第65話 天賦と天賦
柊城に到着してから、明けて翌日。
俺は今、ナツメの妹――ナズナと組手をするという約束を果たすべく、柊流柔術道場の前に立っていた。
他にも剣術の道場と弓術の道場が別にあるようだ。
ところで○術の道場って『道場』でいいの? 練武場?
「竜輔殿。何かまた現実逃避をしていないか?」
にこやかな顔のナツメに、思考の横道から連れ戻される。
「兄上様! ささ、どうぞ中へ! さあさあ!」
ナズナは、入り口の木戸に手を掛けながら、待ちきれないというように俺を促した。
木戸の向こうからは、今日も門下生たちの威勢のいい声が聞こえてくる。
それでも入るのを渋っていると、
「婿殿。遠慮するこたぁねえぞ?」
ナツメの父親、源さんこと源之丞氏の大きな手の平が、がしりと俺の肩に乗せられた。
竜輔は逃げ出したい。しかし柊家に囲まれてしまった!
「リュースケ。手加減はしてやるんじゃぞ」
ニナはどうしてそこまで余裕なのか。
「リュースケさんだから心配はしていません」
ラティ、心配はしてください。俺も人間です。多分。
「りゅーすけがんばれー!」
「お手並み拝見といこうか」
帝ちゃんは義月の肩に乗り、手を振り上げて応援してくれている。
義月は好奇の目で観客に徹するようだ。
源さんの力強い腕にぐいぐいと押されて、無常にも俺は道場へと足を踏み入れてしまった。
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熱気と活気に溢れる、広い板敷きの道場内。
50人以上はいるだろうか。道着を着た男たちの暑苦しい気勢が飛び交っていた。あっ、女の子もいる。
「稽古止めッ!!」
源さんが太い声を張ると、門下生が一斉に動きを止め、こちらを見る。
ニナやラティを見て驚く者、ナツメを見て「棗様だ」と気づく者。源さんに親しげに肩を組まれている俺を見て訝しむ者。
十人十色な反応の中で、俺はため息を押し殺す。
「よし。全員端に寄れ。これから薺の公開組手を行う」
『薺様の――』
『今日は誰が犠牲に――』
『お前いけよ』
『い、いや俺は――』
そこっ。不吉な私語は慎め!
「相手はこの男、法龍院 竜輔。棗が連れ帰った婿だ」
にやり、と笑う源さん。頭を抱えるナツメ。
『む、婿っ!? 棗様の!?』
『嘘……だろ……?』
『あの棗様に男なんてできるか?』
『見栄を張ってるんじゃないか?』
『ああ……』
「煩いぞ貴様ら! あと婿じゃない!」
ナツメがキレてがなり立てた。
「ささ、兄上様! ささささ!」
ナズナがさっそく道場の真ん中あたりに陣取っている。
袴姿も似合っていて可愛らしいのだが……
ガルデニシアのような狂気でもなく、ナツメのような好戦とも違う。
なんだろう……遊んで欲しい子犬が、尻尾を振って喜んでるような?
やむなく覚悟を決め、ナズナの正面に立つ。
「よろしくお願いいたします!」
「……ああ、よろしく」
ぺこり。
互いに一礼して、身構えた。
ナズナの人懐こい笑みが消え、険しい武道家のそれになる。
途端、ナズナの空気が一変した。
! これは……
ナズナの体全体が、薄赤く発光していた。
この光は――ナツメが奥義を使う時に、刀に纏わせているものと似ている。
ナツメが言っていた“気”というものなのだろうか。
「……」
「……」
まずは互いに、動かなかった。
柔術には詳しくないが、どちらかというと攻めよりは受けの武術と認識している。そしてその通りに、ナズナは完全に「待ち」の態勢だ。
俺ができるのは学校で習った柔道くらいのもの。それもとりあえず襟首を掴み、足を払って投げてみる程度の素養でしかない。
ナズナの襟元を見る。
白い道着に包まれた体は華奢で、とても武道の達人とは思えなかった。
しかし胸元を押し上げるモノは16歳にしてはなかなかに立派だ。
ブラジャーなんてものはないだろうから、きっとさらしでも巻いてあるのだろう。
……まああれだよね。組手なんだからちょっとくらい触ってしまってもそれは事故だよね。
「とうっ」
俺はナズナの襟元に手を伸ばす。
が、
掴んだと思った俺の右手は、空を切った。
目はしっかりとナズナを追っている。
俺の右方向に、ナズナは避けた。
そう、目では追えていた。
――だが手は空を切った。
「せいっ!」
ズシリと重い、腰の入った一撃。
「っぐ!?」
ナズナの上段蹴りを戻した右腕で受けた。左足を踏んばり、衝撃を受け止める。
腕がギシギシと悲鳴を上げた。
16歳の女の子の蹴りか、これが。
ガルデニシアほどじゃあないが……。
ていうか袴で蹴るなよ。
よく知らないが、普通柔術には上段蹴りなんかないだろ。
ナズナはすぐさま俺と距離をとり、再び待ちの姿勢をとった。
少し周囲がざわついていたが、俺は自分の中の違和感と戦うので手一杯だった。
なぜ、掴めなかったのか。
「……ふんっ」
再度、右手をナズナの襟首に伸ばす。
大丈夫、ナズナの動きは見えている。遅くはないが、これなら……。
「!」
しかし右手は、空を掴んだ。
「はっ!」
考えろ。
俺はナズナの右中段突きを甘んじて受けた。
「ごっ……!」
右わき腹に突き刺さるナズナの拳。
痛い。煩い。今はそれどころじゃない。
さっきの感じ……見えているのに、掴めない。速くないのに、遅くない。
「しっ!」
「がっ……!」
続けてナズナの左回し蹴りがほとんど同じ箇所を打ち据える。
なぜだ。なぜ掴めない。感覚としては掴めることを確信していた。
タイミングが……そう、タイミング、だ。
ぎょろり、と、思考の海から上がった俺はナズナを見た。
「!」
鋭い風切音。
俺が振り下ろすように伸ばした右手を、ナズナはすんでに後退して躱した。
今のもそうだ……やはりタイミング……。
「間」を外されている、とでも言おうか。
これ以上ない絶妙の「間」。
それ以上早く避ければ俺は追いかけるし、遅ければ当然掴める。
それだけじゃない。体捌きの強弱……いや緩急か?
次は……掴める。
ぎりり。
右足を軸に、
「っら……!」
踏み込んだ。
「……!」
猛烈な勢いで、三度伸ばした右手をナズナが今度は左に避ける。
そこ。
右手を引きながら左手を伸ばす。
「……」
ス。
音もなく、ナズナが“ズレる”。
この、タイミングでもない!?
マズ……!
ナズナの左回し蹴りが、
「りゃあ!」
「ごッ!」
俺の腹部に直撃する。
だから、重い……っての!
「……っ」
苦し紛れに振るった左手は、屈んだナズナの上を通過する。
「っまだ!」
勢い右手を伸ばし掴……めない。
ナズナは俺から2歩ほども離れた場所にいた。
「あの、兄上様」
ナズナは心底不思議そうに首を傾げて、言った。
「これが本気ですか?」
……かっちーん。
あれ。そういうこと言うの。言っちゃうの。
おにいさん、ちょーっとだけ本気だしちゃおっか……。
「な!」
「!」
ブン!
躱すナズナを。
ブン!
避けるナズナを。
ブン!
追って、
ブン!
追って、
ブン!
追って、
ブン!
「おおおおおおおッ!!」
手を出す、出す、出す、出す、出す出す出す出す出す出す出す出す!
ナズナの回避は芸術的で、俺とナズナはダンスを踊る。
俺の両手はナズナに触れず。
しかし息もつかせぬ攻撃が、ナズナの反撃も封じ込めた。
加速する身体と裏腹に、視界の中では何故か俺とナズナはゆっくりと減速していく。
認識の加速。薄赤く光るナズナの動きは、今や蚊の止まるようなスローモーション。
だが、届かない。
掻き分ける空気が重くて、固かった。
「まだっ……!」
――もっと速く。
外す。
――違う。速さじゃ届かない。
躱される。
――見ろ。
避けられる。
――視ろ。
当たらない。
――観ろ。
ナズナの『間』…………。
………………。
…………。
……。
「…………ここか」
ガッ!
「ッ!?」
俺の右手は、ナズナの襟元を確かに掴んでいた。
瞬間、額に汗かくナズナの瞳が鋭く光って……。
「はれ?」
なんで景色が逆さ――。
「ま゛ッ!」
バキャァッ!
頭部の激痛と、木材の砕け散る乾いた音。
『あっ!』
板の向こうから聞こえるナズナの焦ったような声。
あら、ネズミさんこんにちは。
ここは床下……。
俺の頭は床板に突き刺さっていた。
『ああああっ! ごめんなさいっ!? おおお、奥義を使ってしまいました! 余りの速さに無我夢中で……! あ、殺めてしまったでしょうか!』
こらこら。勝手に殺してはいけない。
『落ち着け薺。竜輔殿なら大丈夫だ。殺しても死なない』
こらナツメ。それも何か違うぞ。
「ぬ……」
俺は見えない両手を床につけ、力を込めた。
ばきばきと穴を広げながら、頭を引っこ抜く。
顔を出した俺に、観客たちがぎょっとしたようにざわめいた。
「いっつつ……」
「あ、兄上様!? 大丈夫なのですか!?」
「ん? あー、大丈夫大丈夫。いや、参った。完敗だ。すごいなー、ナズナは。はっはっは」
ここまで手も足も出ないと、いっそ清々しい。
俺は尻もちをついたまま、けらけらと笑った。
「い、いえ。兄上様こそ、奥義を――天地をお受けになって……あの、本当に大丈夫なのですか……?」
「大丈夫だって」
俺は立ち上がって見せる。
「……はぁー! よかった……わたくし、殺めてしまったかと思いました!」
心底ホッとしたような表情を見せるナズナ。
「いやあの、そんな危ない技をかけるのはどうかと思うんですけど……」
「も、申し訳ありません。兄上様の動きがどんどん良くなってきて……掴まれたときには、殺らなければ殺られる! と……」
シュンと落ち込むナズナ。
殺りません。
「ハーッハッハ! ハァーッハッハッハ!」
なんか滅茶苦茶笑いながら源さんが近寄ってくる。
そして俺の肩をばしばしと叩きながら言った。
「婿殿、頑丈だなあ! どれ見せてみろ……おっ。血も出てねぇ。すげぇ石頭だ!(べしん!)」
「いてえ!」
笑いながら頭を叩かれた。
「もう! いけません父上様!」
めっ! と怒るナズナ。
「おう。わりいわりい。ははは。しかし、婿殿……おまえさん、本気じゃなかったな?」
「えっ。いや、最後のほうは割と本気だったと思うけど」
「……いいえ。兄上様は、終始手加減されておりました。だって投げを狙うばかりで、打撃を一度も使わないんですもの」
ナズナが困ったように笑う。
そりゃ、まあ。
だってこんな女の子を蹴ったり殴ったりできないし。
だからある意味、俺は俺のできる全力だった。
「こりゃあ! リュースケっ! 手加減しろとは言ったが負けろとは言っておらんぞっ!」
端っこのほうでニナがぷんぷん怒っている。
そう言われても、負けてしまったものは仕方ない。
「父上様。わたくし思うのですが」
「あん?」
「兄上様なら『雷上動弓』を引けるのではないでしょうか」
そう言ったナズナの瞳は、期待に満ち溢れてキラキラと輝いていた。