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二章

二章



あれから――両親が死んでから五年が経った。わたしは高校生になり、今は母方の祖父母の家で生活している。

 もう五年が経ったのか……それともまだ五年しか経っていないのか。わたしの頭がどちらの感情を選んでいるのかはよく分からない。……時によってその五年は長くも感じ、また短くも感じるからだ。

 どちらにせよ、両親が死に、五年が経ったこと。これだけが事実だ。

 幸か不幸か、人間は悲しみを乗り越えていく生き物だ。十一歳の頃、確かにわたしはこの世界の全てに絶望し、自分が生きることさえも放棄しようとしたことがある。

 しかし、わたしは今も生きている……。結局、生きることは放棄できなかったのだ。

 命が見える能力は、今も消えてはいない。……それどころか、より明確にこの能力の示す命を見ることができるようになった。その人がいつ死ぬのか……後何年、何日後かまでも理解できるようになった。

 そうして生きていく間に、わたしは他人の命に対して、興味を失っていった。……いや、失わざるを得なかったのだ。自己防衛のために。

 人間は、自分が知らない人がいつどこで死のうと、そのことに関しては全くと言っていいほど無関心だ。例えば今この瞬間でさえ、失われていく命があることは確実だ。しかし、その死に関して人間は悲しまず、涙も流さない。

 しかし、それが自分の両親や兄弟、友達となると話がかわる。一つの死……同じ一つの命にも関わらず、人は悲しみ、涙を流す。

 この違いは何か? それは、死を知っているか、いないかだとわたしは考える。頭の中では今も死んでいる命があることを理解していても、実際に身近で死がなければ、結局人は、誰かが死んでいることを実感しないのだ。悲しいわけがない。「今も世界の何処かで人が死んでいます」……だから何だというのだ。そんなことに一々悲しみを感じていたら、人間はとても生きていけない。

 ――わたしも、死が見えなければ、そんな普通の人間として生きていたに違いない。

 人の死が見えるということ。それは、そのまま死を知ってしまうという意味になる。日常の中に隠れる、数え切れない程の死。その一つ一つが、目に見え、頭で理解されてしまう。

 ……ああ、今日会ったあの人、そろそろ死ぬな――。

 名前も知らない人でも、そう理解してしまったらもう遅い。その人の家族は何を感じるだろう、どうやって死んでいくのだろう……。

そんな考えは、自分の頭では抑えきれない程湧き出てくる。

 そうして多くの死を「見る」ことによって、わたしの感情は破壊されていった。悲しむという感情を捨てなければ、わたしは間違いなく壊れてしまう。

 そして、他人の命を少しでも大事に考えてしまったら、わたしは外を歩くことさえできなくなってしまう。

 だからこそ、わたしは感情を捨て、命に無関心になった。人の命は……そう、アリの命と同等。つまり、生きていようが死んでしまおうが、どうでもいい。

 不幸に生まれてきたわたしにとって、それが唯一にして、最後の抵抗。本当にささやかで、自分が生きていくための、最低限度の抵抗。

 だからこそ、わたしは今朝、自分の涙を疑った。わたしは、悲しみを感じてはいけないはずの人間。そう決めた人間だ。

 涙がでるということは、まだ残っている。わたしの中に、悲しむという感情が。それも、表面上ではなく、潜在意識の中に。

 いや、違う。そんなことはない。もう五年。五年もの間、わたしは涙を流していなかった。それも我慢ではなく、本心から。悲しいと思わなかったのだ。つまり確実に、わたしの感情は死んだ。

 今になって悲しみを感じ――それも昔の夢によって――涙を流すなんてことは、ありえないこと。

 そうだ、ありえない。

 ぐっと、左手で涙を拭い、わたしはベッドから起き上がった。今の季節は春。暑くもなく、寒くもない季節。

 起き上がった状態から、自室をぐるりと見渡す。質素な部屋。勉強机と本棚、そしてベッド。それ以外の余計な物は一切ない。わたしらしい部屋。唯一置かれている物は、机の上にある砂時計。お婆ちゃんがわたしにくれた砂時計。

 しかしこれも、もうずっと触っていない。触りたいとも思わない。

「……」

 いつもと同じ光景。何も変わらない光景。そのはずなのに……。

 寝間着を脱いで、制服に着替えてしまう。その後で、もう一度部屋を見渡す。

「……何か……」

 違うような、気が。

 いや、間違いなく部屋の中は何もかわっていないはず。第一、わたし以外にこの部屋に入る人はいない。

 今、この家にはわたしの他に母方のおじいちゃん、おばあちゃんがいる。しかし、二人はわたしに気を使ってか……この部屋。

わたしが一人になれる空間だけは、一切の干渉をしないでくれている。

 なのに、違和感。

「……気のせい?」

 ということにする。原因が分からないことだから。軽く頭を振って、変な違和感を振り払う。

――うん。わたしはいつも通りだ。


……思えば、これは予兆だったのかもしれない。


「ミコトちゃん、おはよう」

「……おはようございます」

 部屋から出て居間へ行くと、おばあちゃんがせかせかと朝食の準備をしていた。

 おばあちゃん。両親が死んでから、壊れていくわたしをずっと抱きしめてくれた人。わたしの引き取り先にも、真っ先に手を挙げてくれた人で、おばあちゃんがいなければ、今のわたしが生きていることもなかったかもしれない。

 砂時計は、その命が残り二十七年あることを示している。おばあちゃんは現在七十二歳。つまり、九十九歳の大往生だ。

 ……しかし、わたしには関係のない話。あくまで、他人の命。例えおばあちゃんだとしても……どんなにわたしを大切にしてくれようと。

 例外はない。あってはいけない。一つの例外が、全てを壊す恐れがあるから。

 人が死ぬことは、どうでもいいこと。気にしてはいけない。感情を動かしてはいけない。

 わたしが生きるために、譲れない最低限度の武器。感情の刃。


「手伝ってくれるかな、ミコトちゃん」

「……はい。何をすればいいですか」

「じゃあ、お味噌汁をお願い。ミコトちゃん、お味噌汁作るの上手だから」

「……分かりました」


 無感情、無感動な付き合い。会話。


「あ、おじいちゃん起こしてきてもらえる?」

「はい」


「おじいちゃん、起きてください」

「……おお、ミコト、おはよう」

「おはようございます。……朝食ができていますので、冷める前に居間へ来てください」

「ああ、ありがとう」

「……いえ。では――」


「うん、やっぱりミコトちゃんのお味噌汁は美味しいわ」

「うむ、本当だなぁ」

「……ありがとうございます」


「ミコトちゃん、高校には慣れた?」

「そうですね。慣れてきました」

「ミコトも高校生になって益々綺麗になってきて……。おじいちゃんはミコトに変な虫がつかないか心配だよ」

「……あらあら、おじいちゃん何を言ってるんですか。……でもミコトちゃん、本当に綺麗になってきて……」

「……いえ、そんな」

「うちのミコトは世界一可愛いな!」

「ええ、そうですねおじいちゃん」

「……いえ、その――」


「それでは、学校へ行ってきます」

「行ってらっしゃい、ミコトちゃん。気をつけてね」

「ミコト、くれぐれも気をつけて行ってくるんだぞ!」

「……はい」

……。

こんな、いつも通りの光景。

 これが、今のわたしの日常。

 感情的な言葉遣いはしない。感情を動かさない。

 これも慣れてしまったら、もう何とも思わなくなった。過ぎていく時間に身を委ね、ただただ、生きていく。

 これがわたし。今のわたし。

 もしも願いが叶うなら……命が見える能力を亡くし、感情を手に入れて生きてみたいか……? そう聞かれたとしても、わたしはノーと答えるだろう。

 そうやって生きるためには、わたしは既に多くのことを知りすぎた。つまり、能力の有無に関係なく、わたしはすでに異常な人間なのだ。

 ならば、全ての記憶を消して……完全にゼロの状態から。言ってしまえば生まれ変わるような……そんな状態から、人生をやり直したいか? そう聞かれたとしたら、わたしは返答を躊躇うだろう。

 全ての記憶が消え、所謂普通の人間として過ごすこと……確かにわたしにとってはこれが一番の望みだった。現に、五年前。十一歳のわたしであれば、何も迷うことなく人生をやり直したいと願っただろう。

 では、今のわたしの何が、そう思うことを躊躇わせているのか。

 正直、それを今のわたしが言葉で表現することはできない。これは、漠然とした感覚なのだ。

 ただ、そう思うことが、すなわちわたしの変化を表していると、そう感じている。

 自分でも知らない間に、人間は変わっていくのだ。


 学校に着く。

 家から徒歩で二十分程度の、わたしの家から一番近い高校だ。

 ランクとしては、世間的に言う普通の高校。中学生の頃、学校の先生には散々「もっとランクを上げろ」と言われたけれど、結局それを無視して受験した。理由は言うまでもなく、家から近いからだ。

 わたし自身、学力に対する拘りは皆無だったし、世間が言う高ランクな高校にも全く興味がなかった。

 つまり、わざわざ家から遠い他の高校へ進学する理由なんて、全くなかったのだ。

 入学してからも、特にこの学校で困ったことはなかった。しいていえば、入学式の時に、新入生代表としての言葉を言わされた程度。

 わたしは、目立つことがあまり好きではない。そして、人と関わることも好きではない。それは死が見えるということとは関係なく、ただ単純な理由で。

 わたしは、静かに生きたいのだ。


「おはよう」


「……おはようございます」


「おはよー、ミコトちゃん」


「……おはよう」


 ……。

 クラスメイトと必要最低限の会話をし、わたしは静かに自分の席へつく。席につくと、鞄の中から小さな文庫本を取り出し、その文字列を目で追いかける。

 本を読むこと。これは、わたしができるだけ人と関わることがないように考えた手段。自分の回りに幕を張るように、本の世界へ入り込む。

 そして、学校での時間は流れていく。授業、勉強は嫌いではない。というより、人と関わることを捨てたわたしの脳の中身を埋めるかのように、わたしは勉強に没頭した。

 中学生の頃からそのように勉強してきた結果が、わたしを新入生代表という立場にさせたのだ。

 そして、わたしはクラス委員長も任されている。……勉強ができ、そして先生の指示によく従うわたしは、ある意味では適任なのだろうと思う。実際は委員長といっても、クラス内の雑用や、クラス会での指示進行程度の仕事しかない。つまり誰にでもできる仕事なのだが……。

 部活動は、陸上部へ所属している。……学校の決まり上、生徒は必ず何処かの部活動へ所属しなくてはならない。そう言われたので、個人競技である陸上を選んだ。文化部……文芸部へ入ることも考えられたけれど、あえて文化部は切り捨てた。部活動というのは、その時間はそのことをやらなくてはならない時間だ。

 つまり、普段から本を読んでいるわたしが、あえて部活動でも本……文章と触れ合う必要性がなかったのだ。

 ならば、部活動として、普段の生活では取り組まないことを――と言う理由で選択したのが、陸上だった。

 体を動かすことは嫌いではなかったし、走り終わった後の疲労感が、どこか好きだった。一人で走る時間を部活動以外で作るのは難しい。だから、わたしは部活動の時間が嫌いではない。


 わたしの高校生活は、大体このような感じだ。一見、クラス委員長を任され、勉強では優秀な成績、更に陸上部に所属しているという事実は、かなり活動的のようにも見える。

 ただし、わたしの場合は根本的に一つのことが欠けている……欠けさせている。

 人との、心からの付き合い。感情の受け渡しを、わたしは一切していない。上辺だけの付き合い、会話。わたしが生活するために必要な、最低限度のやり取り。

 つまり、活動的のように見えて、実は全く違う。わたしは、狭い世界を生きている。

 ……でも、それでいい。それが、わたしにとっては一番いい。高校を卒業しても、進学しても、就職しても、いつになっても……。きっと、わたしはそうやって生きていく。

 人を、人だと心から思えるようには、絶対にならない。いつまで経っても、どんなに時間が流れても――わたしの中で人とは、目の前で動いているモノにすぎないのだ。


 ……。

 まるで、自分にそう言い聞かせているようだ。そう、ふと思った。思った後で、全身に軽い寒気を感じた。

 ――今日のわたしは、どうかしている。

 ……何で。

わたしにとって、そんなことを思うことは、異常なことなのだ。今朝の涙といい、何かがおかしい。まるで、わたしがわたしではないような感覚。

そんなことはない。絶対にそんなことはないのだと、言い聞かせる。本の文字列に意識を集中させて、自分の考えを殺す。

 ――わたしが、わたしでいるために。


 明らかに、予兆。

 もう、ごまかせない。頭の中では、そう分かっている。けれど、認めたくない。

 認めることができるわけがない。

 認めるということは、わたしの死を意味する。……そういっても過言ではない。

 ――予兆。

 頭の中で、激しい波が渦巻いている。



「起立……礼。着席」


 気が付いたら、いつの間にかチャイムが鳴り、一時限目が始まっていた。慌てていることを悟られぬように。いつも通りのペースで、ゆっくりと、静かに。

 号令をかけ、着席する。

 授業が始まり、先生が淡々と授業を進めていく中で……わたしは考える。

 予兆について。

 朝の涙……そして、普段のわたしでは考えない、思わないようなこと。この二つのことから推察される、予兆の正体。

それは、感情。感動。蘇ろうとしている。

殺した、死んだはずなのに。五年もの間、全く現れることがなかったのに。何故? 何で、今更。殺したと思った感情は、実はわたしの頭の深いところで……眠っていたとでも言うのだろうか。

ありえない。ありえないこと。

そして、ありえないのだと必死に思うことが、また一つの感情をわたしに思い出させる。

――恐怖。

ぞくぞく、ぞくぞくと、体中に寒気が走る。明らかに感じてしまった感情。紛れもない恐怖が、わたしを襲ってきた。

 感情が蘇る。蘇ろうとしている。理由は分からない。今朝の夢? いや、夢なんて毎日見ているし、今朝と似たような……昔の夢も、昔はよく見ていた。

 わからない。わからない……。ただ、感情が、怖い。

 感情を殺すことによって、生きることができるようになったわたしだから。感情が蘇ってしまったら……わたしは生きられないということになる。

 ……死ぬことが怖いとか、死にたくないとか、そんな感情が、わたしに恐怖を与えているのではない。それは分かる。あくまで死は仮定、予測の話で、今すぐ起こりえる……現実的な話ではないから。

 ……そうだ。感情によって、今すぐにでも起こりえること。それに、わたしの頭は恐怖を感じている。

 それは……それは。


「ミコトさん、顔真っ青だよ! 大丈夫?」


 と、突然わたしの隣から、声が聞こえた。その声に反応して、一斉にクラスメイトがわたしの方を向く。

 ぞく……。寒気が走る。


「――おい、大丈夫か!」


「うわ、本当に真っ青……。保健室行く?」


 そう言って、わたしを見つめてくる数多くの瞳たち。そして……砂時計たち。

 顔が真っ青……? ああ、道理で――気分が悪いわけだ。そうか。わたし、今日はきっと、朝から体調が悪くて……だから、変なことばかり考えてしまったんだ……。

 つまり、おかしかったのはわたしの体の方で……頭はおかしくなっていないんだ。

 ……。

「――いえ、大丈夫です……」

 ――違う。それは違う。

 わたしの体調が悪いだなんて、だから変なことを考えただなんて、そんなことはありえない。


「――っ! そんなこと言ったって、ミコトちゃん顔真っ青だよ!」

「どう見たって大丈夫には見えないって」

「……授業のことなら、後でノート見せるから……行ってきなよ」


「――そうだな。それに、そんな真っ青な顔しているやつがいたら、気になって先生も授業にならない。……保健室、いってきなさい」


 ……だって、わたしが、わたしの体調の変化に気付かないなんてことは、そもそも異常だから。人と関わることを捨てたわたしにとって、自分のことには何よりも敏感になる必要があったから。

 つまり、いくら体調のせいにしても……結局何も変わらない。わたしの中にある予兆は、動くことがない。

 そして、体調のせいにしないのならば……この体調の変化は、わたしの頭が持ってきたことになる。異常な考えが、わたしの体を異常にさせた……。そういうことになってしまう。


「いえ……。本当に、大丈夫ですから――」


 だから、これが最期の手段。

 認めない。絶対に認めない。力ずくで、今日の全てを拒否する。

 気分が悪いことなんて、ない。……体調なんて、悪くない。

 わたしは、何も変わっていない……!

 

「何を言っているんだ……。保険委員!」


「あ……はっ、はい!」


「保健室まで、連れてってやってくれ」


「わかりました……」


 ……。変わってないんだって――。


「ミコトさん……保健室にいこう」


 だから、お願い……。認めさせない……で。

 ――ぐっ。


「……ごめんなさい。お願いします――」


 ああ、力尽きた。そう感じた。すると、一気にどっと、何かが頭の奥から溢れ出てきて……。

 ――そこで、ぷりつと。わたしは意識を失った。



「――さん、――コトさん」


……誰かの声が聞こえる。そして同時に、手を握られている感覚を覚えた。

声に会わせて、ゆっくり、ゆっくりと目を開ける。……白い天井。そして、独特な匂い。

ここは、保健室だ。保健室のベッドで、わたしは横になっている。

ああ、そうだ。あの時、意識を失ったわたしを……誰かがここまで運んでくれたのだろう。

――あれ?

「……よかった。ミコトさん、目は覚めたみたいだね」

「あ……はい」

 そういって起き上がろうとすると、肩をそっと押さえられた。

「まだ起きちゃだめ。気を失ったんだから、暫くは安静に……」

 ……そうだ。わたしは気を失って、倒れたんだ。……完全に力尽きて。

 だから、目覚めた時……今は、もっとこう……何か、強烈な変化が起こっていたりする……。そのはずなんだけれど。

「今、何時ですか?」

 普通。拍子抜けするくらいに、普通すぎる。まるで、倒れる前のことが、本当に全部夢だったかのように。

「今は、お昼休みだよ」

 ……一時限目から数えて、およそ4時間弱か。その間、わたしはずっと眠っていたわけだ。

 そういえば、声の主は誰なのだろう……。保健室の先生ではないような気がする。

「……誰ですか?」

「あ、えーと……同じクラスの、保険委員の――」

 やっぱりそうか。

「保健室の先生は……?」

「えーと……ミコトさん、もう大丈夫だからって。さっきお昼ご飯を買いに」

「……そうですか。――もしかして、ずっとわたしと一緒にいてくれたんですか?」

「あ……、わたしは、今さっき。お昼休みになったから、様子を見にきたの」

 ……それもそうか。

――同じクラスの、保険委員といえば……。

「ノゾミさん……でよかったですか?」

「……あ、うん。ミコトさん、私の名前覚えててくれたんだ」

「――それはまあ、クラスメイトですから……。で、ノゾミさん」

「ん……、何?」

「わたし……倒れてから、何か様子がおかしかったですか? 例えば、何かうなされているような」

「えーと……特におかしなところはなかったと思う……けど」

「……そうですか」

 

 結局、目が覚めてからのわたしは、驚くほどのいつも通りだった。寒気も一切なく、頭の中で何かが渦巻いているような感覚も、もうなくなっていた。

そして……今目の前にいる、クラスメイト。保険委員としてわたしの様子を見にきた、ノゾミさんの砂時計。

 さらさら、さらさらと流れ落ちていく命の砂を見つめても、わたしの感情はピクリとも動かない。

 ――完全に、戻った。

 何も変わっていない。今まで通りのわたしが居る。


「ノゾミさん、わたしはもう大丈夫ですから、教室へ戻ってください。……チャイムが鳴るまでには、わたしも教室に戻りますから」

 大丈夫。もう大丈夫だ。

「えっ……あ、うん。わかった。ミコトさんが大丈夫なら……」

「ノゾミさん、ありがとうございました」

「あっ……気にしないで。私、保険委員だし。それに、私だけじゃないよ。皆、ミコトさんのこと心配してたんだから」

 そう言って笑い、少しオーバー気味に手を振るノゾミさん。

 ……皆が、わたしのことを心配していた。わたしはその皆のことを、まるでモノのようにしか思っていないのに。

 ああ、そして普通の人間ならば、この事実に多少なりとも心が痛んだりもするのだろう。

 わたしの何かが変わっていたら、そう思っていたはずだろう。

「……それじゃあ、少しでも早くクラスに戻らないといけませんね」

「そうだよ、ミコトさん。早く皆を安心させてあげないと、ね。それじゃあ、私は先に教室に戻ってるから」

「……はい」


「ミコトさん」


 ――と、保健室のドアに手をつけたノゾミさんが、急に振り返り、わたしの名前を呼んだ。


「……何ですか?」

そう聞き返すと。

「――あ、何でもない。ごめんね!」

 ノゾミさんは慌てた様子でそう言って、そのまま逃げるように保健室から出て行った。


「……?」

 何だったのだろう。


 ノゾミさんが保健室から出て行くと、わたしは小さく息をはき、ベッドから起き上がった。

 念のために壁に手をつけてベッドから降り、上履きを履いて立ち上がる。

体がふらつくことなどは一切なく。何の問題もなく、わたしは保健室を出て、教室へと戻っていった。


 クラスへ合流したわたしは、クラスメイトに声をかけられながら、静かに席へついた。

 慌てた様子を見せていたノゾミさんも、教室に戻るといつも通りの様子で、結局あれは何だったのか、わたしには分からなかった。

それからは、いつも通りに。何事もなく、その一日は進んでいった。


授業が終わり、部活へ行き――しかし、部活にはわたしが今朝倒れたことが伝えられており、あえなくわたしは部活を休ませられたけれど――そうして家に帰り、おじいちゃん、おばあちゃんに声をかけ、自室へ入る。それから宿題を片付け、本を読み……。

――いつも通りの日常が、いつも通りに終わっていく。

夜。ベッドで横になりながら、わたしは考える。今朝のことを。

夢のような出来事だった。……悪い意味で。

まるで、発作のような。一瞬ではあったけれど、わたしはあの時、わずかな感情を持っていた。恐怖を感じていた。

そして、その恐怖は……自分自身の命に対する危機ではなく……。

――そうだ。命が見える、そのことに対する、盾をなくしてしまう恐怖。

あの感情は、何だったのか。何で、あんな感情が表れてしまったのか……。

わからない。わかるわけがない。原因がわかるなら、わたしは今すぐ、全力でその原因を排除する。

「……」

 目を閉じる。

 真っ暗な世界。

もう……考えるのは、やめよう。

わたしは、頭の中で渦巻く思考を停止させた。やがてその思考たちは、瞼の中にある真っ暗な世界へ飲み込まれていき……。わたしの意識は、ゆっくりと眠りについていった。


次の日。

夢も見ることなく目を覚ましたわたしは、いつも通りの生活を送っていた。

朝起きてから夜寝るまで、わたしの感情は全く動くこともなく。

――ああ、やっぱり昨日の出来事は、何かの間違いだったんだ。わたしはそう感じていた。

その次の日、そして更に次の日も、全く同じように時間は過ぎていった。そうして一週間も経った頃には、わたしはもう感情のことなど、全く考えることもなくなっていた。


――しかし、異変は再び起きた。

それは、あの日から丁度二週間が経った日のこと。

その日、朝起きた時は何ともなかった。

それから学校へ行き、授業を受けて……部活へ行き――。それでも、まだまだ異変は起きていなかった。

そして、その異変は、わたし自身が原因となるものでもなかった。

……強いて言えば、その日。

 部活に行く前に、偶然教室に鞄を置いていってしまったことが、わたしがした唯一の落ち度だろうか。

 何だそれは。と、自分でも思う。しかし、とにかく異変は起こってしまったのだ。

 その日、部活が終わった後、鞄を教室に忘れていたことに気付き、鞄を取りに教室へ行った時に。その教室で。

「……誰?」

 と、教室に入ったわたしが教室内の電気を付けようとしていると、予想外の声が聞こえてきた。

わたしが所属する陸上部は、毎日夜遅くまで活動をしている。その日も例外ではなく、わたしが教室へ戻ってきた時には、もう日は沈み……辺りは暗くなっていた。

 つまり、仮に文化部が教室を使っていたとしても、この時間。そして、こんな暗い教室の中に、人がいることが予想外……おかしなことなのだ。更に言うなら、わたしは教室に鞄を忘れ、取りに行くことを宿直の先生に報告し、校舎の鍵を借りてきている。……そもそも、この時間はもう、校舎は施錠されている時間なのだ。だからこそ、教室にわたし以外の人がいる。この事実だけでも、予想外のことなのだ。

 そして、それは相手にとっても同じこと。恐らく、こんな時間に誰かが教室の中に入ってくるなんて……そんなこと、全く考えもしなかっただろう。


「……誰なの?」


 もう一度聞こえる声。……その声は、聞いたことがある声だった。

 そうだ。クラスメイトの声。

 ……クラスメイトの――。


「ノゾミ……さん?」

保険委員の、ノゾミさんだ。


「……ミコト――さん?」


 わたしの声に反応して、声の主は――ノゾミさんは――わたしの名前を呼ぶ。

 ……こんな時間に、真っ暗な教室で。


「何、してるんですか……?」


 一体、何をしているというのだろう。今この時間に教室にいるということは……恐らく普通のことではない。それは分かる。

 校舎は既に施錠されていた……ということは、その前に守衛さんが学校中の見回りをしたということだ。

 ――つまり、今の時間に教室にいるということは、わたしのように宿直の先生に鍵を借りてくるか……もしくは、守衛さんの目に入らないようにする……つまり、隠れていなければならない。

 鍵を借りに行ったときは、わたし以外の誰かが鍵を借りていったという情報はなく……仮に誰かが鍵を借りて校舎の中に入ったのならば、わたしが開けるまでもなく、校舎の施錠は解かれていたはずだ。

 つまり、後者。今ノゾミさんが教室にいるためには、隠れていなければならなかったはずだ。

 わたしの質問に……ノゾミさんからの返答は来ない。

 教室の中は真っ暗で、殆ど何も見えない。ノゾミさんが教室のどこにいて……何をしているのか、全く分からない。

「電気、つけますよ」

 恐らくいくら時間が経っても、わたしが動かなければこの状態は変化しない。わたしはそう判断し、言いながら電気のスイッチを探す。すると、案の定……。

「――っ! やめて……」

 小さい声ではあったけれど、かなり焦った様子で、静止の声がかけられた。……それはそうだろう。理由はどうであれ、ノゾミさんは本来、今教室にいてはいけないのだから。

 電気をつけることによって、この教室はその時間、校舎の中でどこよりも目立つ場所に変わる。

 守衛さんの目から隠れてまで今この場所へいるノゾミさんが、慌てないはずがない。

 そして、恐らく理由はそれだけではない。なぜなら、電気をつけるだけならば、その間に教室から出て、身を隠すことも可能だからだ。つまり、ノゾミさんは自分自身の存在を隠すことには、そこまで神経を使っていない。

 電気を今つけられたくないということは、即ち今その状態の自分を、見られてしまったら困るのだ。――誰に? それは言うまでもない。

 わたしに、だ。

 

 ……しかし、そんなノゾミさんの思惑は、わたしには一切関係がないことだ。ノゾミさんが何をしているのか……それも確かに気にはなることだけれども。

 単純に、電気をつけなければ、わたしの鞄が見つけられない。わざわざ鍵を借りてまで教室に鞄を取りにきたんだ。当然、今日鞄を持って帰らなければいけない理由がある。

 だから、やめてと言われようと、わざわざ待っていられない。わたしはわたしの目的を果たせればそれでいい。

 ……実際、わたしが鞄を必要な理由は大したことではないのだけれども。間違いなく、ノゾミさんがここにいる理由よりは。

 ただ、それでも。わたしが自分の目的と、ノゾミさんの思惑とを比べて、どちらを優先するかは……言うまでもないことだ。

 ノゾミさんの声を無視して、わたしは電気のスイッチを探す。

 いくら暗くても、少しは暗さにも目が慣れてきているし……もう二ヶ月程度も過ごしている教室だ。殆ど時間をかけることもなく、わたしは電気のスイッチを発見する。

「ミコトさん……お願い――やめてっ」

 ――そして、わたしは何も気にすることもなく、スイッチを押した。


 電気がつく。

 教室中を、蛍光灯の光が照らす。

 その光は、暗闇に慣れた目にとっては、少し眩しすぎるようにも感じた。

 一瞬、わたしは目を瞑り、そして目への衝撃を緩和させる。

 すると、わたしの耳に、がたがた……がたがた……と、物五月蝿い音が入ってくる。

 そんな音を聞きながら、ゆっくりと目を開いていく。

 目を開けると、当たり前だけれども……毎日見慣れた教室が、そこにはあった。

 ただ、ここに今居るのは、わたしと……そして、ノゾミさんの二人だけだ。蛍光灯の光によって姿を照らされたノゾミさんは、教室の窓際……それも一番隅の方に立っていた。

 そして、電気をつけられたくなかった理由も、すぐに理解することができた。

 ノゾミさんの周りには、倒された机が円を描くように並べられてあり、そしてその円の中には、大量の新聞紙……プリントなどの紙がぐちゃぐちゃにされて置かれていた。

 ノゾミさんは、その中に立っていた。……その手に、ライターを持って。

「ノゾミさん……」

 これは――どういうことなのだろうか。

 状況から判断すれば、この後ノゾミさんは、足元の紙……可燃物の中に、手に持っているライターで、火をつけようとしていたはずだ。

 すると火が燃え上がり、火はノゾミさんの体を焼き……。

 ――ノゾミさんは、死ぬ。

 いや、もしくは単なる放火? 火をつけた後、すぐそこから出て、逃げてしまえばいい。そうすればノゾミさんは死ぬことなく、教室だけに火が広がり……。

 ……。

 いや、そのつもりなら、最初からあの中に居る必要はない。つまり、この状況から推察されることは、一つしかない。

 ――自殺。

 自分で自分を殺す。生きることを放棄する。

 ノゾミさんは、教室に誰もいなくなる頃を見計らって……自殺しようとしていた。

「……」

 ノゾミさんは、無言。わたしから目を逸らし俯き、ぎゅっと唇を噛み締めている。

 自分が自殺しようとしている現場を、他人に目撃されてしまった……と、つまりはそういうことか。


 ……しかし、その時わたしが思ったことは、そんなノゾミさんの態度など、全く関係のないことだった。

 ――どうでもいい。

 心の底から、どうでもいいと、わたしは思ったのだ。だからわたしは、ノゾミさんを無視し、自分の目的だけを果たすため、動く。

「ノゾミさん。……邪魔してしまって、すみませんでした。わたし、今日鞄を忘れてしまって……今、取りに来たんですよ」

 わたしが言うと、ノゾミさんは大きく目を見開く。……恐らく、わたしの予想外の返答に驚いているのだろう。そんなノゾミさんの様子を見ながら、わたしは続ける。

「鞄を取ったら、すぐに電気を消して帰ります。……だからノゾミさん。少しだけ、待っていてくださいね」

 そこまで言ったら、わたしは鞄を取りに、自分の席へ向かう。

 鞄は、わたしの席の上に、堂々と置かれていた。全く、これで何故鞄を忘れたのか……。特に急いでいたわけでもないのに。


 鞄を取って、わたしは歩き出す。教室から出るために。わたしがここに来た理由、目的は、もう達せられた。だからわたしは、もう帰ればいい。

 ――自殺。自殺……か。

 歩きながら、皮肉なことだな……と、わたしは思う。こんな状況でも……クラスメイトが自殺しようとしている現場に遭遇しても、わたしは何とも思わない。

 ――わたしには、既に結果が見えている。人の命がどうなるのか、見た瞬間に分かってしまうのだから。そしてその結果は、絶対的。誰が何をしようとも、変わらないのだ。

 だから、どうでもいい。どうでもいいというより……どうにもならないのだ。

 ――ノゾミさんは、死なない。

 砂時計がそう示している限り、絶対にノゾミさんは死ねないのだ。

 ノゾミさんの砂時計。正に、なみなみと言える程の量の砂が、ゆっくり、ゆっくりと流れていっている。既に落ちてしまった砂の量は……全体で言えば、まだまだほんの少し。

 これから、ノゾミさんは……今の何倍もの人生を生きる。生きなければならないのだ。

 

「……待って……!」


 と、わたしが電気のスイッチに手をかけたところで、まるで消え入りそうな声で……ノゾミさんはそう言った。

 その声に、わたしは無言で振り返る。そして、ノゾミさんの顔をじっと見つめる。ノゾミさんは、目を真っ赤にし……今にも泣き出しそうな表情を作っていた。


「待って、ミコトさん……まってよぉ……」


 そして、もう一度そう言ってから――とうとうノゾミさんは泣き出してしまった。

 一体、何だというのだろう。何で、泣く必要があるのだろう。わたしはそう思い、首を傾げる。

「……何ですか?」

 そして、ノゾミさんに聞く。何でわたしを呼び止める必要があるのだろう。ノゾミさんにとって、わたしが教室へ来たことは、思わぬアクシデントだったはずだ。

自殺するつもりだったのならば、ここでわたしに止められてしまうことは……わたしがここに居続けてしまうことは、最悪の状態なのではないか。

 だから、本来わたしがここから出て行く……この提案は、ノゾミさんにとってはありがたいものではないのだろうか。

「このことは……ノゾミさんとわたしが今日ここで出会ったことは、誰にも言いませんよ。……だから、安心してください」

 わたしはそう言い足して、もう一度電気のスイッチに手をかける。

 ――しかし。


「ミコトさん……待って!」


 ノゾミさんは、もう一度……今度ははっきりとした声で、そう言ってきた。


「ミコトさん……わからないの? わたしが何をしようとしているのか……! 私――今、自殺しようとしてるんだよ……?」

 

 ノゾミさんは一気にそう捲し立てる。そう言うノゾミさんの表情は、顔を赤くし……まるで怒っているようにも見える。

「……知っていますよ」

 そんなノゾミさんに対し、わたしは態度を変えることなく、そう言い返す。

「だから、邪魔されたら困るんじゃないですか……?」

 続けてそう言い、ノゾミさんの様子を伺う。

 そうしながら、わたしはこの状況について、もう一度考える。

 教室の窓際に立っているノゾミさん……。そして、周囲の机――足元の可燃物。

 手に持っていたライター。

 ……これで、ノゾミさんは自殺しようとしていた……。

 そして、偶然わたしが教室へやってきて。教室から出て行こうとしたわたしを、ノゾミさんは呼び止めた……。

 ――そうだ。おかしい。

明らかにおかしいではないか。これら一連のノゾミさんの行動は、どうみても矛盾している。

 ノゾミさんが……「本当に」自殺したいのならば。

 つまりは、そういうことか。


「ミコトさん……本気で、そう思ってるの……?」


 ノゾミさんは、自殺する気なんてない。……ああ、そうだ。本気で死ぬ気なんてないんだ。そう考えれば、砂時計の量も納得がいく。

 死ねない。死にたくないと思っている。だから、死なない。生きてしまう。これから先、何年も何年も。

 要するに、ノゾミさんは……止めて欲しいのだ。わたしに、自殺することを。

そのことを理解したと同時に、わたしの頭の奥で、何かが音を立てた。そんな気がした。

……。何だろう。この感覚は。

不思議な感覚が……まるで洪水のような激しさで、わたしの脳内を暴れている。


――そうだ。死ねばいい。他人の命なんて、どうでもいい。だから、ただ自殺するのならば……わたしにとっては、何ともないこと。例えクラスメイトだろうが、所詮は自分以外の他人に過ぎない。それは、誰でも平等だ。例え家族だろうが、その人が死のうとするのならば、わたしは一切止めることはしない。

だから、わたしはノゾミさんが死ぬことを……死のうとすることを、認めていた。

しかし、わたしにはノゾミさんが死なないことも同時に分かっている。つまり、ノゾミさんは、自殺未遂で終わる。わたしがいなくなった後で、ノゾミさんは足元に火をつける。しかし、その炎はノゾミさんを殺せない。

……ノゾミさんは、大火傷を負った後に耐えられなくなり、逃げ出すか……もしくは、炎をつけた瞬間、怖くなって逃げ出すか。

どちらにしても、ノゾミさんはそうやって生還する。

そしてそれからも、ノゾミさんは自殺未遂を繰り返す。しかし、どんなことをしても、死ねない。生還してしまう。

そういう人生。死にたいと願いながらも、死ねない……不幸な人生。

――わたしは、そう思っていた。

でも、それは大間違いだった。


「……本気です。わたしは邪魔しないので――どうぞ自殺してください」


 甘い。なんて甘い考え。

――茶番。

これは、そもそも自殺なんかじゃない。……自殺ごっこだ。

本当は死にたくない人間が、自分が生きる理由を探すための、自殺ごっこ。

人に止められたから、死ぬのをやめよう。まだ自分は死んではいけない人なのだからと、そう言い聞かせるだけが目的。

最初から、そう仕組まれている。

恐らく、ノゾミさんには分かっていた。わたしが、この時間に教室へくることが。

それもそうだ。あんなに堂々と、机の上に鞄が置いてあるのだから。

更に都合がよく、わたしは陸上部に所属している。だから、わたしが部活が終わってからこの教室に鞄を取りにくるのは、かなり遅い時間……もう、他の生徒が学校内にいない時間になる。

それは、絶好の機会。

あたかも本気で自殺するかのような小細工をし、後はわたしの登場を待てばいい。

するとわたしが登場し、クラスメイトの自殺現場を見て、愕然とする。そんなことはやめてと、必死に説得する。

最終的にはそれで、まんまと生きることを選択する。こんなストーリーだ。

それに、自殺を演出する小細工も、見ればすぐにおかしいと分かる。

大体、新聞紙やプリントにライターで火をつけたところで、逃げる暇が無いほど早く火は燃え上がらない。火は少しずつ、少しずつ燃えていくはずだ。そして、その場所も……窓際。つまり、外からよく見える場所だ。最悪わたしが鞄を取りに現れなくても、誰か他の人の姿を発見できれば、炎の明かりで人を誘導できる。ここまで来て、止めてもらえる。

……例え本人の表面的な意識上に、そこまで綿密な計画はなかったとしても。


――違う。こんなのは、違う。

わたしは、こんなことを認めない。

命……他人の命なんて、わたしにはどうでもいい。それこそ、命をどのように扱うかなんで、興味もないことだ。

……それでも。何かが違う。

何で、自分が生きるのか、死ぬのかすら、自分で決められないのだろう。他人に必要と……生きていいと言われなければ、生きることもできないのか。そして、生きていいと言われなかったら……死ななければならない。そのことを理解しているのだろうか。

そんな思考が、物凄い勢いでわたしの脳内を駆け巡る。

……違う。違うんだ。何が? 

そうだ、わたしの知っている……思っている、命の形とは……明らかに違っているのだ。

動物のように……ただ、生きているだけの命ではない。なんて……汚い命。

ああ、汚いんだ。生きるということに。

だから、わたしは……。


――わたしは?


「……わたしは絶対に止めたりはしません。だから、安心して。早く死んでください。火をつけて、自殺してみてください」


「……ミ……コト……さん……?」


「本当に死ねるのなら……! 今すぐここで、死んでみればいい! さあ、早く!」


――ああ、わたし、イライラしてるんだ。

……イライラするってことは、怒ってるんだ。感情が、爆発しているんだ。


「自分でできないなら……わたしがやってあげる」


 頭の中から溢れ出る感情。体中が暑くなるような熱気。それを感じながら、わたしはノゾミに近づいていく。

 自分が自分ではないような感覚。

 

「――いっ……いやっ……」


 わたしが一歩近づく度に……同じ歩幅で、ノゾミは後ろへ下がっていく。

 わたしから逃げていく。

 そうだ。当たり前だ。

 死にたくないんだから。そうしながら、わたしはふと考える。

 ――わたしが、ノゾミを殺そうとしたら。

……死ぬことが決まった人間が、砂時計の死を避けることはできない。それはもう十分に理解していることだ。

しかし、生きている人間を……今死なないと決まっている人間を、わたし自身の手で殺すことはできないのか。

砂時計はあらゆることを考慮しての命をわたしに見せている。それは分かっている。

だから、ノゾミは絶対に殺せない。それは、簡単に理解できること。

普通に考えれば、砂時計はわたしがノゾミを殺そうとすること、それすらも考慮した上で、ノゾミは死なないと知らせているはずだ。

しかし……砂時計は、器に入っているからこそ意味があるものだ。

その器が壊れてしまえば……砂時計の残量なんて、関係ないのではないか。

……つまり――器が見えるわたしの場合に限り、その器を壊す――殺すことで、砂時計の運命を変えることができるのではないか。

と、そこまで考えたところで……わたしの脳内に、新しく二つの感情が湧き上がってきた。

それは、好奇心と……恐怖。

わたしがノゾミを殺せるのか……試してみたいと思う好奇心。絶対だった砂時計の運命を、変えられるかもしれない……それを試す、絶好のチャンス。

そして……そんなことを考えた自分への、恐怖。

例え他人の命に対して何とも思っていないとしても……そう思おうとしていたとしても……。わたしは今まで、他人の命を奪おうだなんて……そんなことを少しでも考えたことはなかった。

わたしは――無関心だったから。

だからこの恐怖には、二つの意味がある。

一つは、他人の命を奪うという、発想そのものに。そしてもう一つは……他人の命について、関心を持ってしまったことだ。

怒り、好奇心、恐怖。

感情が、蘇った。

三つだけだとしても……今確かにわたしに、感情が蘇ってしまった。

……いや、三つだけでは、ない。


「何で逃げるの? ノゾミ」


 わたしはそういいながら、ノゾミとの距離を詰めていく。仮にもわたしは陸上部だ。いくらノゾミが逃げたところで、一瞬で捕まえることができる。

 更に言えば、わたしは教室の廊下側にいて、ノゾミは窓側。だから、もうノゾミは逃げられない。

 それが分かっているから、わたしはあえてゆっくりと。距離を詰めていく。


「――いや……。こっ……こないで……!」


 そしてとうとう、わたしはノゾミを壁際まで追い詰めた。

 ノゾミは……まるで小動物のように怯え、震えている。そんなノゾミの手を、ぎゅっと握り締める。


「……捕まえた」


 わたしが言うと、突然ノゾミはガクンと座り込む……恐らく腰が抜けてしまったのだろう。

 

「いやっ! 助けて……! 誰かぁ――」


――パンッ!


……。

ああ、痛い。

ヒリヒリとする。


人の頬を叩くというのは……こんなにも痛いことなのか。

……もしかして、叩かれるよりも叩く方が痛いのではないか。

そうだとしたら、本当に――わたしはばかな人間だ。


「……わたしがもし本気だったら、あなたはここで殺される……死ぬんだよ」


 痛い、イタイ、いたい。ズギズキと、えぐられているように、痛い。

 ――心が。


「例えあなたが本当は死にたくないとしても……でも、殺されちゃったら、死んじゃうんだよ……」

 この感情は……とても怖くて……それでも――。

「死ぬってことは……消えちゃうんだよ。この世界から」

 何で、この感情は――こんなにも。

「居なくなっちゃう。……確かに、生きていたのに――ここに、居たのに。感情も、体も……全部なくなっちゃう」

 熱いんだ。心の中を燃やすように……。

「死ぬって――そういうことだよ……?」


 それでも、この熱さは……なんて心地よい。


「ねえ……分かってる? ――死ぬってこと」


 これが、生きているってことだ。……この感情こそが、人間が持っている、最高の感情なんだ。


――ぽたぽた、ぽたぽた……溢れ出てくる。

涙。涙だ。


「それって……すごく悲しいことだよ」


 ――まるで、自分に言い聞かせているようだ……。死を、何とも思わずに生きてきた……わたし自身に。

 ……そうだ。死は悲しい。そんなことは、もう何年も前に理解していたことだった。

 だから、わたしは捨てたんだ。

 ……悲しいと思うことを。

 そして、そのために……悲しみを消すためには、他の全ての感情を排除しなければならなかった……。

 それ程、人間は容易に悲しみを感じてしまう。生きている限り。……生きてるってことは、悲しいことだから。

 逃げても逃げても、追いかけてくる。悲しみからは、絶対に逃げられない。

 ――自分が死なない限り。……自分を殺さない限り。

 その悲しみは、普段は上手に姿を隠している。悲しみを隠すために、人間は様々な感情を手に入れる。

 だって、死は、悲しいんだから。

 生きているってことは、そのまま死ぬということだ。

 悲しみに向かって、進んでいっているということだ。

 悲しい。何て悲しいんだろう。

 隠してしまわなければ……人間は、とても生きようとは思えない。誰もが悲しみに潰されて……どんどん死んでいくだろう。

 そういう意味では、死はとても暖かい。

 死ぬってことは、そんな悲しみから開放されるために、生きている者だけに許された行為。生きている間に、一回だけ許された……暖かい行為。

 

「――ううぅ……っ。ぐすっ……あううぅ――」


 そう、錯覚してしまう。そして錯覚したまま、何人もの人が死んでいく。自分を殺していく。

 わたしも、そうだった。自分を殺そうとした。生きていることの悲しさに、耐えられなくなった……五年前に。

 死ぬことが救い……死ねば助かると、当時のわたしは本気で思っていた。そして、実際にわたしは行動に移った。

 ――けれど、わたしにはできなかった。怖くなってしまったから。死ねば助かると思っているのに、同時に死ぬことがどうしようもなく怖かったのだ。

 手首を斬ったら痛い。首を吊れば苦しい。そう考えてしまったら、もうわたしは動けなかった。

 臆病だ――その時のわたしは、自分のことをそう思っていた。死にたいのに死ねない自分は、なんて臆病、弱虫なんだと、自分を責めた。

 そして結局、わたしは中途半端な手段をとった。……感情を殺すという手段を。

 つまり、わたしは他人の死を見たくないために、感情を殺したのではない……。それは、わたしがそう思っていただけのことだった。

本当は……死が怖い、臆病な自分を隠すために……。

 ――けれど、それは間違いだった。死が怖いと思う感情は、臆病ではない。そのことに、わたしは今頃……やっと気が付いた。

 それが、どれだけ強いことなのかということに。死んでしまいたい……生きることから逃げ出したい気持ちと、唯一戦える力。

 死にたいと思うことこそが、実は臆病なことなのだと。

 だから、死は全く……暖かくなんてない。

 その逆。冷たい。とてつもなく冷たいことなのだ。

 悪魔。死は悪魔だ。

 いつでも、どこでも命を狙う、死にたいという誘惑。

 それに、何人もの人が殺されているのだ。


――だから、死にたくないって、すごく強いってことなんだ。

それが周りから見て、どんなに醜くて……そして汚いことだとしても。

そして、それはきっと……自分の死だけではない。

他の人に、死んで欲しくないと願うこと……そのことも、実はすごく強いことなんだ。

 例えその人が死んでしまうとしても……絶対に死んでしまうことがわかっていたとしても。

 わたしは――実は、それをわかっていた。五年も前に、もうわかっていたんだ。

 ただ、気付けなかっただけで。


「――たく、ない……よぉ……」


生きるってことは、そういうことなんだと。

死にたくないと願い、死んでほしくないと願い……そして、必死に抵抗し続ける。

抵抗して、抵抗して、抵抗しつくして――やっと人間は死ぬんだと。


「しにたく……死にたくないよおおぉ!」


 まだ、見失ってない。


「わ……たし――ぐすっ……本当は……」


 生きるってことを、ノゾミは見失ってない。

 醜く、汚く……生きようとしている。

 ――だから。


「それじゃあ、生きようか」


 わたしは、そう言ってぎゅっと――ノゾミを抱きしめた。



――生きようか。醜く、汚く……人間らしく。



その日、異変は起こった。わたしの人生に、大きな異変が。

きっかけ……予兆はあった。

二週間前の朝から。涙と、恐怖の予兆が。

今思うと……あの時、既にわたしには、感情が蘇っていたんだ――。

いや、本当は最初から、わたしの感情は死んでいなかったのかもしれない。



「……で、ノゾミ?」

「――ぐすっ……何? ミコトさん」


 あれから、暫く時間が経ってからのこと。

 ノゾミはわたしが抱きしめた瞬間に、大声で泣き出してしまい……泣き止むのを待つだけで大分時間がかかり……更に。

 ノゾミがわざわざ用意した自殺セットを、わたしたちは二人でせかせかと片付けた。――これに一番時間がかかったかもしれない……。

 とにかく、今はそれも終わり……わたしとノゾミは、教室の机に二人並んで座って、外の景色を眺めていた。

 

「教えてくれない? ……何でなの?」

「……何が?」

「――理由。自殺しようとしてた、理由のこと」

「……あ、それは――」

 わたしが聞くと、ノゾミは顔を俯かせる。……まあ、言いにくいことだろうとは思う。けれど――。

「言いなさい。わたしはそれに巻き込まれたんだから、当然ノゾミには説明する義務があるでしょ」

 言わせる。

 ……気になるから。

「そういえば――ミコトさんって……そんな風に喋るんだ……」

「……。話を逸らすんじゃない」

「――うぅー……」


 もじもじ、もじもじ。

 

「あぁー……んん――」


 もじもじ、もじもじ……。

――ああ、じれったい。無理やりにでも喋らせてやろうか……そう思っていると、やっとノゾミは口を開く。


「――わたし、わたしって、生きていても、誰にも必要とされないんじゃないかって……そう思ってた」


「……何で?」


「……だって、わたしは頭も良くないし……それに運動も苦手で、本当に何もできなくて……。毎日毎日両親に怒られて……それで、わたしのせいで――お父さんとお母さんは喧嘩して……今はもう別居――いつ離婚するかもわからない状態なの」


「……それで?」


「わたし、そんなんだから――友達だって、一人もいないし……一生懸命明るく振舞ってみても、結局わたしのことなんか誰も気にしてないんじゃないかって……そんなことばっかり考えちゃって……」

 言いながら、またノゾミの目がうるうるとしはじめる。

「――ああ、もうわかったから、いいよ」

 やっぱり、わたしの想像通りだったか。自分が必要ない人間なんじゃないかと――そう思っている反面で、誰かに必要としてほしいと……そう思っていたからこその、行動。


「――理由は分かったよ。……それで、ノゾミはどうするの」

「……え?」

「今こうして、死なずに生きてるノゾミは、これからどうするつもりなの」


「――あっ……」

「生きてるだけで、何も状況は変わってないんじゃないの……? ノゾミの両親のこともそうだし、友達だって……ノゾミがいないと思っていれば、絶対にできないでしょ」

「……それは」

「だから、結局また繰り返すつもり……? また、わたしの前で自殺しようとしてみる?」

「――っ! いやっ! そんなのイヤっ!」

「嫌っていっても、実際何も変わらないでしょ。――いい? ノゾミ。変えるしかないの」

 

「でも……ミコトさんみたいには、私はなれないもん……」


――え?

「何それ……? 何でわたしみたいにならないといけないの……?」

「――だって、ミコトさん何でもできる。……勉強だって、運動だって……私ができないこと、物、全部もってる!」

「……何言ってるの?」

「羨ましい……ミコトさんのこと、私ずっと羨ましかったんだよ……! ミコトさんみたいになりたかった……。前にミコトさんが倒れた時だって、そうだったもん……! 皆すごく心配してた……あれが私だったら、絶対皆心配なんてしてくれなかった……!」


 ああ、そういうことか。ノゾミは、自分に一切の自信がない。だから、表面的に優等生なわたしが羨ましく思えた……そして、自分がいらない存在なのかもしれないと、思ってしまった。一番の核は、やっぱりそこにあったか。


「――ノゾミ、わたしに一つ提案があるんだけど」

「……え?」

「――わたしと、友達にならない……? 実は、わたしにも友達……一人もいないんだよね」

「……えぇ――?」

「さっき、わたしの喋り方でびっくりしてたでしょ……? それって、つまりわたしがこういう喋り方するの、初めて聞いたからだよね」


「――うぁ、あ……ぅ、……う、ん――」


「それって実は当たり前なんだよ……だって、他人にこういう口調で話しかけるの、わたしは初めてだから」

 わたしが言うと、ノゾミはうるうるとさせた目から、洪水のように涙を流し……。


「ミコトさんは……わたしなんかで――本当に、いいの……?」


 よく聞き取れないくらいの涙声で、そう呟いた。

 ……いいも、悪いも――。

 わたしがこんなことを思うようになったのは……感情を取り戻したのは、全部ノゾミ。あなたのおかげなんだから……ね。


 ああ、何でこんなに――そうか、感情が戻ったばかりで、上手くコントロールがきかないんだ……。

 だから、こんなにも涙が……溢れ出てくるんだ。

 ――もう、諦めるよ。

 ノゾミの憧れのミコト像は。

 わたしは、ミコト……それ以上でもそれ以下でもない、そういう名前の人間だ。

 ――でも、最後に少しだけ……抵抗をさせてもらおうかな。


「いいけど、――条件があるよ」

「――……うぅ……?」

「……わたしのこと、さん付けで呼ばないこと。――わたしはノゾミって呼んでるんだから……ノゾミもわたしのこと、ミコトって呼んで」

「……!」

「――これが条件だけど……嫌?」


「うぐっ――ばぁーか……ミコトぉ……意地悪いわないでよ……」


 ――ああ、悪かったって。

 ……だから、それが最後だよ。


「――うぅ……うわぁああああああ――!」


「うぐっ……ぐすっ……うわぁぁぁああ――!」


 泣く、泣く……泣く。

 泣いて、泣いて、全てを洗い流してしまえ……。


 ――そして、生きるんだ。

 強く、もう二度と……こんな涙を流さないために――。


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