第1話 さようなら、平穏
数学の授業中。
俺は窓の外、校庭を走り回る女生徒たちの姿をボーっと眺めていた。
「よーし。じゃあこの問題を……法龍院、解いてみろ」
ちっ。
数学教師で担任の……担任の……名前は覚えていないので田中でいいや。
田中先生(仮)が俺を指名したので、仕方なく立ち上がる。
「めん……わかりません」
「お前今『面倒臭い』と言いそうにならなかったか?」
「滅相もありません。田中先生」
「俺の名前は山田だ! 後期も半ばを過ぎて担任の名前も覚えていないのはお前だけだ! そしてこのやり取りも、はや5回目だ!」
興味のないことを覚えるのは苦手だ。
「失礼しました。山本先生」
「だから……はあ。もういい、座れ」
許可が下りたので座り、再び窓の外に視線を戻す。
こんなやり取りはしょっちゅうなので、他の生徒も特に気にしていなかった。
いや、何人か冷たい視線を送ってきている気もするが。
俺の平穏が壊されなければ、何でもいい。
俺の名前は法龍院 竜輔。
名前に2つも「りゅう」が入っているのはどうかと自分でも思うが、文句は名付けた親に言ってくれ。
うちは平安時代から続く名家で、龍の血が流れているとか言われている。
おそらく名前も、それにちなんだのだろう。
龍の血かどうかはわからないが、確かに、うちの人間は普通ではない。
法龍院の人間が優秀であるというのは、地元では有名な話。
知能面でも、肉体面でも、そして芸術面でもだ。
俺の爺さんはノーベル物理学賞を貰ったし、親父は有力政治家だし、姉貴はフィギュアスケートの世界大会で優勝とかしてる。
で、俺はというと。
勉強、並。
運動、並。
芸術、てんでダメ。
法龍院家の落ちこぼれとして、ご町内でも有名人。
キーンコーンカーンコーン。
「今日の授業はこれまで。特に連絡事項はないから、ホームルームは省略する。気をつけて帰れ」
よし、ようやく終わったか。
体操服タイムが終わったことだし、もう学校に用はない。
「法龍院は職員室に来るように」
えー。
「何故です?」
「わからんのか?」
「先生の名前を覚えておらず、授業を真面目に受けないで、別クラス女子の体育を眺めていたことくらいしか、思い当たりませんね」
「それが全てだ!」
いい突っ込みくれるなあ、この先生。
まあ職員室に呼び出されるくらいは、日常を彩るちょっとしたイベントだ。
俺は肩をすくめて、佐藤先生(仮)に続いて職員室へ向かった。
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担任の説教を聞き終えて、昇降口を出る。
グラウンドには、熱心な野球部の練習風景。
今日も暗号染みた掛け声を上げて、青春の汗を流していた。
そんな、ある意味縁遠い世界に聴覚のみを傾けつつ。
帰宅部のエースたる俺は、真っ直ぐに正門へと向かう。
カキーン!
不意に、快音。
風を切る音に脇を見れば、唸る白球が頭部直撃コース。
……ふむ。
このタイミングであっさり避けるのは、少し不自然か。
仕方ない。
衝撃に耐えるべく、意識を集中する。
ゴンッ。
鈍い衝突音に、下校中の生徒たちの視線が俺に集まった。
「――っ!」
前頭部を押さえてしゃがみ込む。
硬球って凶器だよな。
数秒蹲ったのちに、かぶりを振って立ち上がる。
白球を拾い、慌てて駆け寄って来る野球部員に、心配ないと笑いかけつつボールを投げ渡す。
その段に至って、大事無いのか、と、まわりの視線も俺から外れていった。
これでよし。
帽子を取って坊主頭を下げる青春君に片手を上げて挨拶しつつ、俺は今度こそ帰宅すべく正門へ歩みを進めた。
「待ちたまえ。2年B組出席番号18番、法龍院竜輔君」
丁度正門を抜けようかというあたりで、背後から凛とした声が呼び止めた。
振り向けばそこには、うわさの名物生徒会長、酒瀬川玲子がロングな黒髪を風になびかせて仁王立ちしていた。
腰に手を当てた姿はいかにも偉そうであるが、実際偉いから性質が悪い。
生徒の自主性の尊重という言い訳のもとで放任主義を貫く我が校に、本気の自主性で秩序をもたらす彼女は、非常に優秀だ。
「何だ?」
直接話したことはないが、同学年なのだから敬語を使うこともないだろう。
「先ほどのボール、何故避けなかったんだい?」
おっと、さすがに鋭い。
「避けなかったんじゃなくて、避けられなかったんだ」
「果たして、そうかな? 君は確かにボールを視認しているように見えた。にも関わらず、直撃するまで微動だにしなかったじゃないか」
言葉を区切り、にやりと笑みを浮かべる会長。
「まるで、反射的に動きそうな身体を、無理矢理押さえつけているかのように、ね」
「……びびって硬直してただけだって」
まずったな。避けたほうがよかったか。
「ふ。まあ、そういうことにしておこうか。頭の最も硬い部分に当たったのも、単なる偶然に過ぎない、と」
いちいち男前だな、この人は。
面倒臭いから帰っていいかな。
「というわけで、生徒会に入りたまえ」
「いいけど」
「迷う気持ちはわかるが、よく考えるんだ。我が校の生徒会の立場は非常に強い。大変ではあるがやりがいのあるっていいんかい!」
何が「というわけ」なのかさっぱりだったが、とりあえず頷いておいた。
美少女の頼みは、極力断らない主義だった。
「誘っておいて驚くなよ」
「い、いや、すまない。まさかすんなりオーケーが出るとは思わなかったのでな。ともかく、よろしく頼む」
笑顔で差し出された片手を握り返す。
たまには青春ごっこもいいだろう。
……それでも、力を見せるつもりはないけどな。
詳しい仕事の説明はまた明日、ということで、今日は帰宅を許された。
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勉強、並。
運動、並。
芸術、てんでダメ。
この評価、おおむね正しい。
が、しかし。運動能力という点においては、実は正しくなかったりする。
はじめて気が付いたのは、いつの事だっただろう。
俺が普通じゃないってことに。
優秀な血筋、「法龍院」。
その中でも俺は、異質だった。
あれは、小学校の4年生くらいの頃だろうか。
近所の子供と遊んでいたときのことだ。
細かい経緯は忘れたが、多分、何のことはないじゃれあいのようなものだったと思う。
遊びの中で興が乗った俺は、相手の子供を突き飛ばした。
いや、俺にとっては軽く小突いたようなものだったのだが、その子はわんわんと泣き叫んだ。
あまりにも痛い痛いと泣き続けるので、これはおかしいと大人を呼んだ。
すぐにその子は病院に運ばれて、骨折と診断された。
教師や親からは一体何をしたのかと詰問されたが、当時の俺は困惑するしかなかった。
何も相手を痛めつける意図はなかったし、まさかあの程度で怪我をするはずがないと思った。
それまでの遊びの中では大丈夫だったのだから、俺はあの頃から急激に成長し始めたのだろう。
結局その後も、力加減を誤って物を壊したり、誰かを傷つけたりするうちに、ようやく気が付いたのだ。
俺はおかしいと。
中学に入った頃から全力を出す機会がなかったから、正確なところはわからない。
だが、俺の肉体が『まともな人間』の枠をややはみ出しちゃってるのは、間違いないだろう。
そしてもうひとつ。生まれつきのこの瞳。
金色の、瞳だ。
親父もおふくろも、爺さんも婆さんも、黒髪黒目の典型的な日本人なのだが。
しかし目の色が違うこと自体は、大したことではない。
問題は。
身体能力と違い、頭の方はそれほどよくなかった、ということである。
記憶力はいい方だと思うが、それと頭の良し悪しは別なわけで。
本当に龍の血を引いているんじゃないか、なんて。
子供の頃は本気でそう考えていたのだから痛々しい。
そんな俺が調子に乗って、小学校で悪目立ちしたのは当然の流れ。
そりゃ、もう、苛められた。
直接殴る蹴るで俺に勝てるヤツはいないから、ハブられたり、机に落書きされたり、上履きを隠されたりする陰湿なやつ。
子供ってのはめちゃくちゃ排他的な部分があるからな。
自分と違うものには敏感なわけだ。
もうちょっと頭を使って周囲の反応を見ていれば、そうなる前に気づけたハズなんだ。
しょうがないので、事後処理としての報復はきっちりと果たしたのだが。
それから俺は、本気で何かに取り組むことがなくなった。
それでも瞳のせいで多少目立つが、もう『金の瞳の法龍院竜輔』を知らないヤツは学校にはいないから、今更それで苛められるってことはない。
人生に張り合いはなくなった。
でも、それなりに楽しくやれている。
というか、もう自堕落に生きることが、逆に楽しいね!
俺はただ、平穏無事に暮らせればそれでいい。
なので、例え人間離れした運動能力を持とうとも、決して他人にそれを悟らせたりはしない。
……つもりだ。
とにかく、俺は怠惰に暮らすためならどんな手間でも惜しまない(矛盾)!
そんな男だ。
あ、あと可愛い女の子が好きだ。
そんな男だ。
などと、益体もないことを考えつつ、他の学生に混ざってそこそこ賑わう商店街を歩く。
時折俺の瞳に物珍しげな視線がぶつかるが、校門を出てからは特筆すべき事件が起こることもなく。
本日も、俺は平穏を甘受する。
穏やかな日々。
俺の望み通りのそれは、しかし退屈であることも確かであった。
厄介事に巻き込まれるよりは、ずっといいけどな。
商店街を抜けて、徐々に人気の無い住宅街へ。
その外れ、民家もまばらになってきた頃に、法龍院のお屋敷は見えてくる。
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無駄に立派な門をくぐって、純和風建築の自宅へ帰宅。
といってもそんなに古い建物じゃない。
下手に歴史があるものだから、見栄を張って建て替える時もいちいち和風にするのだ。
玄関の引戸に手を伸ばす。
――チャ。
「ん?」
今、触れる前に音がしたような。
引戸に手を掛け、軽く力を込める。
ガッ。
開かない。
誰かいれば鍵は開いているので、今は誰もいないのだろう。
俺以外の家族は、みんな忙しいから、珍しいことではないのだが……。
「……?」
少しの違和感に目を瞑り、俺は庭へ向かう。
合鍵は庭の隅の土蔵に隠してある。
土蔵の立て付けが悪い扉を開き、すぐ脇の棚にあるナンバーロックの箱から合鍵を取り出す。
「……ん?」
ふと見ると、何やら木の床の一部、2メートル四方程が、四角く発光している。
いや、これは。
「地下室?」
不覚にもこれまで気づかなかったが、この土蔵にはどうやら地下室があるようだ。
その地下室への四角い隠し扉――というか、蓋だな――の隙間から、光が洩れている。
「……」
いくら俺が「風平浪静」(意味は平穏無事に同じ)を座右の銘としていても、この地下室に興味を持ってしまったのは、人としてやむを得ない事だろう?
俺は床に手をつき、蓋を開けようと試みる。
しかし蓋には取っ手のようなものはなく、隙間も1ミリとないので開きようがない。
しばらく未練がましく床に手を這わせるが、やはり取っ掛かりがなく、蓋を開くことはできなかった。
「……気になる」
俺はわけのわからない衝動に突き動かされ、近くにあった爺さんの小刀を蓋にぶっ刺した。
後で怒られるかもしれないが、そうしなければいけない気がした。
蓋を引き抜く。
「うっ」
途端に、まばゆい光が俺の目を焼く。
だがすぐに瞳はその光に慣れ、地下の空間が網膜に像を結ぶ。
階段も何もなく、大きな箱の中のような印象を与えるその空間。
1辺が5メートルくらいの、立方体の中身を覗き込んでいるイメージだ。
蓋はその真上に位置していた。
光っていたのは、床に描かれた……魔法陣?
ゲームとか漫画に出てくるあれだ。
2重の円が描かれ、その円と円の間に見た事もない文字がつらつらと描かれる。
そして円の中には抽象的な図柄。竜、に見えなくもない、か?
「ふむ」
多少、知的好奇心がくすぐられる。
この魔法陣を近くで検分したい気持ちもあるのだが。
それ以上に、厄介事感知センサー(ただの勘ともいう)が警報を鳴らしまくっている。
魔法陣といえば連想するのは「召喚」だ。
まさか何か召喚されたり、俺がどこかに召喚されるなんてことは、さすがに思っちゃいないが……。
「触らぬ神に祟りなし、ってね」
俺は再びそこに蓋を――
「りゅーうーちゃん!」
ドン!
「なあ!?」
見知らぬ魔法陣に意識を割いて、油断していた俺は。
「あれ?」
家に居なかったはずの姉貴に背中を押され。
「あわ、竜ちゃん!?」
その魔法陣の上に。
「マジかあああ!?」
落下した。
視界が光に覆われる。
そしてどこか懐かしい声が、聞こえた気がした。
――我が血族に祝福を――