10
翌朝、パトリスはフェリクス国王宛てに、クラリスとの結婚を請願する手紙を使者に託した。
フェリクスはその書簡を受け取ると、「早すぎるだろう」と呆れ交じりに呟いて笑ったらしい。
それからすぐに許可する旨の手紙を認め、その日のうちに別の使者をカリエール領へと遣わした。
ただし、半年は待つようにとの条件もつけられている。
「半年……」
兄であるフェリクスから結婚の認可を得たにもかかわらず、パトリスは落胆してぼそりと呟いた。
国王としてはけじめをつけなければならず、これでもきっと譲歩してくれているのだろう。
やはり一度目の結婚での自分の振る舞いが痛い。
「ですが、楽しみは先に取っておくほうがわくわくしますよね?」
「……そうかもしれない」
クラリスの前向きな発言に同意しつつ、パトリスはそれきり黙り込んでしまった。
半年後ということは一度隊へ戻ることになるので、しばらく二人の間にかなりの距離ができる。
パトリスがちらりと見れば、クラリスはにこにこしており、自分との温度差を感じた。
「これが重症というやつか……」
以前、部下である騎士の一人が言っていたことを思い出す。
しかし、その言葉を聞きつけたらしいクラリスの顔色が変わった。
「パトリス! 怪我をしたんですか!?」
「いや――」
「無理をなさらないでください! いつの間にそんな――」
「クラリス。大丈夫だ、本当に」
「……本当に?」
「ああ」
いったいどこを怪我したのかと、パトリスを心配するクラリスの慌てぶりははっきり言って可愛かった。
心配かけたことを申し訳ないと思いつつ、つい顔が緩んでしまう。
微笑むパトリスを見たクラリスは顔を赤くして目を逸らした。
「……ごめんなさい。誤解して大騒ぎしてしまいました」
「謝罪の必要はない。誤解させたのは私だ。それに……」
「それに?」
「笑ったのは幸せだからだ」
パトリスが正直に答えると、クラリスは視線を戻して恥ずかしそうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、体の奥から突き上げてくる衝動に動かされそうになってパトリスは焦った。
ここ最近、クラリスの傍にいると頻繁に込み上げてくる衝動が怖い。
「――ミカエルと剣を合わせてくる」
「は、はい……。お気をつけて」
急に立ち上がったパトリスにクラリスは驚いたようだが、ミカエルが戻ってからよくあることだからか納得して頷いた。
その声にかすかな羨望が含まれていることに、パトリスは気付かないふりをする。
クラリスが傍にいては意味がないのだ。
ミカエルとは、クラリスに改めてプロポーズした夜会以来、ずいぶん親しくなっていた。
しかも、なかなかの剣の使い手で鍛錬の相手として申し分ない。
何より、パトリスが体を動かしたい時にはいつでも相手をしてくれることが有り難かった。
こうして、無事に国王より結婚の許可を得た日から数日後。
パトリスはカリエール一番の街へとやって来ていた。
昨日、レイチェル王妃から個人的な婚約祝いがクラリスに届けられたのだ。
クラリスは驚きながらも喜んでおり、その様子を見ていたパトリスは、自分がクラリスに何も贈っていないことに気付いて慌てた。
世間一般では、男は女性に色々な贈り物を求愛とともにするとされている。
以前、嫌味なことを言ってしまったせいか、クラリスの装いはいつも質素だ。
あの時の謝罪の意味も込めて、何か宝石を贈ろうと思ったパトリスだったが、いざ宝石店に入ろうとしてためらっていた。
パトリスの人生において、女性に贈り物をすることはもちろん、宝石など購入したことがない。
誰か慣れた者に助言をもらうべきだったかと、宝石店前をうろうろしていると、ちょうどよくミカエルが現れた。
「閣下、何をなさっているんですか?」
「ミカエル、実は――」
「話は後でいいですか? こんな所でうろうろしていらっしゃるから、目立っています。ひとまず場所を移動しましょう」
「――ああ」
たまたま遊びに出てきたらしいミカエルの言葉に従って、パトリスは場所を移すことにした。
確かに先ほどからかなりの視線を感じてはいたのだ。
ミカエルは慣れた様子でとある酒場に入った。
ここで軽く一杯飲みながら目的を説明すればいいかと、パトリスも後から入る。
まだまだ太陽は高い位置にあるのに、店内はかなりできあがった男たちで溢れていた。
それも納得するほどに酒もつまみも旨かった。
だがミカエルにはパトリスの話を聞く気は最初からなく、単に飲み仲間が欲しかっただけらしい。
ただパトリスとしても、ミカエルから聞く幼い頃のクラリス――クリスの話は楽しく、不満はなかった。
そして二軒目に移る頃には酔いも手伝ってか二人とも遠慮がなくなり、男同士の話になっていく。
「――ああ、それは仕方ないっすね。だって、閣下がこっちにいらっしゃってどれくらいになります? その間、好きな女が傍にいるだけで何もできないなんて……」
薄々そうではないかと考えていたのだが、話を向ければやはりパトリスが急に剣の手合わせをとやって来るのは、クラリスへの衝動を抑えるためだった。
そう聞かされて調子に乗ったミカエルは、にんまり笑って提案する。
「いっそのこと、これから女の子がいる店に移ります? 可愛い娘がいっぱいいるお勧めの店があるんですよ」
「興味ない」
「あ、はい」
しかし、パトリスに即断られて、ミカエルも即引いた。
ところがミカエルは懲りず、以前からの噂の真偽を確かめたくなって周囲を見回す。
その様子を訝しんでパトリスは片眉を上げた。
二軒目のこの店もミカエルの馴染みらしく、店主が気を利かせて個室を使わせてくれている。
そのため、周囲を見るまでもなく誰もいない。
もちろん誰かが壁に耳でもつけていれば、パトリスは気付く。
それなのにミカエルは用心深く口に手を当て、小声で問いかけた。
「あの……つかぬことをお訊ねしますが、閣下が女嫌いって噂は本当なんですかね?」
「――世間ではそのように言われているらしいが、嫌いなのではなく苦手なんだ」
「本当だったんすね……」
嫌いと苦手は違うが、ミカエルは納得したようだった。
パトリスもいちいち訂正するのが面倒なので何も言わずにいると、ミカエルはわずかにためらった後に、さらにぐっと近づいて続ける。
「……閣下は、女性を……女性に触れたことはあるんですよね?」
「クラリスの手を握ったことは何度もある」
遠回しに女性経験を問えば、パトリスは嬉しそうに答えた。
軍部でお決まりの冗談――パトリスが結婚してからは本当にただの冗談になった噂が、まさか事実だとはミカエルもさすがに思っていなかったのだが……。
「いや、あの……クラリス以外では?」
「義務として、舞踏会で何度かダンスを踊ったことはある」
驚きを隠してさらにミカエルが問えば、不快そうな答えが返ってきた。
女性嫌いは確からしい。
ミカエルの口から思わず呟きが漏れる。
「マジかよ。じゃあ、今までずっと……」
「どうした?」
「え? いえ! 何でもないです! だって、クラリスは――え? いや、あれ? ……クラリスは女性ですよ?」
「何を当たり前のことを言っている。ミカエル、酔いすぎではないか?」
「いやあ、それは……その、クリスとごっちゃになっているのかと……」
「ごっちゃも何も、クリスもクラリスも一緒だろう? 本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫っす! 問題ないっす! の、飲みましょう! ほら、閣下も!」
本当にパトリスに女性経験がないらしいと知って、ミカエルはかなり動揺した。
ひょっとしてパトリスはクラリスのことを今でも男だと思っているのではと、わけのわからない疑問まで浮かんできたが、それは考えすぎだったらしい。
パトリスにとってクラリスだけが特別なのだと知ったミカエルは嬉しくなり、心配された通り飲みすぎてすっかり酔ってしまったのだった。
その後、二人は夜も更けた頃になって館へと帰ることになり、翌日のミカエルは二日酔いに悩まされることになったらしい。
さらにミカエルはカリエール卿にこっぴどく叱られ、パトリスは事情を知ったカリエール夫人が宝石商をこっそり館に呼び寄せてくれたために、幸いにして素晴らしい宝石を選ぶことができた。
それは、陽射しを浴びて輝くビバリーの森に流れる小川のようなダイヤモンド。
雫の形をした大きなダイヤモンドを、輝く小粒のエメラルドが囲んでいるペンダントだった。
また宝石商からはペンダントと揃いのイヤリングも勧められ、他にも指輪やネックレスを購入する。
あとはクラリスに贈るだけだった。
ところが、パトリスがクラリスにペンダントを贈ろうとしても、なかなか上手くいかなかった。
どこからともなくミカエルが現れては、パトリスに剣の打ち合わせをお願いしたり、二人を遠乗りに誘ったりするのだ。
「式は半年後ですからね。それまでは叔父としてクラリスを守らなければなりません」
パトリスがそれとなく苦情を言えば、ミカエルはにやにやしながら答えた。
さらに結婚祝いだと、巷で話題らしい男性向けの本を渡してくる。
これはきっとあの日――酔って帰った翌日に庇うことをしなかったための仕返しだと思ったが、パトリスは甘んじて受け入れるしかなかった。
こうしてもたもたしているうちにパトリスは軍へ戻ることになってしまい、ネックレスを渡すことができたのは半年後。
要するに、再婚する前日。
本当はもっと気の利いた言葉とともに贈るつもりのパトリスだったが、言葉が何も出てこずに突き出すように渡してしまった。
それでもまさかクラリスが泣くとは思わず、パトリスはおろおろすることしかできなかったのである。
しかもミカエルがその様子を覗いていたらしく、皆に面白おかしく言いふらしていたが、パトリスは気にしなかった。
なぜなら今日、ようやくクラリスと結婚することができるのだ。
カリエール館にある小さな礼拝堂の前に立ったパトリスは、一度目とは違って今か今かとクラリスを待っていた。
やがてクラリスを乗せた幌なしの馬車がやって来た時にはかなり安堵したものの、その美しさに見惚れてしばらく動けなかった。
クラリスの首元と耳にはパトリスが贈ったダイヤモンドが輝いている。
だが何よりも美しかったのは、やはり喜びを湛えたクラリスの笑顔だった。
「クラリス、今度は必ずあなたを幸せにすると約束する」
「私もあなたを――パトリスを幸せにすると約束します」
宣誓の後、皆に祝福されながらこっそり二人だけで交わした誓いの言葉は、生涯破られることはなかった。
そして、二人をよく知る者たちは口を揃えて言う。
『ブレヴァル公爵夫妻は末永く幸せに暮らしました』と。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
少し駆け足でしたので、またその後の二人などを番外編として更新できればと思います。
本当にありがとうございました。
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