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「ねえ、ミカエル。市場に行こう!」
愛犬のブラッシングを庭でしていたミカエルの許に、嬉しそうに駆け寄ってきたのは、二歳しか年の差がない姪のクラリスだ。
生まれた時から男児として育てられたクラリスは、今もクリスと名乗って少年の恰好をしている。
それでも赤褐色の髪の毛は肩甲骨あたりまで伸びた。
だがその髪を一つにまとめている姿は、やはり貴族のお坊ちゃんにしか見えない。
ミカエルはそんなクリスをちらりと見上げて、首を横に振った。
「クリス、市場には先月も行ったばかりだろう? それに今は、戦が始まるかもしれないって時だ。最近は街にも破落戸のような兵士が集まってきていて、あまり治安もよくないらしい」
「何言ってるんだよ。我がフェリクス国王の王国軍に限ってそんなことはありえないよ」
気配からクリスが納得していないと察したミカエルは、愛犬を軽く叩いてブラッシングの終わりを告げ、立ち上がった。
犬は喜んで庭を駆け出す。
そしてミカエルはクリスに真っ直ぐ向き合うと、反対する理由をきちんと説明をした。
「正式な王国軍なら心配はいらないけどね。だが、我が国はようやくサクリネ国との戦に勝利を収めたばかりで、まだ西の国境も油断ならないんだ。だから仕方なく傭兵を雇い入れているらしい。当分は、遠乗りも控えたほうがいいだろう」
「だけどミカエル、これはお祝いだよ! 僕はついに自由になったんだから!」
「自由?」
「そうだよ。先ほど伯父上に呼ばれて書斎に行ったら、父上から手紙が届いていたんだ。僕を継嗣から外すって内容のね!」
「……そうか」
喜ぶクリスを前にして、ミカエルは小さく頷いただけ。
しかし、その心中はとても複雑なものだった。
病気だと偽り、療養のためにカリエールにクリスがやって来てから三年。
ボナフェ伯爵はついにクリスを見放したのだ。
この三年間、体調を気遣う手紙の一通も寄こさなかった伯爵が、継嗣から外すと――もうお前は用なしだと伝えるためだけに、手紙を書いたらしい。
腹立ちを抑えながらも、ミカエルは悪戯っぽく笑ってみせた。
「じゃあ、ますます市場へは行けないね。クリスはこれから淑女として過ごさないと。それが本来の姿なんだから」
「何を今さら。確かに僕は女だけど、淑女にはなれないよ。伯父上だって、ずっとここで暮らしていいとおっしゃってくださったんだ。母上だって、自由にすればいいとおっしゃってくれている。もちろん、みんなに迷惑をかけるつもりはないけど、今日くらいいいじゃないか。だって、アミラがメイドから聞いたんだ。なんと、昨日から市場にサーカスが来ているって! この先、戦になるならなおさら、もうこんな機会はないよ。僕はカリエールから出るつもりはないからね。サーカス団も残念ながらあまり逗留するつもりはないらしい。安全な王都へ向かうって。たぶんそのままブライトン王国に向かうんじゃないかな。お願い、ミカエル。これはお祝いだと思って。ねえ?」
最後は上目遣いにお願いしてきたクリスを見て、ミカエルは苦笑した。
こういう女性ならではの仕草は、育ちに関係なく生まれた時から備わっているのだろうかと思う。
それに、ここでミカエルが反対しても、クリスなら抜け出して行くのは間違いない。
ならば自分がついて行くほうが安全だろうと、諦めのため息を吐いた。
「仕方ないな。では、クリスはもう少し簡素な服に着替えたほうがいい。どうせアミラも連れていくつもりなんだろう? アミラにも目立たない服に着替えるように言ってくれ」
「ありがとう、ミカエル! すぐに着替えてくるから!」
「急ぐ必要はないだろう? 準備が必要なんだから」
「馬の準備を僕も手伝うから!」
屋敷へと急ぎ駆けだしたクリスの背中に声をかけると、元気な声が返ってきた。
ミカエルは自分の姿を見下ろして、このままの姿でいいかと判断し、厩舎へと向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
「すごかったね。僕、あんな動物初めて見たよ。すごい牙なのに、人間に従順に従って、火の輪をくぐるなんてさ! 火も怖がらないなんて、森で出くわした時にどうやって追い払ったらいいかわからないな」
「あら、クリス様。あのように恐ろしい姿でも、人間に従順なら追い払う必要はないのではないでしょうか」
「クリス、アミラ。残念ながら、二人とも違うよ。まずあの動物は幼い頃から厳しく躾られているから、人間に従順だし、火も怖がらないんだよ。そもそもこの近辺の森で、例えカントス山脈の奥深くに入り込んだって、あの動物に出くわすことはないから心配はいらないね。あれは遠い異国の動物なんだから」
「ミカエル、相変わらず冷静な分析をありがとう。ちょっと興醒めだよ」
「では、興奮も冷めたのなら帰ろうか。あまり遅くなるとエネが心配するよ。しかも兄上に怒られてしまう」
「まだ、こんなに明るいのに――」
言いかけたクリスの反論は、誰かにぶつかってしまい、途切れてしまった。
真っ直ぐ歩いていたつもりだが、ぶつかってしまったのだから謝罪するべきかと相手を確認し、思わず顔をしかめる。
相手はまだ陽も沈んでいないというのに、どうやら酔っているらしい。
仲間たちとバカ騒ぎをしていて往来にふらりと飛び出したのだろう。
「――失礼」
クリスは必要最低限の言葉を口にして、その場を離れようとした。
しかし、相手はがっちりとクリスの細い腕を掴む。
「おい、坊ちゃん。人にぶつかっておいてそれだけたあ、ちょっと虫がよすぎねえか?」
「何を言っているんだ。ぶつかって来たのは、そちらだろう?」
「ああ? 何だ、この坊主。ちょっといいとこの坊ちゃんだか知らねえが、口の利き方がなってねえんじゃねえか? しかも、いっちょ前に剣なんてぶら下げてやがる。この細っこい腕でそんな立派な剣が振れるのかあ? どれ」
男はそう言って、クリスの剣に手を伸ばした。
とっさにクリスは男の手を振り払う。
「触るな!」
「……何だと? てめえ、誰に向かって口きいてるんだ!」
「やめろ!」
クリスと男の間に入ったのは、当然ミカエルだ。
しかし、第三者の介入に、今までにやにやしながら見ていた男の仲間たちも黙ってはいなかった。
「てめえ、何でしゃばってんだよ!」
「おやおや、お坊ちゃんのお仲間登場ですかい?」
じりじりとにじり寄って来た男たちは三人。
その中の一人がクリスとミカエルの後ろで震えているアミラに気付いた。
「何だ、お坊ちゃんのくせに女連れかよ」
「うわー生意気。よし、その姉ちゃんを置いていくなら許してやるよ」
そう言って、男がアミラへと手を伸ばす。
「アミラに触るな」
「んだあ?」
クリスがその男の手をまた払いのけると、男は顔を歪めて唾を道に吐き出した。
かなり苛々しているようだ。
「小僧、おめえにはまだ女は早えよ」
「これを触るな、あれを触るなって、お坊ちゃんは我が儘だねえ」
誰かの囃し立てる声に、男たちは下卑た笑いを上げる。
だが、ミカエルは男たちを無視して、クリスとアミラを庇うように歩き始めた。
「クリス、相手にしてはダメだ」
その態度が気に食わなかったらしい。
ちらりとクリスが背後を窺うと、最初にぶつかって来た男が一瞬で剣を抜き、ミカエルに斬りかかろうとした。
「小僧がかっこつけてんじゃねえよ!」
「ミカエル!」
ミカエルははっと後ろを振り返りながらも、クリスを背で庇い押しのけた。
そのせいでミカエルの対応が遅れる。
思わず目を瞑ったクリスの耳に、キンッと甲高い耳障りな音が聞こえた。
恐る恐る目を開けて視界に入ったのは、振り下ろそうとする男の剣が空で止まっている様子。
男の剣を止めているのは、手入れの行き届いた上等の剣だとクリスにもすぐにわかった。
いったい誰が、と思ったクリスが目にしたのは薄茶色の髪を短く切りそろえた軍人。
「……往来で剣を抜くなど、厳罰は免れないことはわかっているだろうな?」
「な、何だってんだ――」
「おい、やめろ! この人は……」
「隊長!」
クリスとミカエル、そしてアミラが動けないでいるうちに、軍服姿の男たちがさっと現れ、無法者の男たちを取り押さえる。
会話から察するに、男たちはどうやら軍が雇った傭兵らしい。
男の剣を止めてくれた軍人は無表情のまま、ちらりと灰色の瞳をクリスへ向けた。
とたんに、クリスの体が熱くなる。
こんな無様なところを見られたことが恥ずかしく、自分たちを助けてくれたことのお礼を言わなければと思うのに言葉が出てこない。
しかし、軍人はすぐに目を逸らしてしまい、近づいてきた部下らしき者に何かを告げると離れて行ってしまった。
「あ……」
「大丈夫かい? 私は王国軍の第三部隊副隊長のユーゴ・ヘントスだ。すまなかったね、うちの者がひどい無礼を働いてしまった。今日は非番とはいえ、昼間から酒を飲み、往来で暴れるなど許されることではない。厳罰に処すゆえ、どうか許していただきたい」
そう言って、ユーゴは頭を下げた。
副隊長のような人に頭を下げさせたことに慌てたクリスとアミラだったが、ミカエルは厳しい表情のまま口を開く。
「こちらも助けていただいたのですから、あなたが頭を下げる必要はありません。ありがとうございました」
ミカエルの言葉に、クリスもアミラも慌てて頭を下げた。
しかし、ミカエルはユーゴを真っ直ぐに見据えたまま続ける。
「ですが、彼らをまだ雇うおつもりなのですか? 彼らは傭兵でしょう? 軍の規律を乱し、一般人へ向けて剣を抜くなど、この先のことを考えても解雇するべきでは?」
「確かに、貴殿のおっしゃることにも一理あります。ですが、彼らをこのまま放逐するほうが問題になるでしょう。ですから、このまま私たちの監視下に置いて、厳しく性根を叩き直します。そのことを、私の名誉にかけてお約束いたします」
「……では、よろしくお願いいたします」
ミカエルは十歳以上も年上だろう相手に一歩も引かず、了承を伝えるとその場を去ろうとした。
そんな彼を、ユーゴが呼び止める。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「これは大変失礼いたしました。僕はミカエル・カリエール。カリエール家当主の弟です。そしてこちらは、我が家で預かっているクリス・カッセル。彼女は侍女のアミラ。あなた方がここに駐屯なされるのなら、またお会いすることがあるでしょう。それでは、失礼いたします」
ミカエルはきびきびと名乗ると、クリスを偽名で紹介し、アミラまで紹介した。
そして紳士らしく頭を下げ、続いて頭を下げたクリスとアミラを連れて踵を返す。
その背をユーゴは消え去るまで見つめていた。