四章『彼女は勇気を振り絞る(5)』
「……」
おかしい、とは思っていた。元々この政府本拠地で暮らしていたらしいハム吉の指示で、侵入は容易にできた。けれどその後、すぐに警報機が鳴ったことから自分が侵入していることは完璧に気づかれているはずだ。しかし、それにしては自分を追ってくる人間が少ない気がした。しかも、発見されても発砲もされなければ、取り押さえられもしない。どこかに連絡を入れ、目の前から消えていく。
これは、いったいどういうことなのだろう……。
「むっ」
前方から足音が聞こえユキナは壁の後ろに身を隠した。自分はナイフも銃も使えない。唯一持っている武器といえば、ハム吉がこしらえてくれた“これ”だけだ。ユキナは腰に吊るしたそれに軽く触れると、祈るように彼の名前をつぶやいた。
「ひなた……」
足音がユキナの隠れる壁の前方で止まった。音の数から推測するに、そこにいるのは数人といったところだ。飛び出すと同時に、これを投げつけよう。ユキナはそう決断した。
「ユキナさん、かな?」
が、それを実行する前に声がした。最近、どこかで聞いたような声だった。
「出てこないなら、こっちから行っても良いか?」
思い当たった。この声は、だいちだ。自分を保護すると言い、そして、ひなたを処刑すると言った、あの男だ。ユキナはきつく唇をかみ締めると、意を決して飛び出した。
「こんばんは」
言いながら、だいちは驚いた。少しは武装してきているかと予想していたのだが、彼女は全くの丸腰だったのだ。いや、正確には腰の辺りに妙なものを用意しているのには気づいていたが、それが彼らを脅かすほどのものではないことを理解していたために、だいちは彼女が丸腰だ、と判断したのだ。
それよりも、だいちにとって印象的だったのは、彼女の足はがくがくと震えており、抵抗できないので捕まえてください、と言っているようにしか思えなかったことだ。
だいちは緊張を解くと構えていた拳銃をゆっくりとおろした。
「ひなたは、どこだ?」
ユキナは勇気を振り絞って、そう発した。声は震えていた。それはユキナ自身はもちろんのこと、彼女の前に立つだいち及びその数名の部下たちも気づいていた。
彼女は明らかに恐怖で震えていた。
「それは教えられない」
だいちは首を横に振り、一歩足を踏み出した。そして腕を伸ばして彼女を掴もうとした、そのとき、
「ユキナっ! 行けっ!」
遥か後方から大音量の叫び声が聞こえた。それを合図にユキナが何かを地面に投げつけた。
その何かが地面にぶつかった瞬間、辺りを白いもやが包み込んだ。
「やはり煙玉か」
だいちは至って冷静にそう言うと、煙の中を移動していく影を目で追った。部下たちは動揺を隠せないらしく、辺りをきょろきょろとしている。
「この程度では私を撒くことなど……」
だいちがすぐさまユキナの後を追おうとしたときだった。どこからか、何かのうめき声のようなものが聞こえた。いや、うめき声というのは少しおかしな表現かもしれない。何十人もの人間の声が轟いたのである。
「これは、まさか」
だいちは思わずユキナを追う足を止め、その声に集中した。何かがここで暴れまわっているようだ。そして、ハム吉が姿を現した方向にいったい何があったかに思い当たり悪態をついた。
「やられましたね」
だいちは無線を手に、部下に指示を与えると自分はユキナの後を追った。
煙はようやく消え始めていた。
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「確か、ここの監獄は脱獄の危険性を考えて、最も脱走が困難と思われる最下部から順に重要な凶悪犯を拘留しているはずだ。ということは、だ。ひなたを本気で公開処刑にする気なら、多分――」
「一番下にいるってこと!?」
「ああ、そうなるだろう」
「それじゃあ行ってみよう」
階段を駆け下りながらユキナとハム吉は会話を続けた。煙玉くらいでしのげる相手とは思っていない。
だから、とにかく足を止めるわけにはいかなかった。家の中で大事に育てられたユキナは体力に自信などなかったが、それでも懸命に駆けた。足は既にちぎれそうだった。
「あれ? ここで階段がなくなってるけど」
「別の場所に続きがあるはずだ。階段の場所を分散することで、脱走者や俺たちみたいな侵入者を迷わせたいんだろ。ちっ、なめんなよ。いいか、とにかく俺の言葉に従え。その通路を突っ切れ!」
ハム吉の指示でユキナは通路に飛び出した。細い通路で、横に部屋などない。階段と階段とをつなぐただの通路のようだった。
前方の左に開けた場所があるようだった。あの空間の大きさからいって、そこに階段がある可能性が高いと思ったユキナは、スピードを緩めずに、一気に左に、
「さすがは元政府の諜報部隊。油断していた。まだまだ未熟だと痛感したよ」
いつの間に追い抜いたのか、階段の前に立っていただいちにユキナは思い切りぶつかって後ろに跳ね跳んだ。
「隠し通路くらいある」
驚いた顔のユキナと腹立たしそうに顔をしかめるハム吉を交互に見てから、だいちはそう言った。そして、にこやかな微笑みをその顔に貼り付けたまま拳銃を向ける。
「ど、どどどどどうしよう? ハム吉!」
「落ち着け、とにかく落ち着け!」
ユキナは動転してハム吉の頭をばんばんと叩く。一方のハム吉はあくまで冷静に今の状況を分析していた。とにかく、時間が欲しい。考える時間が欲しかった。
「その顔、どうした?」
そこで、ひとつの問いかけをした。だいちの顔が腫れていることに純粋に疑問をもっていたこともあって、ハム吉は時間稼ぎのためにそれを訊ねたのだ。
しかしハム吉の思惑は裏切られる。だいちは薄く笑って、それを無視した。
「悠長に話している時間がないことは理解しているな? 全く、ただでさえ忙しいのに無駄な仕事を増やしてくれたもんだ」
ハム吉は舌打ちしたい気になったが、わざわざ蒸し返すこともせず、相手の神経を逆なでするような声で言う。からかうような、蔑むような声。
「脱獄囚のやつらはうまくやってんのか?」
「そうだな。どうやら随分とてこずらされているようだ」
先ほど聞こえた声は脱獄囚たちの声だったのだ。この地下刑務所に侵入したユキナとハム吉は、まず二手に分かれた。ハム吉は何箇所にも分散された監獄のうちのいくつかの鍵を開けてやり、囚人たちを脱走させたのだ。監獄の鍵のありかについては、元政府の諜報部員であるハム吉はもちろん知っていたし、その身体の大きさから看守に気づかれずに鍵を奪うこともたやすかった。
計画では、それの混乱に乗じてひなたを救出できれば万々歳だったのだが、やはり、そううまくはいかないようだ。
「とにかく、今の私の仕事は君たちを確保することなので、覚悟してもらうとしよう」
「くそっ」
言った瞬間、銃声が鳴りハム吉の身体が吹っ飛んだ。ユキナの目に、それはスローモーションのように写る。宙を舞ったハム吉は、そのまま後方の壁にぶち当たり地面に落ちた。
「え?」
ユキナは目を見開いてハム吉に近づく。ぴくりとも動かないハム吉を見下ろして、唇わなわなと震わせた。
「何、した?」
冷たい声がだいちの耳に飛び込んだ。彼を見据えたその瞳は、先ほどまでの少女のものとは明らかに異なっていた。その奥底にある熱い光に、だいちは唾を飲んだ。
「うああああああああああ!」
その叫び声は空気を奮わせた。そのせいで引き金を引くのが1秒ほど遅れた。そのわずかな時間でユキナががむしゃらに放った拳がだいちの頬をかすめた。ぴりっとした痛みが走り、続け様に銃声が鳴った。
どさりと床に倒れるユキナを見て、だいちは頬に手を触れた。血が出ているということはないようだった。それからユキナをひょいと担ぐと、ハム吉を自分のポケットの中に入れる。
「だいちさん、だいちさん」
と、無線から声が聞こえた。脱獄囚を捕獲している部隊からの連絡のようだった。
「どうした?」
「こちらは大方片付きました。そちらはどうですか?」
「こっちも今終わった。この子の処理が終わり次第、そっちと合流する。君たちは残りの脱走囚の捕獲に全力を注いでくれ」
分かりました。という声が聞こえて、無線は途切れた。だいちは、はぁ、とため息をつくと、困ったように首を横にひねった。
「さて、どうしたもんか……」




