プロローグ『ひなたに降るユキ』
――少女は宙を舞っていた。
見渡す限りにどこまでも広がる荒野の上、燦々と輝く太陽が照らす下。叫ぶことも忘れて、宙に舞い上がった少女はまるで夢でも見ているかのような心地になったが、不意に重力を感じたために、いずれおとずれるであろう地面との衝突が鮮明に頭に浮かんで、ぎゅっと目をつむった。
それと同時に一陣の風が吹いた。
想像していたのと比べてあまりにも柔らかい衝撃に少女は疑問を抱き、きつく瞑っていた目を恐る恐る開いた。
「だ、大丈夫ですか?」
少女がぶつかったのは硬い地面ではなく、誰かの腕の中だった。誰かは焦った声で少女に語りかけ、少女は間の抜けた声を漏らした。
「……へ?」
少女を抱きしめるようにして受け止めていたのは1人の青年だった。すらりとした体型の彼は腰に1振りの刀をさげていた。歳のほどは20歳の手前くらいだろうか、背中に小さなリュックを背負っただけのラフな格好だった。見惚れるほどに鮮やかな蒼髪が印象的な彼は、少女が落ち着いたのを悟るとそっと地面に下ろした。
「いきなりあなたが降ってきたので驚きました」
「あ、す、すみません」
微笑む青年を前に少女はぺこりと頭を下げ、それに合わせて肩ほどまで伸びた髪が揺れた。10代の半ばくらいに見える少女は、こんな荒野を彷徨う人間としてはあまりにも不釣合いだった。
「きちんと運転しないと危ないですよ」
青年は彼女の後方に転がっているバイクに視線を向けて言う。そこには無残に横たわるバイクがあり、少女は顔を火照らせて俯いた。
「と、止め方が分からなくて……」
「え?」
少女の言葉に青年は目を丸くして小さく声を上げた。そして当然の疑問をそのまま口にするが、そのせいで彼女をさらに困惑させることになった。
「では、なぜバイクに乗っていたのですか?」
「……え、えーっと、い、家出?」
「家出?」
「う……お、お出かけ?」
少女はもじもじと指をいじりながら答える。青年はため息をつくと、しゃがみこんで彼よりも頭1つ分ほど身長の低い彼女に視線を合わせた。
「あの――」
「おいこらユキナ! 俺を無視して会話を続けんなっ!」
青年が口を開いたと同時に足下から声が聞こえた。反射的に青年は視線を下に走らせる。そして、そこに奇妙な存在がいることに初めて気づいた。
「あ、ごめん」
ユキナと呼ばれた少女が足下で喚くハムスターをつまみ上げ、ポケットに入れた。青年はそれを指差して彼女に問う。
「そ、そちらは?」
「俺か? 俺はハムスターのハム吉。……ああ、待て待て。言いたいことは分かる。言われる前に言っておく。いいか。安易な名前だと文句は言うな」
しかし、答えたのはユキナではなく、そのハムスターだった。
「は、はぁ……」
青年は身体のわりに態度の大きい“人間の言葉を喋る”小動物を前にして少しばかり動揺をみせた。ただ、それは本当に少しばかりであり、彼はすぐに平静を取り戻すとハム吉と名乗った小動物をまじまじと見つめた。
「人語を話す動物なんて初めて見ました」
「そらそーだ。普通に生きてりゃ、まず出会えないそりゃもう希少価値の高い存在だからな。……にしては、あんまり驚かないんだな。つまんねぇ。ああ、つまんねぇ」
「それは、すみません……。しかし、僕の目の前であなたが喋っているというのが現実である以上、疑う理由はありませんから。自分の目で見て、自分の耳で聞いたことを信じないわけにはいきません」
「……そうか。歳の割りに悟ってんだな」
ハム吉は気分良さそうに、へへ、と笑った。青年は興味深そうにやはり偉そうな物言いの小動物の頭を指先でなでると、小さな微笑みを浮かべた。それから、すっと立ち上がると恭しく頭を下げる。
「ユキナさんにハム吉ですね。遅れましたが、僕の名前はひなたといいます」
「ひなた……」
そう名乗られて、ユキナはつぶやくように彼の名を繰り返し小さく頭を下げた。頭を上げると、その瞬間を見計らったかのようにひなたが問いかけてきた。
「それで、ユキナさん」
「はい?」
「なぜ家出など?」
「え? え、えーっと……」
ユキナは言いにくそうに逡巡し、ひなたから視線を逸らした。
「家出っつーか、ありゃ“逃げ出した”って感じだな」
「……う」
ユキナは目を伏せ、小さく身体を震わせた。その様子を見ていたひなたは何かを察したのか、顎に手を当てて、なるほど、とつぶやいた。
「どうやら野暮なことを聞いたようですね。あなたのような女の子がこんなところにいるくらいですから、きっと人には言えない特段の理由でもあるのでしょう」
ひなたは微笑みを浮かべてユキナの頭を優しくなでた。ユキナは驚いたように顔を上げると、頬を染めた。
「それで、あのバイクはどうされますか?」
依然として転がっているままのバイクを指差してひなたが言うと、ユキナは弾けたようにそれに駆け寄っていった。
「あいつはバイクなんて運転できねぇよ」
彼女の背中を見ながら、いつの間にかひなたの肩によじ上っていたハム吉が口を開く。
「というと?」
ひなたはそんなハム吉の行動には一切の驚きを見せずに淡々と会話を続ける。
「ユキナは箱入り娘だったからな。大事に大事に育てられて、外の世界のことなんてなーんも知らない。要はあれだな。あー……お城の中に閉じ込められたお姫様みたいなもんだ」
「何とも寓話的な例えですね」
「でも、言い得て妙だと思うぜ。うん。我ながら素晴らしい例えだ」
「そうですか」
バイクを起こそうとしては何度も失敗してバイクごと倒れ、ようやく起こし上げることに成功したらしい姫……もといユキナは、それを押してひなたの元に戻ってくる。
「ふぅ」
「ところでユキナさん。バイクに乗ったことはあるんですか?」
「え……えーっと、出て行くときに飛び乗ったのが初めてかな?」
「なるほど……」
ひなたはハム吉をつまみ上げてユキナに手渡してやる。それから、彼女が支えているバイクに手をかけた。
「ご覧の通り、今の僕には移動手段がこの足しかありません」
「うん?」
ひなたの言いたいことが理解できずに首をかしげるユキナに向かって、彼はひとつの提案をした。
「僕がバイクを運転しますので、近くの街か村まで一緒に行きませんか?」
「……え? ええ!?」
ユキナは心底驚いたように声を上げた。しかし、ひなたはそれとは対照的に静かに微笑んだ。
「僕もそろそろちゃんとした場所で美味しいものが食べたいですし、あなたもどこかで一息つきたいでしょう」
「ん。ま、まぁそれはそうだけど……」
「こんな荒野で不慣れなバイクを走らせていても、はっきり言って無謀だと思いますし、案外悪くない提案だと思うのですが……」
「俺は魅力的な提案だと思うぜ」
ユキナのポケットからふてぶてしく腕を組んだハム吉が言う。ユキナはしばらく、う〜、と唸った後、こくりと頷いた。
「それじゃあ、お願いします」
「了解です」
ひなたは言って、自分の荷物をバイクの荷台にくくりつけた。それから運転席にまたがると、ハンドルに手をかける。
「それでは、どうぞ」
「う、うん」
ユキナはややどきまぎしながらもひなたの後ろに座ると、壊れ物に触れるようにそーっとひなたの身体に手を回した。
「もう少し力を入れていただかないと、振り落とされますよ」
「わ、分かった」
ひなたの言葉に、ユキナはぎゅっと力を込めてひなたの身体を抱きしめた。言葉には表さなかったが柔らかい感触がお互いに伝わる。ユキナは自らの鼓動が高まるのを感じ、あまりの恥ずかしさで吹っ切れたのか、さらに腕の力を込めた。
「それでは、参りましょう」
「うん」
ユキナの顔がどんな表情を浮かべていたのか、前を向いていたひなたには見えなかった。




