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「また来たのか」
「でも僕、少しは上達したと思うんですけど」
毎朝日課の遠乗りは、すっかり森が目的地に定まってしまっていた。
供をつけようとしないクリスにフィリッポはいい顔をしないが、今のところは伯父に知られていないので大丈夫だろう。
それよりも、毎日パトリスに会えるわけではないことが残念だった。
だが今朝は会えた。
それが嬉しくて、また剣の稽古を頼むと、パトリスは首を横に振る。
「前回、怪我をしたばかりだろう。その年にしたら、クリスは十分に強い。つい加減を忘れて打ってしまった。それで怪我をさせてしまったのだから、私の腕も足りないということだ。また怪我をしないためにもやめておこう」
「でも、もう大丈夫です!」
クリスは必死に怪我をした右腕を振って見せたが、パトリスは近づくとクリスの右腕を掴んでシャツの袖をめくった。
すると包帯の巻かれた細い腕が覗く。
「これは……侍女が大げさにしているだけで――っ!」
なおも大丈夫だと訴えるクリスの怪我をした腕を、パトリスはぐっと親指で押した。
痛みに思わず顔をしかめるクリスを見下ろすパトリスの目は冷たい。
そして無言で包帯を外した。
「あの……」
「これは傷跡が残るな」
呆れたようにため息を吐いたパトリスは、また包帯を器用に巻き直した。
それを見つめるふりをしてクリスは俯いたまま唇を噛んだ。
自分の失態で、もうあの楽しい時間は終わりなのだと悟る。
初めてパトリスと剣での打ち合いをしてから、小川で会うたびに手合わせをお願いしていた。
ほんの短い間でもすぐにクリスは息が上がり、逆にパトリスの呼吸はまったく乱れていない。
そのことを悔しがると、パトリスはかすかに口角を上げる。
それからは、少しだけ土地に関しての話をした。
パトリスは住んでいる人間から直接地形についての情報を得たかったのだろう。
そんな事務的な内容でも何でも、クリスにとってはパトリスと一緒に過ごせるだけでよかったのだ。
「もう、ここへは来ないほうがいい」
「――なぜですか?」
「正確に言うなら、屋敷から離れないほうがいい」
「だから、なぜなんですか? 急にそんな――」
「急じゃない。わかっているだろう? 近々、戦が始まることは」
「で、でも……国王陛下が、陛下がブライトン王国から王女様をお妃様に迎えられて、それで援軍も得られるから、だからきっとエスクームも諦めるだろうと……」
予想通りのことを言われても、クリスは抵抗せずにはいられなかった。
だが、今までにないほど怖い顔つきのパトリスに気付いて、勢いをなくしていく。
いつもはクリスが元気をなくすと、不器用ながらもパトリスは的確な言葉をくれたのに、今日は追い打ちをかけるようにパトリスは告げた。
「私はもう二度とここへは来ない。だからクリスももう来るな。戦争が始まれば、どうしても周囲は治安が悪くなる。自分の身は自分で守れ。そのためには危険に近づかないことが一番だ。わかったな?」
「……はい」
本当は嫌だと言いたかった。
しかし、パトリスの言うことはもっともで、今もフィリッポをはじめとして心配をかけているのだ。
パトリスは一度口にしたことを曲げることはないだろう。
ならば本当にここへは二度と来ないのだ。
悲しみがこみ上げてきたが、それでもクリスは素直に頷いた。
すると、パトリスはクリスの頭をぽんぽんと軽く叩く。
「お前は私の一番弟子だ。今までよく頑張った」
クリスに触れたパトリスの手はとても大きく、初めて認めてくれた言葉はとても優しかった。
堪えきれずにクリスの目から涙がこぼれる。
その涙を見て、パトリスは困ったように笑った。
「男はそう簡単に泣くものじゃない」
そう言われても、クリスは否定することもできず、黙ったまま立ち上がると、そのままファラに跨った。
本当なら、これから戦争になるかもしれないのだから、パトリスに勝利を祈る言葉を贈るべきだろう。
だが、クリスは別れの言葉さえ口にすることなく、ファラに合図を送って駆けだした。
その背をパトリスが心配そうに見守っていたことに気付かないまま。
クリスはそのまま厩舎に戻ると、ファラをフィリッポに任せて屋敷へと走って帰った。
いつもはファラの世話を最後まで自分でするのだが、それさえもできない。
きっとフィリッポは涙に気付いただろうに、黙ってファラの世話を引き受けてくれた。
幸い、屋敷では誰にも会うことなく部屋へと戻ることができた。
勢いよく部屋へと入ってきたクリスにアミラは驚いたが、その母でありクリスの乳母であるエネは何も言わず両手を広げてくれる。
クリスはそのままそのふくよかな胸へと飛び込んだ。
「エネ!」
エネはクリスを優しく抱きとめ、アミラに部屋から出ていくようにと目配せをした。
クリスは腕の中で静かに涙を流している。
こんなふうにクリスが泣くのは何年ぶりだろうか。
ここのところ一人で遠乗りにでかけていることはフィリッポから聞いて、エネは知っていた。
何度も注意しようかと迷ったものの、結局言い出せなかったのは、クリスが久しぶりにいきいきとしていたからだ。
いつも明るく元気なクリスだが、もう何年も本音を隠していることにはエネも気付いていた。
ジルダにこのカリエール家に行くようにと言われたあの時からだったと思う。
何があったのかはわからないが、エネはただ黙ってクリスの背中を優しく撫でながら、落ち着くのを待った。
「……エネ」
「はい?」
「僕……し、失恋したの……」
「まあ、それはおつらいですねえ」
「……うん」
陳腐な慰めだったが、エネの心からの言葉だとわかっていたクリスは素直に頷いた。
そして、それだけでクリスの張り詰めていた心がゆるんでいく。
「僕、失恋、するまで……恋しているって、気付かなかったの……」
「あらあら、それはおまぬけさんですね」
「ひどいよ、エネ」
エネの言葉に怒りながらも、クリスはくすくす笑う。
それからしばらく沈黙が続いたが、気づまりなものではなく、むしろ心地よくクリスを包んでくれた。
「――僕、決めたよ」
やがて、決意に満ちた碧色の瞳をきらめかせて、クリスは顔を上げた。
それはまるで三年前、このカリエール家で〝療養〟すると決めた時のようだ。
「クリス様?」
「今さら、母様の心配なさっていたことがわかったよ。どんなに男らしく振る舞っても、僕は男にはなれない。それはわかっていたんだ。でも今回のことで、僕は……女なんだってつくづく思い知らされた。だって、好きな相手に男として――いや、男の子として扱われるって、すごく……馬鹿みたいだった」
クリスは目を細めて笑ったが、目尻にたまっていた涙が一粒こぼれ落ちる。
それを腕で乱暴に拭ったクリスはまだ少年のようにしか見えない。
「もう十五歳になったというのに、胸はぺったんこのままで、月のものだって来ない。それでも今まではかまわなかった。だけど僕、……これからは女性として生きるよ。それで、何年か経ったら、あの人に会って驚かせてやるんだ」
「まあ、それではまずはお言葉から直さなくてはいけませんね? それにクリス様の――いいえ、クラリス様の嫌いなコルセットにも慣れていただかなければ。さっそく仕立て屋を呼びましょう。カリエール夫人もお喜びになりますよ」
「え……」
エネの言葉に怯んだクリスを目にして、エネはにやりと笑った。
からかわれているのだと気付いたクリスは頬を膨らませ、そして淑女らしくないとエネに窘められたのだった。