第44話 終わりと新たに、神、ひとはしら
「!」
エレメンツィアが、ニナとナツメを抱えて跳び退った。
「な、なんじゃアレは」
「『召喚』……いえ、『具現』の魔法陣でしょうか」
ニナが零した疑問に、エレメンツィアが律儀に答える。
「? それは一体――」
「く、ひ、ヒャハハハハ!」
片翼の男の狂笑が、ナツメの問いを遮った。
男が跳ぶように下がると、魔法陣は眩い輝きを放ちだした。
魔法陣上の中空に、黒い輪郭が具現化する。
そうして、ソレが生まれた。
「うげっ……」
生理的嫌悪感から吐き気を催したニナが、低く呻いて舌を出す。
体長は5,6メートル程だろうか。四足で立つその怪物は、未だかつて見たことのない、奇妙な生物であった。
黒光りする表皮はぬめりを帯びて、見るものの嫌悪感を掻き立てる。
瞳に該当する器官は見当たらない。
どこかにあるかもしれないが、じっくりと眺めて探したい容貌ではなかった。
大きく裂けた巨大な口からびっしり生えた牙が覗く。
その隙間からは、粘性を持った半透明の体液がボタボタと零れ落ちていた。
――醜悪。
在るだけで空気を重く淀ませる存在感。
ソレは恐ろしくグロテスクであり、そして確かな、脅威であった。
がぱ。
ソレが口を上下に開く。
口内は細く鋭い牙にびっしりと埋め尽くされていた。
――ォォォォオオオオオン!!!
脳髄を揺さぶる不快なオト。
ソレは、重金属同士がぶつかり合うかの如き奇怪な雄叫びを上げる。
音の振動で、口から溢れる体液が周辺に飛び散った。
ニナとナツメは耳鳴りと共に総毛立ち、おぞましさで全身に汗の玉が浮かぶ。
「これは、ベラールで聞いた……」
顔を顰めて耳を押さえながら、ナツメが呟いた。
(アレは、まずい)
ナツメはそう思ったし、ニナも脳内で言語化はされずとも、感覚的には理解していた。
アレは捕食するモノで、自分たちはそれを甘受する側であると。
恐怖と緊張、ナツメはさらに疲労によって、体中の筋肉が引き攣った。
エレメンツィアに抱えられていなければ、足が竦んで動けなかったかもしれない。
ソレが顕れてなお嗤い続ける男であったが、しかし一転、苦しげに顔を歪めた。
「ヒャはっ……っぐ……クソ……! やってくれたな、クソ共がぁあ!」
両腕から鮮血を撒き散らし、瞳を血走らせながら男が叫ぶ。
「あれは……魔法か」
「はい。魔法属性の具現化……地上ではすでに失われた魔法技術です」
今度こそ、ナツメの疑問にエレメンツィアが答えを返す。
「下等な猿共。原始的な魔法しか使えねぇテメェらには勿体無ぇが……精霊武器まであるとなりゃ、生身じゃちぃと面倒だ」
腕が痛むのか、脂汗を流しながら男が言った。
――ォォォォオオオオオン!!
バグン!
ソレは2度目の叫び声を上げ、地面に落ちた男の両腕を、いくらかの雪と土を巻き添えに丸呑みした。
ズチュル。
嫌悪を誘う不快な水音をたてて、男の右腕の切断部から、失われた腕が――生えた。
「「なっ!?」」
「……チッ。自分の肉体ですら50%に満たねぇか」
男は感触を確かめるように手のひらを開閉しながら、忌々しげに舌打ちをする。
「今の変換効率じゃテメェらを喰っても何の足しにもなりはしねぇ……が、関係ねぇ。オレの魔法、『摂食』の具現獣『バキュア』で……欠片も残さず喰い殺すッッ!」
――ォォォォオオオオオン!!
バキュアと呼ばれた汚獣は、主の命を受けて、地響きを上げながらその巨体を奔らせた。
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ところ変わって、ベラール族長ナラシンハの屋敷。
――ォォォォオオン!
山間に轟く怪音は、当然、ナラシンハ達にも届いていた。
ナラシンハとアミーシャは難しい顔で椅子に腰掛けて、音が鳴る度に体を震わせた。
「随分時が経ったけど……まだ終わらない、か」
良い意味でも、悪い意味でも。
ナラシンハは奇妙な焦燥感に身を焼かれながら、溜息を吐いた。
極度の緊張に顔を蒼ざめさせるアミーシャの肩を抱き、ナラシンハは自問する。
――このままで、いいのか。
無論、よくはない。
前族長……今は亡きナラシンハの父の決定により、ラティの姉、ラニが生贄になった時から……否、それよりずっと以前から悩み続けた問題である。
よくはないが、仕方がない。
最善でなくとも、最適な選択のはずだ、とナラシンハは思う。
自分なりに納得して、選んだ。
――本当にそうだろうか?
ならば書斎に山と積み上げた資料は何だ。
村の発展の為と称してその実、ヤツの情報を集めるためだけに交易を増やしたのではないのか。
――それは何のために。
決まっている。それこそ考えるまでもない。
「っ!」
ナラシンハはかぶりを振った。
下らない。現実を見ろ。リュースケの言った事は詭弁に過ぎない。
希望など、持つべきではないのだ。
――この身は、ベラール族6000人の命を背負っているのだから。
「……?」
俯いていたアミーシャが、ふと顔を上げた。
「どうした?」
「……ラティは、どこへ?」
言われ、ナラシンハもはっとする。
そういえば、先ほど用足しに、と言って部屋を出てから、戻っていない。
「まさか!」
ガタン!
大きな音を立ててナラシンハが立ち上がる。
乱暴に扉を開けて、驚く侍従たちを尻目にラティの私室へ駆け込んだ。
「……!」
ラティの弓は、そこになかった。
後から駆けつけたアミーシャや侍従、護衛たちもその事実に気がついて、沈黙する。
馬鹿なことを、などと、口が裂けても言えはしない。
部族のために死んでくれなどと言うほうが、よほどおかしな要求なのだから。
「族長……」
護衛のひとりが、ナラシンハに呼び掛ける。
ナラシンハは応えない。重苦しい空気がラティの部屋にわだかまった。
「……ふん」
その場の空気を撹拌すべく、ナラシンハが腕を組んで鼻を鳴らした。
「こうなっては仕方がないな」
何かを諦めたように、ナラシンハは苦笑を漏らした。
「あなた……?」
「アミーシャ、すまない。僕は多分、歴史に名を残す事になるだろう。最低の選択をした、最悪の族長として」
すぐには理解できず、首を傾げていたアミーシャだったが、その言葉の意味を咀嚼し終わると、息を呑んで瞠目する。
しかしすぐに、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「あなたがどのような選択をしようとも、私はどこまでも着いていきます。例え――」
――例え、辿り着く先が地獄の業火であろうとも。
それを聞いて、ナラシンハは覚悟を決めた。
族長としての賢い選択などクソ食らえ。
族長である前に、僕はひとりの父親なのだ。
そも、娘ひとりも守れずに、6000人を守ろうなどと片腹痛い。
護衛隊長に、視線を向けた。
「みなを集めろ」
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およそ10分後、村の中心にある広場で、ナラシンハは数年前に造らせた演説台の上に立ち、ほぼ全ての村人たちと向かい合っていた。
神の雄叫びを聞いて怯えていた村人たちは、一様に不安げな表情を浮かべている。
「ラティが山に登った。……弓を持ってだ」
――ざわ!
それはつまり、生贄としてではなく、神に抗うために登ったということ。
ラティの無謀な選択に、非難を投げかける者はしかし、いなかった。
恐れはある。畏れもある。誰だって死にたくないし、守りたい家族がいる。
――だからと言って、ラティを犠牲にすることが、平気なはずがない。
自分を生贄にしようという村人たちに怒るでもなく。
誰にでも優しくて、人懐っこいラティ。
村人にとって姉妹同然であり、娘同然であり、家族同然であるラティ。
そんな彼女が化け物に喰われるのを傍観することが、平気であるはずがなかったのだ。
抑え込まれていた感情はむしろ、ラティを擁護する方向へと弾ける。
「ナラシンハ様、それでは……」
村人を代表して、ラティの幼年期の教師役でもあった中年の獣人男性が、震える声で問うた。
恐怖にではない。期待に震えているのだ。
言葉の足りないその問いの意味を、ナラシンハはしっかりと把握して、頷いた。
少年のように小さな体を精一杯伸ばして胸を張る。
張りのある大きな声で、ナラシンハは全員に呼び掛けた。
「ラティだけにやらせはしない。神だか何だか知らないが、これ以上仲間を、家族を、むざむざ喰わせてやるものかっ!」
肌寒いはずの山村に、想いという名の熱気が立ち込める。
我知らず、ナラシンハの口元が笑みのそれにかたどられる。
――そうだ。僕は、これを望んでいたんだ。
ラニを、娘を怪物に差し出さざるを得なかった、忸怩たる想い。
「戦える者は武器をとれ! 数百年の汚辱を拭え! 狩猟民族ベラールの誇りを、今! このとき! 取り戻せっ!」
15年間溜め込んだそれを、言葉に変えて解き放つ。
「神を、殺せッッッ!!!」
――オオオオォォォォオオッッッ!!!
バキュアのそれを、掻き消すように。
狩猟民族ベラールの魂の咆哮が、テオトル山に大きく木霊した。
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直前までエレメンツィア、及び抱えられた2人が存在した空間を、突っ込んだバキュアの牙が地面ごと噛み砕く。
衝突で地面が振動し、バキュアが土を咀嚼する様子は恐怖を呼び覚ます。
横っ飛びに跳んで回避したエレメンツィアであったが、両腕が塞がっているために反撃はできない。
鈍そうな見た目に反して、かなりの俊敏性でバキュアが動く。
迫る巨体を、焼き直しのようにエレメンツィアが躱す。
「……」
常と変わらぬ無表情なその顔に焦りは見えない。
「エレメンツィア、わらわは大丈夫じゃ。降ろしてくれ」
「拙者も、避けるだけなら何とか……」
「問題ありません」
「問題ないって……どうするつもりじゃ?」
「どうもしません。そろそろ――」
エレメンツィアの返答は、バキュアの突進で遮断された。
エレメンツィアは2人を抱えながらも、軽業師のように軽快な足取りで突進を避ける。
「ヒャハ! おいおい、逃げてるだけじゃ――ぶっ!」
不自然に途切れた発言に、ニナたちが男に視線を向けた。
「で、お前隙だらけな」
片翼の男が地面に突っ伏し、その頭部を竜輔が踏みつけにしていた。
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「っぐ、テ、メェ……!」
足の下から片翼の男が物凄い形相で睨みつけてくる。
「こえぇこえぇ」
言いながら、口の端を吊り上げた。
クッククク。コイツを踏みにじるのは気分がいい。
「竜輔殿……顔が悪役になっているぞ……」
おっと。
ナツメの指摘に、真顔へ戻す。
「がっ!」
男の、再生された右腕が俺の脚に伸びてきたので、頭を蹴りつけつつ距離をとった。
ゆらりと立ち上がった男は、目で殺さんとばかりに俺を睨みつける。
「バキュアァアァァアアッ!!」
気色悪い怪物が、狙いを俺に変えてきた。
軽くステップを踏む。
問題ない。体は動く。
片翼の男の言葉を聞く限り、この回復力はニナの魂の伴侶であるかららしい。
めちゃくちゃ空腹になっていることから、エネルギーはそれなりに消費するようだが。
迫る巨体を前に、そんなどうでもいい事を考える余裕があった。
あの男程でないにしろ、バキュアは軽んじていい速さじゃなかったが……なんか、見えた。
ヒョイ。
軽く躱す。
「こんな感じだったっけ?」
俺は男の初撃を思い浮かべる。
地を蹴ると、地面を食むバキュア――そんな格好良い名前似合わないから黒カバでいいや――に回し蹴りを叩き込んだ。
ぐにゅ、とも、ずむ、ともいえない、何とも不愉快な感触と共に、黒カバは吹っ飛んで転がった。
「気色悪っ」
鳥肌が立った。
「なっ……!」
男の驚愕の声。
「あの動きは……」
ナツメは理解したようである。
「?」
ニナは分かっていないようである。
「……チィ! 猿真似野郎がっ! バキュアに物理攻撃なんぞ……!」
むくり、と、黒カバは堪えた様子もなく短い脚で立ち上がる。
元が魔法なだけに、物理攻撃は効かないようだ
「ま……どれだけ動けるか試してるだけだから、いいけど」
「ほざけっ! 噛み殺せ、バキュアァッ!」
――ォォォォオオオオオン!!
大質量の接近。
轢かれただけで大怪我、ってか普通は死ぬだろうに、さらにあの牙は痛そうだ。
こちらからも駆ける。
瞬く間に彼我の距離はゼロに。俺は黒カバの下顎を全力で蹴り上げた。
巨体が、宙に舞う。
5メートルは浮き上がったソイツが落ちてくる前に俺も飛び、空中でのすれ違い様に踵落とし。
黒カバが地球にぶつかる轟音。……あ、ここ地球じゃないじゃん。
「っらあ!」
さらに体を捻って回転力を増し、体重と重力を加算して再度踵を打ち下ろす。
ガガァン!
地面が大きく抉られる。
半身以上を大地に埋めた黒カバの体から飛び降りた。
「うえぇ、なんか足裏がぬめぬめする……」
「な……ん……だと……」
男が呆然と呟いた。
「テメェ……さっきと全然動きが違うじゃねーか……!」
「勉強させてもらったからな」
効率の良い体の動かし方、筋肉の使い方、力の掛け方。
そんな事これまでまったく考えていなかったが、意識すると見えてくるものがあった。
特にナツメの動き。あれは良い。
いかに少ない労力で、最大の力を発揮するか。
非常に高いレベルでそれが追求されている……のだろう、多分。
柊流とか言ってたから、そういう剣術の流派なんだろうし。
俺のは単なる見よう見まねだが。今度ちゃんと教えてもらおう。
「……っ! 身体能力がいくら向上したところでっ!」
ぼろぼろとこびりついた雪と土を落としながら、黒カバが起き上がる。
やはり、ダメージは無いようだ。
あー……。黒カバは、もういいか。
「バキュアァ! さっさと、食い尽くせ!」
「なら、食べ比べといこうか」
ニヤリと笑う。
だいたい、気に喰わなかったんだ。
「! そうか! 魔法である以上、リュースケにとっては……!」
ニナが表情に喜色を浮かべる。
「出ろ、ヤミッ!」
ズォォ!
右手から、黒が爆ぜる。
「!? ば、バキュアッ!」
――ォォォォオオオオオン!!
黒カバが大口を開けて、闇に喰らいつく。
ググッ……!
『摂食』と『暴食』の魔力が、僅かな間せめぎあう。
「魔法の効果、ちょっとかぶってんだよォォ!!」
均衡を破り、巨体を黒が包み込む。
そしてそのまま、摂食は暴食に呑まれて消滅した。
ヤミを消せば、その場には魔力の残滓も残らない。
「……は?」
何が起きたか分からない、といった様子で、片翼の男の動きが止まる。
「な……は? 馬鹿な。バキュアは単なる魔法じゃねぇ。神力も込められてんだぞ? それを、マジックキャンセル? いや、違うか? ……どちらにせよ『増幅』の魔法陣もなしにこんなぶっ飛んだ魔法……それこそ十天神クラス……あり得ねぇ。そんなハズは……!」
ぶつぶつ呟く男は、ぶっちゃけ、かなり隙だらけだった。
「ていっ」
「うおっ!」
本日2度目の目潰しを試みたが、寸前で躱されてしまった。
「クソッ! 舐めるなァ!」
ブン!
男の蹴りを、バックステップで避ける。
「このオレが――」
ガツッ。
何かを言おうとした男の即頭部に、飛来した何かがぶつかった。
足元に落ちたそれは、矢。
振り向けば、次の矢を番える、ラティの姿がそこにあった。
「……ベラール族だと……?」
怒りよりも、疑念が大半を占める顔で、男がラティの頭部……耳を見る。
「さすがです。リュースケさん。経緯はわかりませんが、追い詰めたんですね」
ラティが喋ったことで、俺は思考が止まっていたことに気づいた。
「ばっ……何来てんだアホー!」
「ラティが来てしまっては、ダメだろうっ!」
「何で大人しく待っておれんのじゃっ!」
「……ふう」
みんなで怒鳴りつける。エレメンツィアは溜息をついた。
「はわっ! ご、ごめんなさい! で、でもやっぱり私だけ安全なところで待ってるなんて――」
「そういう、事か。コイツらは、ベラールの差し金か」
男が疑念を払拭し、怒りに表情を歪めていく。
「バレたじゃねーか! この、アホっ! 超アホ!」
「うう、ごめんなさい……」
「何、構わないさ」
どこからか、次の阿呆の声が聞こえてきた。
木陰から出てきたのは、ナラシンハ。
そしてその後ろから、弓や短剣で武装したベラール族が続々と姿を現す。
「お、お父さん!?」
「やあ、ラティ。来ちゃった」
ナラシンハは、てへ、と可愛らしく舌を出す。
「来ちゃった、じゃねぇーっ! もうホント、お前ら何してんのっ!?」
頭を抱える。
「泣き寝入りは、もう止めだ。娘を守る、だたそれだけの事が、馬鹿な事だと言われるのなら、それも構わない。僕らも、馬鹿になる事にしたよ」
ナラシンハが右手を上げて背後に合図を送る。
獣人たちが一様に頷きあって武器を構えた。
「み、みんな……!」
ラティの目尻に、涙が溜まる。
……ハァー……まあいいか。
「こうなったらまあ、しょうがないわな」
男は腕からの出血ですでにかなり弱っている。
彼らでも十分にやれるはずだ
通りすがりの旅人に救われるよりも、自分たちの力で悪習を断ち切った方が、後々のためにはいいだろうし。
「く、クソ、クソ、クソが……! テメェら、調子に乗りやがって……!」
男に当初のような余裕は見られない。
元々かなり小物臭がしたが、ここにきてそれが完全に表面化していた。
「ふっふっふ。リュースケの伝説に、神殺しという新たな1ページが書き込まれるなっ!」
いつの間にやらエレメンツィア(鎌に戻っている)を握って、ニナが近くまでやってきていた。
形勢がこちらに傾いたので、強気である。
「今回は俺より、ナツメが頑張ったろ。『神斬り』のナツメと呼んでやろう」
「むむ。『神斬り』か……ふむ、悪くない」
ナツメは満足げに頷いていた。
「よし。行くぞ! ベラールの戦士達! 今こそ――」
ナラシンハの言葉が、不自然に途切れる。
「ん? どうした……ん……」
――唐突に、世界から色が失われた。
いや、それは正確ではない。厳密には、世界がおよそ2色になっていた。
――白と黒。総じて、灰色の世界。
俺以外のほぼ全てが、人も、モノも、その動きを完全に止めていた。
「なんだ、こりゃ……」
ニナはエレメンツィアを構えたまま。
ナツメは満足そうに頷いたまま。
ラティは涙ぐんだまま。
ナラシンハは味方を鼓舞しようと、握りこぶしを振り上げたまま。
獣人たちは武器をその手にとったまま。
ピタリと、灰色の世界で静止していた。
この状況を一言で表すなら、そう。
――時間が、止まっていた。
「どうなってんだ」
俺以外で唯一色を持ち、時間が止まっていないヤツ――片翼の男に問いかける。
「まさか……フォルトゥナ……か……」
「はあ? フォルトゥナ?」
男が愕然とした様子で呟くが、聞き覚えのない単語(名前か?)に首を傾げる。
「はい」
「うおぅ!」
背後から聞こえた美声に、思わず妙な叫び声を上げてしまう。
振り返ればそこに……美女がいた。
思わず、息を呑む。
神々しい、とはこの事か。
銀色に輝く髪は、地面につきそうなくらいに長く、灰色の世界でも艶やかに輝いていた。
目が合うと、心の底まで覗き込まれたような不思議な気分になる。底の見えない、銀の瞳。
西洋風の掘りの深い顔つき。鼻が高いのは羨ましかった。
目線の高さは、俺と同じだ。つまり、女性にしてはかなり背が高い。
体つきは誠に女性らしくてよろしい。出るところが出て、引っ込むところは引っ込んでいる。
なんかインドとかそっちの方を連想させるヒラヒラした薄い服装に、寒くないのかと少々的外れな心配をしてしまう。
まあそんな事より何よりも。
つい後回しにしてしまったが。
彼女の背には、立派な黒い翼が1対、生え揃っている。
つまりは――
「私は十天神の一柱、運命神フォルトゥナと申します。以後、お見知り置きを」
そう言って彼女は、薄く、儚げに微笑んだ。