第67話 地獄の入り口
『雷上動弓』事件から数日後。
「…………」
ギリリ。
湾曲した竹弓が、弦に引かれて力を溜める。
「っ!」
解き放つ。
風を掻き分ける高く鋭い音が引き、放たれた矢はタンッという快音を響かせて、的のほとんど真ん中に突き立った。
「やったっ!」
射を行った人物――ラティは、的に生えた矢羽に、己の成功を確認していた。
「おー。すげえ」
俺はそれを斜め後ろで眺めながら、ラティの才能に舌を巻いた。
「昨日教えてもらったばっかりなんだろ? すごいじゃないか」
「えへへ。それほどでもありませんけど」
ラティは謙遜しつつも、照れくさそうに猫耳をぴこぴこと動かした。
「……ところでリュースケさんはこんなところで何を?」
「……」
俺は視線を逸らし、見るともなしに射場に並ぶ他の門下生たちを眺める。
皆熱心に射に励んでいるようだ。
「確か、ナズナちゃんから組手に誘われていませんでしたか?」
「……」
俺はさらに視線を明後日に飛ばす。
壁際にはいくつもの竹弓が所せましと立てられていた。
「……」
「……」
「……逃げてきたんですか?」
「ち、違うし。逃げるとかじゃないし。ちょっと、あの、休憩してるだけだし」
数日前――『雷上動弓』を引いた日の翌日から、俺の修行という名の別のナニカは始まった。
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3種の神具のひとつ、『雷上動弓』を引いた次の日のこと。
朝食の後で、俺は柊家から熱烈な勧誘を受けていた。
「鍛練ねえ……」
「おう。婿殿が使った『錬気』をより高めるためにな」
錬気。
生命の力がどーとか説明されたが、要するに魔力とは似て非なる不思議パワー……「気」を使いこなすための技術のことであるらしい。
「気が誰にでも存在する力である一方で、しかし錬気を行える者は数少ないのです。兄上様の天賦は昨日、この目で拝見しました。是非、共に鍛錬に励みましょう!」
ナズナが見えない尻尾を振りながら、にこにこと擦り寄ってくる。
「でもなあ……」
「なんだ、竜輔殿は強くなりたいのではなかったのか?」
渋る俺に、ナツメが訝しげに尋ねる。
「まあそうなんだけど……ほら、鍛練とか修行とかって疲れそうじゃん? 俺って面倒なのは嫌いだし、出来る限り楽して強くなりたいんだよね」
「駄目人間過ぎるだろう!?」
ナツメがいきり立って叫んだ。
だってー。
「はっは。そう言うな婿殿。鍛錬だって辛いことばかりじゃねぇよ。今ならナズナが手取り足取り楽しく指南してくれるぜ?」
……ほ、ほう。手取り足取りとな。
チラ、とナズナを見る。
ナズナは俺と目が合うとにこりと笑った。
「おまかせください!」
……ちょっとだけ、試しにやってみてもいいかな。
やっぱり自分を磨くっていうか、そういうの、大事だと思うしね。うん。
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柊家の中にある畳敷きの一室。
錬気は本来門外不出の技であるとのことで、今この部屋には俺とナズナだけがいた。
さあ、可愛い女の子と2人っきりの、楽しくて嬉しい個人授業がはじまるよ!
「いだだだだだ!?」
と思ったけどそんなことはなかったぜ!
「さあ兄上様。これで右肩から先に気の淀みを感じることと思いますが……」
「感じない!? というかひたすら痛い!?」
背中に感じる柔らかなおしりの感触。
そしてそれを打ち消して余りある右肩の激痛。
俺は今畳の上にうつ伏せで寝ており、背中にはナズナが乗っている。
何をしているかと言えば。
「ギブ! ギブ!」
「ぎぶ?」
ナズナが俺の右腕を捩じりあげ、情け容赦なく関節技をかけているのである。
「……よくわかりませんが、兄上様。よいですか。いかなる状況下においても気の流れを掌握し、常に正しき気の循環を保つのです」
どうやらナズナは極めた関節を解放するつもりはないらしい。
「血の巡りと気の流れは似て非なるもの。肉体という器の状態に引きずられてはなりません」
この状態で『内錬気』……つまり気で肉体の強化を行うという修行なのだが、痛みに意識が拡散し、集中できない。
俺は悶え苦しみながら、必死の思いで質問を絞り出す。
「ぐ、具体的にはッ、どのようにッ!?」
「こう、なんと申しますか…………気合いで!」
「気合いで!?」
「右肩で淀む気を、すーっと通すのです。するとさーっと気の巡りが始まりますよね?」
「でたな天才理論!? ますよねって言われても!?」
すーだとか、さーだとか言われても分かるか!
キルシマイアに魔法を教わった時を彷彿とさせる擬声語の連続に、頭を捻る。
しかしあまりの激痛に思考回路がうまく働かない。
「しかしなかなか外れませんね……!」
「今なかなか外れませんねって言った!? それ関節のこと!? ねえそれ関節のこと!?」
「えいえい!」
「いだッ!? ちょ、シャレになってな……いでぇぇぇ!?」
「大丈夫です兄上様! わたくし、関節を嵌めるのは得意ですので! 安心して気の掌握に集中してください!」
「何も安心できねえええ!?」
いきなりハードモードすぎる修行内容に、涙がちょちょぎれた。
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その日の午後
俺は柔術道場の片隅で、道着に袴を履いた義月と正面から向かい合っていた。
近くの壁際には、退屈そうに帝ちゃんが座っている。
その立ち姿は力強くも清冽にして、淀みない川の如く。
自然体でありながらも機能的とでも言えばいいのか。
素人の俺から見ても、征夷大将軍、足利義月は「完成」されていた。
「正しき『錬気』は正しき体術によって磨かれる」
おもむろに、義月が語りだす。
「またその前の段階で強い肉体が必要になるのだが、竜輔の場合それについては問題ないように思う」
「そうなのか? これといって体を鍛えた覚えはないけど」
「むしろそれで正解だろう。お前の肉体は奇跡的にも理想的な釣り合いに保たれている。それ以上鍛えようとするならば、よほど熟達した師の元で慎重な鍛錬が必要になる」
さもなくば、体全体のバランスが崩れてよろしくないらしい。
「まあそれは源之丞殿に任せるとしよう。話を戻すが、竜輔の体術は素人同然だ。肉体や気の強さに比してこれは釣り合いがとれていない。結果、不安定な『錬気』しか行うことができない」
「なるほど」
「そこで基礎的な体術から、この義月が教授してやろうということだ」
そういうことらしい。
「前置きが長くなったな」
義月は両腕を腰だめに構えた。
「ふっ!」
鋭い呼気。
左手を引きながら右足を一歩踏み出す。
それと同時に右拳を前方に放った。
いわゆる正拳突きである。
「基本の突きだ。やってみろ」
特にコツを教えるでもなく促す義月。
まあいいけどね……。
俺は見よう見まねで構えをとり、義月の動きをトレースする。
「せいっ」
俺の右拳が空気を割った。
我ながら、義月に劣らない、なかなかの突きを放ったように思う。
「……ふむ」
義月は顎に手をあて、俺の全身を観察している。
「もう一度だ」
言われ、正拳突きを繰り返す。
「……なるほど、な」
義月はかぶりを振りながら、軽いため息をついてみせた。
「え、なんかまずかった?」
「いや、完璧だった」
じゃあその反応はなんだよ。
「完璧に、私の突きだな、それは」
「?」
どういうことだ。
「竜輔。お前のその目は『見えすぎる』」
「目が、見えすぎる?」
「わかっていると思うがその金の瞳は……いや待て、もしかしてわかっていないのか?」
「……何が?」
俺が困惑を見せると、義月は視線を逸らして眉根を寄せた。
「これは、口が滑ったか」
「何のことだよ。俺の目が、なんだって?」
「いや……ともかく、お前の突きは私の突きをそのまま行っているに過ぎない」
なんだかとても気になることを言われたが、無理矢理話を戻されてしまった。
「……それだと何かまずいのか?」
「うむ。人はそれぞれ体格が違う。筋や関節の柔らかさもな。突きひとつとっても、最適な動作は千差万別。お前にはお前に合った『突き』というものがある」
……なるほど。
見て、真似をするのは得意だが、そこまでは考えていなかった。
「無論、これは一朝一夕で身に着くものではなく、まずは形から入るという意味ではお前の『見よう見まねの突き』は正しい。そこから自分に適した突きへ徐々に近づけていくしか――」
「せいっ」
自分の体格や体重、関節の可動範囲と筋の柔らかさを考慮に入れて、できるだけ威力が乗るように、再度突く。
ブォン!
明らかに先ほどよりも空気を切り裂く音が強くなった。
「おおー。なるほどなー」
「……」
「……ん? どうした?」
「……いや、なんでもない。竜輔はそういうヤツだと理解した。だったら手加減はいらないな」
え? 何? どういうこと?
「あとは組手にしよう。お前にはそれが一番早い」
義月はにこりと笑みを見せ、俺の襟首をがしりと掴む。
「――どぅわっ!?」
気づけば床に叩きつけられ、全身を強く打っていた。
「いってぇ!」
「さ、今のが投げの基本だ。覚えたな? 次にいくぞ?」
「え、ちょっと、待っ――ひい!」
義月の容赦ない右回し蹴りを、ぎりぎりで下がって躱した。
「蹴りの基本だ。ふむ、勘だけでよく避ける。次っ」
「いや、だからっ。心の準備がっ!?」
そうして次々に繰り出される技を、俺は必死に受け、躱すしかないのだった。
どうしてこいつらはこう、スパルタ形式なのだろうか……。
気づけば、帝ちゃんは壁によりかかって寝ていた。
助けてください。
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その日の夕刻。
お屋敷の一室で、俺は源さんと向かい合って座っている。
「よーし婿殿。次ぁ俺の番だな」
いかにも嬉しげに歯を剥き出して笑う源さん。
「……」
目の前に『雷上動弓』の箱が置いてある時点でもはや嫌な予感しかしない。
「内錬気はナズナ、体術は義月に任せるとしてだ」
源さんは『雷上動弓』の入った箱を、とんとん、と軽く叩いた。
「俺の課す修行はこいつだ」
「……雷上動弓」
「ああ。こいつを引いてもらう。ただし、内錬気はなしでだ」
「まじかよ……」
めちゃくちゃキツいんだぞこれ引くの……。
「でもこれ国宝じゃないのか?」
「あるものは使う。どうせ他の誰も引けねぇんだから気にするこたぁねぇよ」
源さんは蓋を開けて、スススと箱をこちらへ押しだす。
「さ、いつでもいいぜ」
「……わかったよ。やりゃあいいんだろ、やりゃあ」
「おう。全力で引けよ?」
俺は弓懸を手にはめ、雷上動弓を手にとった。
立ち上がると、弦に手をかける。
「フンッ!」
引く。
「ふぬらっ!」
引く。
「うごごご!」
引く。
「って、やっぱ、これ、むり、だろ……!」
弦はぴくりとも動かない。
「じゃ、俺ぁちぃと出かけてくるからよ。戻ってくるまで引いてるようにな」
そう言って源さんはにこやかに立ち上がる。
「……え。引いてる、ようにって、どのくらい……!?」
源さんは障子戸を開けて、にやり笑いで振り返る。
「引けるまで」
ぱたん。
「うぐぐぐぐ……!」
だから引けねぇっちゅーの!
「うおぉぉぉ!」
その後約30分間、俺の気合いだけが空回りする時間が続いた。
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30分後。
「ぜぇー……はぁー……!」
俺は全身汗だくで雷上動弓を引き続けていた。
ここまで疲労したのは人生の中でも初めてかもしれない。
ふと、障子戸の向こうに人影が見えた。
このシルエットは……。
「ふむ。やっているようだな」
障子戸を開き、入ってきたのはナツメだった。
感心感心と上機嫌に頷いている。
「源さん、は?」
息も絶え絶えに尋ねる。
「父上はあれでも多忙なのでな。代わりに見に来た。とりあえず引くのをやめていいぞ」
「ぶはぁ!」
両腕をだらんと脱力し、俺は大きく息を吐いた。
「し、死ぬかと思った」
「はっはっは。おおげさだなあ竜輔殿。そのくらいで人は死なんよ」
「じゃあお前がやってみろよ……」
「それはまた今度な。その前に父上から次の指示を頂いている」
「……次?」
ちょっと待って。
「うむ。次は左手用の弓懸をはめて、左で四半刻ほど引くようにとのことだ」
「嘘ぉ!?」
「拙者がしっかり見ていてやるから、怠けたりせぬようにな」
「…………くっそぉぉぉぉ! やってやらぁぁ!」
楽しそうなナツメに見られながら、俺は地獄の30分を繰り返すのだった。
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そんな日々が続き、今朝、今日は組手をしながら内錬気の修練を、とナズナに誘われたのだが。
タンッ!
「逃げても無駄だと思いますけど……」
ラティは2本目の矢を的に当てながら言う。
「逃げてないし! 休憩だし!」
「そうなのですか? よかった!」
「えっ!?」
唐突に、背後から聞こえたナズナの声に、俺の心臓が飛び跳ねる。
「ささ、兄上様。休憩はこのくらいにして組手に戻りましょう」
「いや、あの」
「……まさか、嫌なのですか?」
ナズナは両目をうるうると潤ませて、見えない尻尾と耳をしゅんと折りたたむ。
「嫌なわけないだろ! なんなら今ここで始めてもいいくらいだぜ!」
「まあ! うふふ。兄上様ったら。ここは射場ですよ? ご迷惑になりますから、練武場へ行きましょう?」
「……はい」
「今日は義月様も一緒ですから。たくさん組手ができますよ!」
「ワーイ。ウレシイナ」
美少女の頼みは断らない、という自分ルールがなければとっくに投げ出しているだろう。
こうして今日も、地獄の特訓がはじまる。
「死なないでくださいね……」
去り際、ラティの言葉が胸に突き刺さった。