風に進んで
「かぜに3cm進んで」をスローガンと掲げた我ら夫婦の青春旅行は結局は近所のお散歩レベルにランクが落ち、それでもわたしはピクニックだねえランラランランと矢沢永吉ばりの鼻歌を吹かしながら自慢のママチャリ(親父の)に跨りしこしこと鼓が丘を登っているが、ずっと頭に残っているのはそんなことよりどんなことより彼からの返事が一向にない事なのだ。それが今一番の気がかりで、今一番興味のない男に成り下がってしまっているのだ。今すぐライトナウどう言い訳をしても、彼がわたしに謝罪することなど不可能なのだ。わたしは知っている。
つい5分程前の出來事であった。「かぜに3cm進んで」というスローガン通り、追い風3cm進んだ時に橫に並んでいた彼のチャリンコを橫から蹴り倒した。運が悪く彼の落下予測地点はぐちゅぐちゅの田んぼ(? 泥? みたいななんか道路の脇の茶色いやつ)で、タイヤの接地面を支点とし、きれいな半扇を描いて倒れていった。超スローモー。しかし着泥時の音は何かあんまりとくべつに思わず、フツーに「あーチャリンココケたなー、がじゃんっぐぬぬちゅって音したなー」と、こんなもんであった。彼の顔は泥まみれになっており私はつま先から身體全てを使って、笑った。金田、そう金田は泥まみれでほんのちょっと笑ったような気がしたが、多分睨んでた。根拠もないけど。ちなみにわたしが同じことをされたら睨む。そしてグーで殴る。
今日は祝日。人が多い。あのまま寢転んでウンウン唸ってたら誰かが來てくれるだろう。わたしが助け出すのはNOである。あんな汚いもん橫に置いとけるかってんだ。救出中ぜってー服とか汚れるし。最悪。気合い入れて買ってきた洋服。まあ自分の中の人たちで侃侃諤諤して達した結果といえば、とりあえず金田は放っておいて自分はまたチャリンコ(親父の、4WDと命名した。センス◎)で鼓が丘のてっぺんを目指すことだった。
夜になれば風が強く吹くと、ニュースキャスターが淡々と話していていた。それには間に合わせないといけない。
どんどん体力が奪われてゆく。春だというのに今日は昼ごろから太陽殿下が怒髪天であるため水分の補給はかかせない。チャリ(親父の)の前カゴには2人分のサンドイッチと野菜ジュース、そして駄菓子150円分。この駄菓子は金田発案である。「だってさ! ピクニックだぜ、ピクニック! お菓子は何円までですか! 彼女も一緒にいいですか! 防音防振室はどこですか!」
ねーよそんなもん、と一蹴したが "彼女" という金田の言葉にわたしは少し腰近くに重みを感じた。彼女、彼女、彼女、彼女、彼女、彼女……。わたしに知らない金田がいるのが不愉快だったので、とりあえずここから降りたら詰問することとした。彼がもし生きていればの話なのだが。
鼓が丘中腹の広がった芝生広場ではいくつかのグループが休憩を取っている。この光景が不思議でたまらなかった。ブルーシート一枚の上で家族が遊んでいる。フリスビーが家族のテリトリーから飛び出て行く。小慣れた手つきでそれを捕まえた少年(小學低學年くらいであろう)も急いでテリトリーに戻ろうとする。例えばシートに対して尋常ならざる執着心を持つ者が家族に危害は加えずにそのシートだけをずたずたに切り裂いたとしよう。すると家族はどこへ帰って行くのだろう。
そしてグループ各々はまるで家庭で息づいているように生活をしている。そこは家じゃない、芝生だ。人工の芝生だ。刺され。
グループ同士は皆お互いを見ないふりを決め込んでおり、まるでこの空間には自分の家族しかいないみたいな分厚い面の皮したヤツらばっかりで、そしてそれにまぎれて私は地面には何も敷かずに座り込み、そのままの姿勢でバスケットに手を伸ばす。潰れたサンドイッチが1つとまだマシなサンドイッチが1つと油マシマシ染み出し放題のコンビニ唐揚げ。凹んだパック野菜ジュース。
手を拭くのもほどほどに一番潰れたサンドイッチの包裝を解き口に運ぶ。キャベツとハムとハムとたまご。うまい。うまいっつーかなんつーか、サンドイッチ味だ。まぎれもない。よもや全世界のサンドイッチがこんな味してるってわけねーよなー、不思議だ、と思う。サンドイッチと言われれば人間はこの三角いのを想像するけど、これは遊星からの物體Xみたいなんが昔この土地に來て、遺伝子操作をして帰っていったと考えればどうだろう。私たちがサンドイッチをサンドイッチと認識できるのはその関係性を示した第三者の影響が大きい、みたいな。世界史上で、世界各地に同じモノが急に発生したなら人間の及び知らぬところで何か操作されているに違いない。神の見えざる手。多分今日を迎えたのもそうである、みたいな。例えば--あちら北東側のリボンネコちゃんのシートを敷いたファミリーは、パパが攜帯ゲームをして、お子さんもそれに漏れず通信対戦に花を咲かせている様子である。遅かれ早かれあのご家庭は崩壊する……みたいな。
そうこうしている間に1枚目のサンドイッチを胃に落とした。ふう、とため息が出てタバコを吸いたくなった。ここは人工芝だ。吸えるではないか。わたしはくしゃくしゃになったNEVER KNOWS BESTを薄い唇に妖艶 (なイメージ) に挟み、イムコのペンギンライターを取り出した。グループの全員が全員こちらを振り向いた。咎められるのかと身構えたが、彼らはあまつさえわたしに問うてくるのであった。「あのーぉ、ここってぇ、タバコ、いいんですかぁ? 芝生みたいだけどぉ」
鬱陶しい。わたしの嫌いなタイプの女だ。周囲にはいつも何人かの男がいて、本當の愛すら知らずに青春の長い時を自墮落に染めて行き、しかも頭弱そうっていう。リーヅモイッパツドラドラドラ。
「あァ、コレっすか。わたし……自分、携帯灰皿持ってんで、いーかなーって、ただそれだけなんすけど」多分わたしの目は笑っていないのだろう。相手のグループのくたびれたオバハンが半身ずらして、「お一人様でしょう? もしよかったらご一緒しません?」と聲のトーンを上げて話しかけてくる。
オバハンはすごく愛想が良く、ちょっとした悪いことをしたって告白しても全部やさしくつつんでくれるような、そんな柔和な印象を受けた。マジモンの淑女、ここに極まれりである。ヤクルトガールか、果てはディアンケト系マザーか。
「あーいや、あのー、友人、てか主人? が、多分後で來ると思うんすよ。だから大丈夫です。大怪我とかしてたら來ないかもだけど」
大怪我、という言葉にオバハンのオバハン手助けスイッチが入ってしまったようで、私にできることあったらなんでもするから! ね! あ、そうだ! 番號交換しよっか、ね、なんかあった時とかアレだものね、ね、ね、 そうしましょ。と勝手に熱を上げている。
こういう時の対処法は何種類かは心得ている。
①バカなフリをする
②聞かれてもいないのに自分語りで圧倒
③持病の発作
④インチキおじさん登場
さて、落ち著いて考えてみよう。まず①は無理だ。先程かなりスムースに會話してしまっている。
次は②。これは私のトークスキルが相手よりも高い場合にしか成功しない。成功したとて自分語りに乗っかってきて余計に面倒なことになるのである。経験則である。
③持病なんてもんは特にない。
④そうそう現れるモンじゃない。
なんというか、抜本的に敵う相手ではなかった。
私は考えるのをやめて、もう一度お節介オバハンに向かい直すと、遠くを見たままぎょっとした表情で丘広場入口を見つめている。周囲のグループもほぼ全員の視線もその出入り口のゲートに注がれている。 この公園の出入り口は一箇所のゲートのみで、あとは外周を囲むように高めのフェンスと高めの木が、ロリコンやらペドフィリアやらからお子たちを守る。
しかし、今。あからさまにヤベー奴が、正面ゲートから、ゆらゆらと幽霊の様相で真っ直ぐこちらへ進んでくる。ドロドロのパーカーからは水が滴っている。チャリからは謎の枯れ草みたいな何かがブレーキパッドからぶら下がってて、タイヤを回すたびにコキコキ鳴ってる。最悪だ。ぐっちょぐちょの泥おばけ、お前ベトベトンか何かに襲われて来ただろって感じ。ゲート近くの子供達は這々の体で逃げ惑っている。
ゲート付近で逃げ惑わせてたら世話ねーわなぁって私は思ってたが、それが知り合いなんだから、やっぱ最悪だった。
しかし嬉しかったのも確かだ。しかし私は大人である。ここで大喜びするのは頭空っぽのヤンキーねーちゃんだけだ。多分リボンの白貓の健康サンダルだ。しかし、気持ちの奧の、心の奧の、自分ではどうすることも出來ない機関に金田がしゅるしゅると潛り込んでくる気すらしたのであった。
やがて金田は私だけを見続け、私だけに歩を進め、私の前に立った。他のグループ概算20余人も未だに私たちを観覧している。おい金とるぞ。私たちは今お互いの愛を確かめ合ってんだ。そこは番組ロケ観覧席か? ああん? 見世物じゃねーんだぞ。
どんどん近く。どんどん、どんどん。歩み寄ってくる。
そして私は呼吸を止めて1秒。覚悟は決まった。わたしは金田がこの場所までともにしてきたガイアのかけらをキスをする。と思ってたらしなかった。何考えてやがる金田。
「サンドイッチ、まだある?」
泥より食い気。なかなか大和男児である。
そのまま彼までも、どすんと緑の上に座り込んでサンドイッチを取り出した。
「泥、落とそう、先。汚ねーから、ほら、あそこに手洗い場ある から」
言いながら私が辺りを見回していると、言うか早いか金田はもうすでに1枚完食していた。あまつさえ指をペロペロしている。だから胃腸が強いのかなんてどーでもいい事を考えた。
もう私たちに注目するものはいなくなった。いや厳密に言えばさっきのババア(オバハンからババアに昇格)だけがこちらをチラチラと気にしている。まるでコンクリートジャングルの中でシマウマの親子を見つけたような、好奇心だけで出来上がった眼差しである。
「どれ食べた?」
「んー、なんかパンとパン」
「それ中落ちじゃん! いや中落ちが何か知んないけどさあ、なんつーの、それサンドイッチの外皮だよ、そりゃパンだわよ」
金田は口に含んだようにああ、と軽い嘆息を漏らした。
「これ食べ終わったら、てっぺんまで登ろうか」
私は彼の提案に賛成する代わりに、交換條件として体(洋服ごと)を洗うことを約束させた。
下
丘のてっぺんまで到着した頃にはもう陽は傾きかけ、春特有の肌寒さが頬をつく。金田は引きも切らずにくしゃみをしているが、彼なら風邪とかいう問題はないだろう。理由はないけれど。金田だから、大丈夫。ハウスルールみたようなもんだ。私は頂上展望台の落下防止柵に両手をつき、突っ伏すようにもたれかかり疲れた足腰を労った。金田は背を凭せ掛け、何か考え事をしている。
「ちょっと、でもなんか気持ち悪かったよねえ」
私は薬ポーチをかき回しながら言う。ん? と神妙な返事があった。
「ピクニックの人たちよ。決まったコミュニティからはなかなか抜けられないし、入り込みにくいってこと。居場所がありすぎて居場所がない場所、みたいな。あ、あと金田待ってた時にね、ナンパされちゃった」
金田は弩のように背中を立たせ、横目に私の目を見つめている。こういう時の金田は何も言わない。
「いやそれからすぐキミが來てくれたから良かったんだけど……あ、ナンパってアレだよ、クソ親切押し売りババア。あれはどういう心理なんだろうね」
「それは……お前がただ単に寂しそうだったからだろ。それで聲かけてくれた。いい人じゃないか」
「別に私一人でも寂しくないし、つーか一人になったの自体私が金田を蹴り落としたからだし、割とどーでいいっつーか」
人は結局人を求めて生きているのだ、と思う。その本懐から人を寂しがらせるのは罪だと考えている節もある。暗黙の了解の偽善みたいな。
「結構、痛かった」
感情を込めずにそういった彼の目は細く夕陽を眺めていた。傍目で見るとただ眠そうな表情にも見えるが、金田が何かを考えている時は大抵この目をしている。もうすぐ今日が終わる。今日で全てが始まるさ。
金田は展望台から離れ、側に備え付けられているテーブルに大の字に寢転んだ。その姿勢だとロマンチックたけなわの夜景も見られもしないではないかって思ってたら金田は「星と、湖と、街中。俺は星、お前は?」と尋ねていた。
「私は--」
本當はあなたと一緒ならどこでもよかった。歩き慣れた歩道橋も、躍起になった電柱登り、海に入らない海遊び、ゲーム、ボウリング、キャンプ。全てのイベントは全てが私の記念日だったのだ。
「私はでも、君が見えるのが、いい……かも……」
自分でも語調が弱くなって行く。最後の言葉は金田に聞き取れたのだろうか。
「おれは湖かな。生命は水から生まれて來たんだ、タレスもそう言ってる。あと今見て気づいたんだけど湖にも星が浮かんでる」
「あ、つかめそう」
わたしが手を伸ばすと星はくねくねっと水に踴られてしまう。
「なんもなんねーよ」
その言葉を皮切りに二人の會話はなくなった。
夜の帳が下りかける。ゆっくりとゆっくりと慈しむように宵闇が街を包み、伴って街中だけが明るくなってゆく。少し、泣いたかもしれない。金田は多分泣いていない。わたしにはわかってしまう。その事がうれしい反面、孤獨感すら感じられる
「ひまり」
金田が私のことをそう呼ぶ時は、そういう時だ。考えるが早いか彼はわたしの上には覆い被さり、キスをする。何度も何度も何度もなんども、そして触れる。割れ物を扱うように、つーか豆腐でも扱うみたいにわたしの全てを撫でてゆく。チュニック、シャツ、ブラ、ロングスカート、ショーツ、と上から順番に脫がしていった。暗夜でも分かったのか、おろしたてだった下著一式を、金田はさも愛おしそうに愛でていた。
私たちはそのまま抱き合った。暖かさを分かち合うように、寒さを誤魔化すように。彼の肩からは湯気が立ち上っていた。彼はすぐに果てたが、私たちはそれでも長いこと抱き合っていた。人間が動物であることを実感する。震えはもうなかった。彼は落ち着きを取り戻すと全裸のまま自身のバックパックをごそごそとかき回し、一枚のポラロイドを出した。
「あの頃の海斗。まだ小さいな、2250g……って書いてある」
「あ、そうそう、彼女って何さ」
金田は「はあ?」とため息のような聲を出し眉根を寄せる。息が白く昇る。
「おやつがどーとかの時にさ、言ってたじゃん。彼女は連れて行っていいのかーとかって」
「ああ、これ」
言いながら金田はジャケットの内ポケットから小さな編みぐるみのキーホルダーを取り出した。私だけが忘れていたのだ。それは私たちの息子が生まれた時に、私がその手に握らせたキーホルダーだった。海斗はこの編みぐるみがお気に入りで、生まれてから鬼籍に入るまでの短い期間ずっと手の中で弄び、感触を楽しんでいた。
この記憶を汐に、私の中に海斗についての様々な事が目まぐるしく蘇る。
まだ目も開かないうちからこの編みぐるみを愛でていた我が子。この子を幸せにしてやろうと三人抱き合った病室のベッド。希望と可能性に溢れた小さな手足。夜泣きがひどく私はいつも睡眠不足だったが顔を真っ赤にする我が子を見ていると私がどうにかしてあげないとと腕の中であやした。出張が続く金田の顔をなかなか覚えず金田が近づくとまた泣いた。端午の節句に兜飾りを買約していた。そして、生を受けて八ヶ月、呼吸に飽きたように突然息を止めた、我が子。
「これ、彼女。海斗の」
そう微笑む金田に、私はまた嗚咽を漏らした。
やっと家族3人に戻れる。もうすぐ風が吹き出す。まだ若い芽を出しただけの桜の枝がふるふると、少しずつだけど揺らしている。もうすぐ、もうすぐだ。私たちも夫婦は風に進む。
金田の両手はテコでも開かぬほどに握り固まっている。
「そろそろ飲み出そっか。効いてくるまでにちょっと時間いるし。焼酎、持ってるよね?」
「万端」
私は返事も聞かず大量の入眠剤をキャンプ用品の飯盒にざらざらと流し込む。その間に金田は焼酎を一気飲みしている。
「吐いたら入水中つらいから吐き気どめも山ほど飲んだほうがいいわ」
その辺りから私の記憶はおぼろげだ。
彼らは用意を進める。いくら春でも夜になると、特に山手だと寒さは顕著である。凍死せぬよう急いで準備を終わらせた。時に笑い、時に政治談義をし、時に歌を唄い、まさに遅咲きの花が満開になったような、やさしい、暖かい、そして冷たい、そんなギリギリの人の温かみを愉しみながら、それでも彼らは胸に秘めたる想いを露わにできないでいた。
--こんな話をしたかったのではない、違うんだ。もっとお前に伝えたかったことがあるんだ。俺はお前を愛していた、いや、愛している、だから、許して欲しいとは言わない。ひまりがどっか行く時は、俺もどっか行く時だ。夫婦なんだ。ただの夫婦じゃない。愛し合ってる夫婦なんだ。だから--
風が吹いた。
--なぜなんだろう、ずっと考えてたことが全部なくなっちゃった。本当に、感謝とか、意思とか、あなたの熱意、家族がいちばんに大切な金田。ううん、伝わっている。伝わっている。私達は夫婦だもの。私家族になれたのかな。もうすぐ海斗に会えるのかな。それが私達の最後の仕事。だよね、そうなんだよね--
風が強く吹いた。
「のんだ?」
「うん、うーん、んん」
金田はだるそうに返事をした。夫婦の会話を楽しんでから果たして一時間は経過していただろうか。二人はひどい酩酊状態であることは見るに明らかで、生まれたままの姿で大母への回帰を図る。
「いこっか」
ひまりがごろごろと転がりつつ、芝生に手を突っ張り立ち上がる。体全体に力が入らず、何度も芝生に崩れる。
「〽︎この夜が明ければきっと、君は朝になる」
金田が突然口ずさんだ。目はもう虚ろだ。
「あにそれ?」
「昔流行ったバンドの歌詞」
「多分わたしそれ好き。また今度貸してね」
「いい曲いっぱいあるんだ、また今度、一緒に聴こう」
"今度"という時が来るのかは誰にも分からないが、分からないからこそ信じられることもある。少なくとも幼くして別たれた我が子はいつも願っていただろう。金田はそう思う。そしてその日が来ることを強く願った。
「〽︎またいつか出逢えたなら、もう一度、二人を始めよう」
「わたしたちにぴぃたりの曲」
彼女の瞳には生への執着すら感じられたが、しかしもう叶わない。二人が選んだ、二人なりの最善の方法なのだ。
感覚で判断するしかないが、強い風が吹き始めた。最初に二人が決めた時間である。夫婦の青春旅行は終点に至る。
「じゃあ、また、あとで」
彼女は返事すらできないほど憔悴していたが、辛うじて手を振る。それを確認した彼はザバザバと慣れない足取りで湖に降りてゆく。そして、風の音だけの宵闇の静寂に包まれていた。
彼女は、(海斗、私たちはお前に帰るよ。お前の中に。みんな一緒さ。すぐに迎えにゆくからね)と心の中で唱えて、金田に続き湖へと沈んでいった。
そして夜の湖は、3度目の静寂を取り戻している。