七章『彼女たちは語り合う(1)』
アンフォール唯一の診療所に住み、唯一の医者である彼女の名はさくらといった。名前をつけたのはひなたである。
彼女は自分の親を知らない。いや“親”というのは随分と狭い表現の仕方かもしれない。実際は、ひなたが初めてさくらを見つけたとき、彼女は親も故郷も、その他自分に関する一切の記憶を持っていなかった。
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それは、とても暖かい日のことだった。みかげとは別にフブキの情報を集めに行っていたひなたは数週間ぶりに帰郷しようと思い、偶然そこを通りかかった。
女の子の泣き声が聞こえ、ひなたは足を止める。自分と同い年か、もしかすると少し年下にみえる少女が大きな木の下で泣きじゃくっていたのだ。服はぼろぼろで身体は傷だらけだった。
ひなたは迷うことなく彼女の元に歩み寄った。
「どうしたの?」
彼の問いに彼女は顔を上げた。泣きはらした目が彼を見つめる。その顔からは怯えしか感じ取れなかった。
「ひとりぼっち?」
ひなたは彼女を安心させようと笑顔になったが、それでも彼女の恐怖を取り除くことはできなかった。
「ん〜……。名前は?」
「ご……」
そこで彼女は初めて反応を見せた。しかし、言葉は続かない。口は動くが、それは音を発しなかったのだ。ひなたは首をかしげて彼女の隣に座り込んだ。
「僕は、ひなた」
彼は自分の名を告げることにした。彼女は目をぱちくりさせながらひなたを見つめる。そして口だけ、ひ・な・た、と動かした。音は、ない。けれど、何かを思い出すかのように、その言葉に何か特別な意味でもあるかのように、何度か、ひ・な・た、と首を傾げながら口を動かした。
「そう。ひなた」
ひなたはそんなことを気にも留めずに、またにかりと笑った。白い歯が見え、彼女も幾分か落ち着いて見えた。……のだが、
「ご、ごめんなさい」
ようやく聞き取れる声がした。が、なぜ彼女が今謝罪の言葉を口にするのかをすぐに理解することはできなかった。ひなたが首を捻ったのも束の間、彼女の顔は再び怯えの色に染まった。原因は彼女の震える指が教えてくれた。彼女はひなたの腰部分を指差したのだ。
「あ」
今度はひなたが声を失う番だった。彼女はひなたが刀を持っていることに気づき、そのせいでがたがたと震えだしたのだ。これはまずい、と思ったひなたは急いで刀を外すと、荷物の中に無理やり詰め込んだ。柄の部分は入りきらず、それだけ飛び出す形になったが、自分は武器を持っていなし、彼女を襲う気はないことを示すためには、とにかく身体から武器の類を遠ざけるべきだと感じたのだ。
「ごめん、なさい。ごめんな――」
「大丈夫。僕は別に君に危害を与える気はないよ」
謝り続ける彼女を安心させようと、ひなたは自分が丸腰であることを示してにっこりと笑った。
その顔を見て、彼女は「ごめんなさい」以外の言葉を初めて発した。
「……ほんと?」
「もちろん」
依然として、その表情は硬かったが、とにかく泣き止んだらしい彼女はひなたの顔をじっと観察するように見つめた。
「あ、あのさ。それで、名前は?」
あまりにも強く凝視されたことで照れてしまったのかひなたは彼女から目をそらすと、ややぶっきらぼうにそう言った。彼女はその問いにきょとんとした顔を作り、指を唇に当てた。
「……分かんない」
「え?」
「……何も、覚えてない」
思わぬ返答に、ひなたは視線を彼女の元に戻した。そして、ひなたは気づく。当の彼女の顔は憂いに満ちていた。
(記憶喪失? それとも、何か思い出したくないことでも――)
そこまで考えて、ひなたはもう一度彼女の姿を見た。髪の毛は埃だらけ、服は何かに襲われたかのようにぼろぼろ。そして、無数の怪我。
ひなたは何かに襲われ、恐怖のあまりこれまでの記憶を忘れてしまった、あるいは、思い出したくない過去を自らで無理やり消したのではないか、と推測した。そして、事実、後者の想像がほぼ当たりであったのだが、彼がそれを知るのは随分と先のことになる。
「じゃ、僕があげるよ」
「え?」
ひなたが言ったと同時に、桃色の花びらが彼女の鼻の頭にのっかった。彼らが背をもたれている木には満開の花が咲いていたのだ。ひなたは知識として知っていたが、ここまで綺麗に咲き誇っているのを実際にその目で見たのは初めてだった。
「さくら」
そうして、彼はその花の名前を告げた。木々の合間をぬって日の光が差し込んでくる。それが彼女の鼻に乗るさくらの花びらを照らし、次の瞬間、風がそれを吹き飛ばした。おまけに、頭上に咲いている花が風によって散っていき、その花びらが舞うのに合わせて彼女の髪の毛が揺れる。
ひなたの目はその“絶景”に釘付けになった。
彼女の長い髪の毛とさくらの花びらが日に照らされ、この世のものとは思えないほどに美しい景色を生み出したのだ。ひなたは今見ている光景ほど美しいものに出会うことは二度とないのではないか、と錯覚するほどに心を揺さぶられた。
しばらくして風がやみ、ひなたは彼女の顔を見つめて告げる。優しい微笑みを加えて。
「君は、さくらだ」
「さくら」
さくら、と名付けられた少女は、その言葉を繰り返し、無表情のまま首を縦に振った。そして、微笑むひなたをじっと見つめ、一瞬だけ泣きそうな顔になり、それから再び感情の読めない顔になった。それはまるで、自分が何故泣きそうになったのか理解できない、というような表情の変化だった。
「さくら」
先ほどの奇妙な表情の変化を隠すように、もう一度、言う。今の彼女の表情からは判断のしようがなかったが、ひなたは気に入ってくれたものだと信じて、すっと立ち上がった。
そして、自分を見上げる彼女の顔を見つめ、次の言葉を発しようとし、
ぐぅ〜。
間の抜けた音によって、それは妨げられた。ひなたは呆れたように笑い、それを見てさくらは頬を朱に染めた。
「お腹、すいてるの?」
「ん」
ひなたは荷物の中から水筒と金属の箱のようなものを取り出した。そして、コップに水槽の中身であるお茶を注ぎ、金属の箱から、彼が握ったのであろうおにぎりを取り出すと、それを彼女に手渡した。
「食べていいよ」
「でも」
さくらが申し訳なさそうにして受け取らないので、ひなたは無理やりにそれを彼女の手に持たせた。
「いいから、早く食べて」
「う、うん」
さくらは、まじまじとお握りを見つめてから、それを一口かじった。
「美味しい」
それが、ひなたが見たさくらの初めての笑顔であった。えへへ、という擬音がぴたりと当てはまるような、そんな愛くるしい笑顔だった。ひなたはそれを見ている自分の鼓動が早まるのを感じた。その笑顔に魅入られたのだ。
余談であるが、その後ひなたが食にこだわる旅人になる理由は、ここにあった。誰かが“美味しい”と言い、笑顔になることに、ひなたは喜びを見出したのだ。
「良かった」
「ありがとう」
あっという間にお握りを食べ終え、お茶も飲み干したさくらは小さく頭を下げてお礼を言った。
「いいよ、別に」
「ありがとう」
ひなたは何度もお礼を言う彼女を制して、そっと手を差し出した。さくらは首をかしげ、その意味を考えている。
「一緒に行かない?」
その問いの意味を理解していないかのように、彼女はさらに深く首をかしげた。
「言い方を変えるね」
ひなたはさくらの手を掴むと、彼女を立ち上がらせた。しかし足に力が入らないのか、彼女は思わず倒れそうになる。危ない、と思い支えようとした。そう、支えようとしたのだ。形として抱き合う形になったのは、意図的ではなかった。不可抗力だ。それが、さくらをぎゅっと抱きしめて、顔を真っ赤にしたひなたの頭を駆け巡った精一杯の言い訳だった。
「一緒に行こう、さくら」
そして、そのままの姿勢でひなたは言った。さくらは、ん、と小さく声を漏らすと、彼の胸に顔をうずめて頷いた。
「うん、ひなた。……ありがとう」
こうして、アンフォールに人口がまた1人増えた。
ひなたが背負ってきた少女は、あっという間に、その町になくてはならない存在となる。いつの間にか、そういうことになっていた。度々出かけて行っては、たいてい怪我をして帰ってくるひなたやみかげといった他の町人の面倒を見ているうちに、彼女はその技術を磨いていったのだ。
はじめは、ひなたに対する恩返しのつもりで怪我の治療を始めたのかもしれない。しかし、どういった理由があったにせよ、彼女が努力をしたことに違いはない。
要するに、彼女は医者としての技術を独力でゆっくりと、しかし確実に身に付けていったのだった。




