を下り、亡き将兵を弔ってほしい」

 命を受けた重勝は、現在の太宰府市宰府の地に庵を建て、仏像を安置し、岩屋城の戦死者を弔うために名を正順と改め、西正寺を開基した。

 紹運が重勝に託した本尊は今も寺に伝わり、落城の日である七月二十七日には縁者が集まり、毎年追悼の法要が行われている。


 私は、ある八月の抜けるような夏空の下、岩屋城跡を訪れたことがある。


 山腹にある本丸跡に立つと、見渡す限り連なる筑紫の山々のパノラマは、まさに圧巻であった。

 目を移すと、眼下に太宰府市街の甍や九州国立博物館の波打つ屋根が銀色に輝き、この地から五万の薩摩軍を見た紹運側の心境はさぞや、と思いやられた。

 戦場跡と言えば、何か血なまぐさいものを感じてしまうものだが、ここの広場にはなぜかそのような空気はなく、むしろ、清々しい気持ちに満たされる。

 現在、岩屋城跡の地は、知る人ぞ知る展望スポット、夜景の名所として知られている。



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引用・参考文献は下記の通りです。後記して感謝申し上げます。

「大刀洗町史」、「柳川藩資料集」、「柳川史話 全」、「筑後市史 第一巻」

「岩屋山西正寺縁起」



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