プロローグ
命――ミコト
プロローグ
わたしは、砂時計が大好きだった。砂時計からさらさら、さらさらと流れ落ちていく砂。その一粒一粒はまるで生きているように見えた。また、砂が落ちきるまでの三分間は、何故か異様に長いようにも感じ、そして短いようにも感じていた。間違いなく、砂時計を見つめる時間は、わたしにとって特別だった。
砂時計を見つめながら、わたしはよく思っていた。
――この砂が、いつまでも落ち続ければいいのに。
砂が全て落ちきってしまった砂時計を、ひっくり返すことなく。わたしはずっと、それを見続けていた。
砂時計を見つめるわたしの周りには、いつも笑顔があった。お父さん、お母さん――お婆ちゃん。
笑顔に囲まれながら砂時計を見つめる時間が、何よりも幸せだった。
わたしは砂時計が大好きだった。
大好きだったのだ。
けれど今。わたしの机の上にそっと置いてある砂時計には、もう何年も触っていない。
――もう捨ててしまおう。
何回もそう思ったけれど、しかしそれができなかった。捨てるために砂時計に触れることすら、わたしはためらったのだ。
ただひとつ、これだけは確実に言えることだろう。
――わたしは、砂時計なんか大嫌いだ。
世の中には、色々な時計がある。例えば、今日も各地で色々な人々を目覚めさせる、目覚まし時計。他にも、腕時計や懐中時計、置時計や掛け時計。更には、日時計や水時計……少し種類は違うけれど、腹時計なんかもある。
それらの時計は、みんな時刻を知らせてくれる。
何で時計が必要なのか。そんなことは言うまでもなく、人に時間が見えないからだ。
一分は六十秒で、一時間は六十分。そして一日は二十四時間で、一年は三百六十五日。そう決められた時間。見えない時間を、見えるようにした時計。
その時計の一つに、砂時計がある。
砂時計は、直接時間を見るために使う時計ではない。ある地点からの、時間の流れを見るための時計だ。
今では、少しお洒落なタイマー程度にしか使われていないはずだ。タイマーに使うといっても、砂時計は落ちきった時、音で知らせてくれることもないし、落ちるまでの時間を変更することもできない。そのため、真面目に今でも砂時計を使っている人なんて、殆どいないと思う。
それなのに。
わたしの周りでは、いつもたくさんの砂時計が動いている。
……砂時計なんて、見たくもないのに。
もしも、人の命が見える能力を手に入れたら。
手に入れてしまったら――。
その人は、幸せになることができるだろうか。
身の回りで、毎日少しずつ欠けていく命の欠片を見つめながら……笑って過ごすことができるだろうか。
目の前にいる大切な人が、残り少ない命だと知ってしまったら、何ができるというのだろうか。
大切な人たちのために、何もできない自分の情けなさを痛感せずにいられるだろうか。
そして、それでも尚、先に進むことができるだろうか。
――わたしには……できなかった。
わたしにそれが見えるようになったのは、まだわたしが六歳の頃だったと思う。
――命の砂時計。
人の命を見せる、砂時計だ。時計が知らせるのは、人が生まれてから、死ぬまでの時間。
まるで人生のタイマーのような、そんな時計。
それは人の心臓部分に現れる、わたしにだけ見える時計。
砂時計の用途の通り、生まれた時から砂が流れ落ち始め……砂が落ちきると、その人は死ぬ。
つまり、人の命が見える能力だ。
能力といっても、それはわたしの意思で見る、見ないを決めることもできずに、自在に操ることもできない。
本当に、ただ見えるだけなのだ。
見えてしまうのだ。
……強制的に、人の命を見せられる。それも、わたしが出会った全ての人の。
出会った瞬間、わたしにはその人がいつ死ぬかわかってしまうのだ。
――人の命が見えるわたしは、幸せになることができるだろうか?
――命
誰かが、わたしの名前を呼んでいる。
わたしが好きで、けれども嫌いな名前。
お父さん、お母さん。貴方たちは、何故わたしにミコトと名付けたのですか。
命が見えるわたしがミコトと名乗ることは、何て皮肉なことなのだろう。
……といっても、わたしが命を見ることができるなんて、誰も知らないことだ。仮にわたしが誰かに命が見えるなんて言ったところで、わたしはただのキチガイだと思われるだろう。
それ程、人は普段から命など気にもしていない。
自分や身の回りの大切な人が死ぬことを、明確に意識しながら生きている人が、どれ程いるだろうか。
テレビや新聞で、殺人事件や交通事故の報道がされた時。
かわいそう、怖いと思う一方で、身の回りでも起こりえる事件だということを、しっかり覚悟できる人がどれ程いるだろう。
……人は、確かに死ぬということを。
――ミコト
わたしを呼ぶ声。
懐かしく落ち着くような声であり、一方で酷くわたしを悲しくさせる声。
ああ、わかった。
この声は、わたしのお婆ちゃんだ。
わたしが見た一番初めの命の砂時計は、わたしのお婆ちゃんのだった。
当時六歳だったわたしは、いつでもお婆ちゃんと二人だった。
幼稚園へも、毎日お婆ちゃんが送り迎えをしてくれていた。
わたしの両親は共働きで、平日は二人とも家にいなかった。お爺ちゃんはわたしが生まれてすぐに病気で亡くなったらしいけれど、当時のわたしが死の概念など理解できているはずもない。
わたしの中では、お爺ちゃんという人は存在すらしていなかった。
お婆ちゃんは優しかったけど、わたしが悪いことをするとキツク叱られた。
わたしが砂時計を好きになったのも、お婆ちゃんの影響だった。
両親から聞いた話によると、砂時計はわたしの一歳の誕生日に、お婆ちゃんがプレゼントしてくれたらしい。
それからというもの、わたしは毎日飽きもしないで、砂時計を眺め続けていたのだ。
わたしとしては、物心がついた頃から砂時計で遊んでいた記憶があるから、砂時計なんて本当にそこにあって当たり前だった。
命の砂時計は、本当に突然現れた。
いつものようにお婆ちゃんと一緒に砂時計を見て遊んでいた時、ふと砂時計から目を逸らしてお婆ちゃんを見た瞬間だった。
といっても、その時のわたしは、まだそれの意味すら解らずに……大好きだった砂時計が、お婆ちゃんの心臓にいきなり現れたことを、無邪気に喜んでいた。
お婆ちゃんの砂時計は、今にでも全ての砂が落ちてしまいそうだった。
わたしはすぐ、その砂時計に手を伸ばす。
けれど、わたしの手がそれに触れることはなく……ただ、お婆ちゃんの不思議そうな顔だけが、わたしを見つめていた。
「おばあちゃん、ここにもうひとつ砂時計があるよっ」
お婆ちゃんの心臓を指差して、わたしは本当に楽しくそう言った。
お婆ちゃんが亡くなったのは、その次の日だった。
六十七歳。まだまだ若い年齢での死だった。原因は急性心筋梗塞。突然死だったという。
朝食の時、いつもなら一番早く食卓に来ているお婆ちゃんが中々こないので、わたしが起こしにいったら……その時、その場所には、もうお婆ちゃんは生きていなかった。
「おかあさん、おばあちゃんおきないよー?」
何も知らないわたしは、ただのんきにそう言っていた。
お婆ちゃんの砂時計は、この時確かに落ちきっていた。
お婆ちゃんの葬儀が終わるまでは、両親とも仕事を休んで忙しそうにドタバタとしていた。
わたしはお父さんとお母さんが平日にも家にいることが嬉しかったけれど、お婆ちゃんがいないことが寂しかった。
死を知らないことは、ある意味残酷であり、そしてある意味幸せだと、今になってわたしは思う。何故なら、わたしはお婆ちゃんの死に対して、一滴の涙も流していないからだ。それはつまり、わたしはお婆ちゃんの死を悔やむことも……悲しむこともできなかったということだ。
葬儀が終わって最初に泣き崩れたのは、お母さんだった。
お婆ちゃんは父方のお婆ちゃんだったけれど、お母さんは本当にお婆ちゃんが大好きだったのだろう。
お父さんは泣かなかった。……いや、泣けなかったんだ。お母さんが泣いているから。自分が泣いてしまったら、お母さんを支えてあげられないから。
お婆ちゃんが居なくなってから何日か後。
夜に偶然目を覚ましたわたしは、目の前の光景に随分と驚いた。
――お父さんが、顔中をぐしゃぐしゃにして泣いていたから。
それも、お母さんやわたしに気付かれないように……声を殺して。
わたしが見た、最初で最後の、お父さんの泣き顔。
「おとうさん?」
わたしの声に気付いたお父さんは、何も言わずにわたしの手を取り、そしてぎゅっとわたしを抱きしめた。
「おとうさん、いたい」
「ミコト……みことぉ……」
いつも強くてカッコイイわたしのお父さんとは別人のような、弱弱しい声。そんなお父さんの様子に、わたしも何だか悲しくなって……。
わたしは、お父さんと一緒にわんわん泣いた。
死を知らないということは、ある意味幸せだ。
だってわたしは、お婆ちゃんが死んだことに対して、少しも悲しみを感じなくてよかったのだから。
わたしが死を理解するのは、それから数年が経った後になる。小学校へ上がり、勉強をし。
生き物は死ぬということを理解した頃に、お婆ちゃんが死んだのだと再確認することになった。
そして、お婆ちゃんの死後から、ずっと見え続けている砂時計……。誰を見ても、わたしの目には心臓部分の砂時計が飛び込んでくる。
お父さん、お母さん……毎日会う学校の友達、先生。
その中で、わたしはいくつかのことを理解した。
砂が落ちていくスピードは誰でも同じで、砂時計そのものの大きさも同じである。
唯一違うことといえば、元々その砂時計に入っている砂の量――そして、落ちきるまでの、残量だ。
そして、砂時計はわたしにしか見えていないことも理解していた。
ただ一つ、一番重要なことを、わたしは理解していなかった。
――砂時計が示しているのは、人の命だということを。
よくある話で、大切なことほど気付きにくく、そして気付いてからでは遅いものだ。
お婆ちゃんが死んでから五年が経ち、わたしが十一歳になった頃。
その時、わたしはやっと砂時計の意味を理解していた。
それまでの間に、わたしが触れてきた「死」によって。
砂が落ちきったら死んでしまう。
砂は誰でも同じ速度で落ちていく。
砂が止まることはない。
つまり、わたしは人の死を見ることができるのだと。
――それが、遅すぎた。
大切な人が死ぬことがわかってしまったら、人はどうするだろう。病気か何かで寝たきりになって、もう死を秒読みするだけのような人ならば、諦めることもあるのだろうか?
それでも尚、死に抵抗し、大切な人と一秒でも長く一緒に生きることを選ぶだろうか。
いずれにしても、死ぬと分かってしまった人の死は、変えられないのだろうか。
――死が分かるわたしには、人の死を変えることはできないのだろうか。
その答えは……。
わたしの目の前を、大勢の人が歩いていく。
その人たちは皆黒い服を着ており、ゆっくり、ゆっくりと歩いていく。
わたしは殆ど何も考えておらず、ただそこに置物のように座っていた。
歩いていく人々は皆涙を流し、辛そうな表情を隠さず表にだしている。
「……まだ若いのに……」
「娘さんを一人残して……」
「こんなに簡単に逝っちまいやがって――」
耳の中に入ってくる声は、ただの音のようにしか聞こえていなかった。
わたしは、多分その時壊れていた。
全てが終わっても、わたしは相変わらずそこに座り続けていた。
誰一人、わたしに声をかける人はいなかった。……いや、きっと声をかけられなかったのだろう。だって、その時のわたしは、本当に空っぽだったから。
かわりに、誰かがぎゅっと、わたしを抱きしめていた。……でも、その温もりですら……わたしには冷たく感じていたけれど。
「ミコトちゃん、本当にかわいそうに……」
誰かが言った。
わたしは、かわいそう――いや、違う。
わたしは……。
死が分かるわたしには、人の死を変えることはできないのだろうか?
……これが答えだった。
――両親が死んだ。
十一歳、この世の全てに絶望するには、すこし早すぎる年齢だった。
はじめまして。
水上夕日という者です。
この小説は「命」が見える少女「ミコト」を主人公とした、「命」についての物語です。
この作品が、何気なく身近に存在する「生」と「死」について、少しだけでも考えるきっかけとなれば幸いです。