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「……ここへの立ち入りは、昨晩領主のカリエール卿に許可を頂いている」


 隊長はそう告げると、すぐに連れていた馬に向き直ってしまった。

 クリスはちょっとむっとしながらも隊長に近づき、笑顔で手を差し出す。


「僕はクリス。カリエール家にお世話になっているんです。あなたは?」


 意地でも名乗らせてやると、クリスは笑顔のまま手を差し出し続けた。


「……パトリスだ」


 すると隊長は、ちらりとクリスの手に視線を向けたが、握ることはなく、ぶっきらぼうに名前を告げただけ。

 こちらも家名を名乗らなかったので仕方ないだろう。

 そう考えたクリスだったが、馬の右足に布が巻いてあることに気付いた。


「怪我をしているんですか?」

「――ああ、軽いものだとは思うんだが筋を痛めたようなんだ」


 クリスの問いかけに、隊長――パトリスは声の調子を和らげ、大切な人を心配するように答えた。

 今までとまったく違う様子のパトリスに驚きながらも、クリスは満足した。

 先ほどもファラに対してはとても優しい口調だったのだ。

 馬を大切にする人に悪い人はいないと、クリスは一気に態度を軟化させた。


「湿布になる薬草なら、近くの小屋にあるから僕が取って……」


 そこまでいって、まだファラの体の汗を拭いていないことを思い出した。

 ためらうクリスに、パトリスが静かに声をかけた。


「その馬の世話なら、私がやっておく。だから薬草を取ってきてくれないだろうか」

「でも……」


 ファラは仔馬の頃にひどい調教師に鞭で何度も打たれたため、大人の男を怖がる。

 馬丁頭のフィリッポとクリスくらいしか世話をさせようとしないのだ。

 ミカエルでさえあまり近づこうとしない。

 だが、驚くことにファラは自分からパトリスに近づいた。

 パトリスは小さく笑いながらファラの鼻先を優しく撫でる。


「……では、ファラをお願いします」


 なぜか嬉しくなったクリスは、そう言って小屋へと駆けだした。

 背後で「お前はファラというのか……」という静かに話しかける声が聞こえる。

 どうやらパトリスは人間に対しては不愛想なようだが、馬相手には驚くほど優しくなれるらしい。


 父は馬や飼い犬に対しても容赦なかった。

 当然、使用人や息子にも。

 さらには妻さえにも厳しく冷徹で、母のジルダは何度かクリスを庇って鞭で打たれていた。

 クリスが男性に対して幻滅しないでいられたのは、ひとえにカリエール家の男性陣のお陰だった。


(母様だって、本当はもっと素敵な人と結ばれるべきだったんだ……)


 伯父夫婦のようにお互いが愛と尊敬を持って寄り添えるような相手。

 伯爵の命令にも近い求婚さえなければ、ジルダもそんな相手と結婚できただろう。

 それに加えて、自分が本当に男児だったのなら、母に余計な苦労などかけずにすんだのだ。


 クリスは息を切らしながら、狩猟小屋の鍵をポケットから取り出してドアを開けると、靴の泥を落とすこともせず、目的の場所へと向かった。

 人間用ではあるが、馬にも使える。

 いくつかの必要なものを持つと、ふと思いついてもう二つ手に取って袋に詰めた。


 そしてまた小川へと駆け戻る。

 ファラはご機嫌で尻尾を揺らし、クリスを迎えてくれた。

 そしてパトリスは不愛想ながらも、お礼を言ってクリスから薬草を受け取る。

 わざわざクリスが手当てをしなくても、パトリスは手際よく馬の足に湿布を当て、包帯を巻いていく。


「すごく綺麗な馬だね。名前は何て言うの?」

「……デッド」

「デッド? へえ? 少し変わっているけど、でも似合ってる」


 そう言ってデッドを撫でようと伸ばしかけた手を、パトリスはいきなり立ち上がって掴んで止めた。


「こいつは気性が荒いんだ。下手に手を出すと噛みつかれる」

「そうなの? でも、そうは思えないけど……」


 クリスの返事にパトリスはさらに何か言いかけようとしてやめてしまった。

 なぜならデッド自身がクリスの手に鼻先をこすりつけてきたからだ。

 驚くパトリスにかまわず、クリスはデッドの望むように撫でてやった。


「たぶん、自分のために湿布を持ってきてくれた人間だってわかってるんだよ。ファラも賢い馬だけど、この子もとっても賢いね」

「この子?」


 クリスの言い方にパトリスは一瞬眉を寄せ、すぐにかすかな笑みを浮かべた。

 初めて見るパトリスの笑顔に、クリスはなぜか胸が高鳴った。

 クリスは胸を押さえて首をひねる。

 走ってきたからまだ心臓が落ち着いていないのだろうかと考え、そして納得した。


「軍馬であるデッドを〝この子〟と呼んだ者は今までいなかったな」

「そうなんですか? でも、すごくいい子ですよね? ご主人のことが大好きだってわかる。今は自分のために手を取らせてしまったことをすごく悲しんでいるみたいだ」

「……そうかもな」


 馬のことになると饒舌になるらしいパトリスともっと話したい。

 そう思ったクリスだったが、ふと思い出した。


「そうだ。パトリスさんって、軍の方ですよね?」

「――ああ」

「あまり遅くなると、皆さん心配なさると思うんです。それで僕、駐屯地までこのことを伝えに行ってきますよ。でもいきなり僕が訪ねて行っても怪しまれるでしょうから、パトリスさんがこのことを手紙に書いてくだされば、それを届けるだけでいいと思うので……」


 言いながら、クリスは袋の中から最後に持ち出したペンとインク壺、そして便箋の束を取り出した。


「ちょっとここでは書きにくいかもしれませんが、お願いできますか?」

「……色々とすまない」

「いえ、昨晩の晩餐にいらっしゃっていたのなら、カリエール家の大切なお客様ですから」


 クリスがにっこり笑って答えると、パトリスは表情を冷たいものに変えて頷いた。

 家名や身分を名乗らなかったことで、あまり触れられたくないのだろうとクリスも察していたが、ここまで態度が急変するとは思ってもいなかった。


 だが、クリスにも事情があるように、パトリスにも事情はあるのかもしれない。

 クリスは腹を立てることなく、素早く手紙を書き綴るパトリスを見守った。

 やはり軍部に所属しているせいか、机もなく立ったままに文書を書くことにパトリスは慣れているのだろう。


「……クリス」

「はい?」


 初めて名前を呼ばれて、またどきりと胸が鳴る。

 手紙を受け取り、ファラにすでに跨っていたクリスは顔が熱くなるのを感じながら、パトリスを見下ろした。


「このたびは世話になった。また改めて屋敷に――」

「いいえ、このことはお気になさらないでください。でも……僕は毎日ここまでファラと一緒に朝の散歩に来ていますから……」


 いつもは行き先を決めていなかったが、これからは毎朝ここに来ようとクリスは決めた。

 もしまた会えるのなら、堅苦しい礼儀などはなく自由なクリスとして、パトリスに会いたかったのだ。

 パトリスは無表情なままで頷いて答える。

 それからクリスは帽子に軽く触れて挨拶すると、ファラに合図をして走らせ始めた。

 今の態度は王子殿下にするには失礼すぎるが、パトリスもまた堅苦しいことを嫌っているとわかったからだった。




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