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クラリスとともにパトリスがカリエール卿の館に訪れると、伯爵未亡人やカリエール卿はかなり驚いていた。
しかもカリエール卿は礼儀正しく接しながらも、パトリスに対して警戒している。
当然予想された反応だったが、クラリスに懇願するように誘われたパトリスは断れなかったのだ。
そしてカリエール卿もクラリスの明るい笑顔にほだされたようだ。
結局、カリエール卿は遠慮するパトリスに館へ滞在するようにと説得し、パトリスもクラリスと過ごす誘惑には勝てず、従者とともにカリエール館へ移ることになった。
幸いまだ時間はある。
ひょっとして兄であるフェリクスはこの展開を見越していたのかもしれない。
その時間を無駄にしないように、パトリスはできる限りクラリスと一緒に過ごした。
一緒に乗馬を楽しみ、図書室ではお互いのお気に入りの本について語り、時には領地運営についての意見を交わす。
パトリスはこのふた月の間、放置していた他の領地を見て回っていたことをクラリスに話した。
クラリスはどんなことでも楽しそうに、興味深げに聞いてくれる。
またパトリスは、あの夜に再会してからの日々を後悔とともに語ることもあった。
今さら言い訳でしかなかったが、自分の気持ちを偽ることで大切な人を失いたくなかったのだ。
そんな時のクラリスは静かに耳を傾け、さらには寛大にも理解を示してくれた。
一緒に過ごせば過ごすほどにクラリスに惹かれていく。
さらに伯爵未亡人やカリエール卿夫人と接することによって、パトリスの女性への偏見は消えていった。
自分はずっと幼い頃から母の呪縛に囚われたまま、祖母や兄たちの愛情さえ拒絶していたような気がする。
(私こそが、傲慢な人間になっていたんだな……)
パトリスは隣に座って楽しそうに笑うクラリスを見つめた。
豆類が嫌いだと打ち明けたパトリスに対し、クラリスは意地悪く昨晩の食事に豆料理ばかりを料理人にお願いしたらしい。
そのことを軽く責めると、クラリスは笑いながらも真剣な調子で告げた。
「これで私の仕返しは終わりです。ですから、どうかもうパトリスも後悔は終わりにしてください。私たちは友達なのですから、何かに縛られることなく、対等でいませんか?」
「……そうだな。クラリスもクリスも、私にとっては大切な友達だ。ありがとう」
「お礼を言われるようなことは何も。それに、もう豆料理ばかりを頼んだりもしませんから安心してください」
もっと上手い言葉があったはずなのに、ありきたりなことしか言えない。
それでもクラリスは柔らかく微笑んでくれる。
その笑顔にぼうっとしてしまったパトリスは、屋敷に帰るために立ち上がるクラリスを引きとめることもできなかった。
もちろんクラリスとの友情は大切である。
しかし、ただの友人ではこの時間はいつか終わってしまう。
ほんの数か月前に自ら手放してしまったのだから、これ以上を望む資格はパトリスにはないのだ。
(だが、このまま諦められるのか?)
慣れない感情にどうすればいいのかわからない。
そんな日々が続いたある日、パトリスはカリエール卿から夜会の招待を受けた。
再会した時にクラリスが言っていた夜会であることは間違いないが、今さらエスコートを申し出て受けてくれるだろうかと考え、パトリスはためらった。
(こんなことなら、あの時に負けていれば……いや、それは卑怯だ。しかし、どうやって誘うものなのか……)
きっと兄であるリュシアンが知れば腹を抱えて笑うだろうことを、パトリスはうだうだと悩んでいた。
そしてクラリスを誘えないままに、時間だけが過ぎていく。
ユーゴからの報告書を窓枠に腰かけて読んでいたパトリスは、ふと外に視線を向け、思わず部屋から飛び出していた。
さすがに廊下を走ることはなかったが、駆けるように階段を下りて玄関フロアにやって来た時、クラリスが笑いながら館に入ってきた。
その隣には、クラリスの従兄弟の一人がいる。
「パトリス? どちらかへお出かけに?」
「い、いや……少し……調べものに図書室へ……」
「そうでしたか。お邪魔してしまい申し訳ありません」
「……大丈夫だ」
クラリスの問いかけにパトリスはどうにか答え、手に持ったままだった報告書に視線を落とした。
本当は、散歩に出ていたらしいクラリスが誰か見知らぬ男と一緒にいると勘違いして慌てたのだ。
クラリスは疑うことなくにこやかに答え、その場を去っていく。
パトリスも言い訳に使った図書室に入り、適当な本を取って割り当てられた客間へと戻った。
その日の午後。
パトリスは覚悟を決めた。
このまま何もせずにクラリスを別の男に取られるのなら、先に当たって砕けたほうがいい。
傷つくのは自分一人ですむのだから。
ひとまずは夜会のパートナーとして申し込もうと、パトリスは図書室に向かった。
幸いにして、先ほどの本を返すという名目がある。
そして図書室で本を読んでいたクラリスに、パトリスは唐突に声をかけた。
「クラリス、明後日に夜会が開かれるそうだな」
「あ、はい。少し騒がしくなりますのでご迷惑をおかけしますが、招待客は近隣の方たちばかりですので、この屋敷にお泊りになる方はいらっしゃいません。ですから、パトリスはお好きになさっていてください」
「……あなたは出席されるのか?」
「少しだけ。伯父の受勲を祝う会ですので」
「そうか……」
パトリスは初陣の時でさえこれほどに緊張はしなかった。
だがこのまま逃げるわけにはいかず、一度唾を飲み下してから一気に言う。
「では、あなたのエスコートを私にさせてくれないか?」
「え?」
「もうすでにエスコートは決まっているのだろうか?」
「い、いえ! 私は従兄弟たちの誰かが適当にしてくれるはずで、特に約束はしていません」
「それならば、私でもかまわないか?」
「で、ですが賭けでは……」
「あの賭けは勝負がついた。だからこれは単純に、私がクラリスに申し込んでいるんだ。しかし、私たちの関係を考えれば、やはり迷惑だろうか?」
「い、いえ! もちろんです大歓迎です! あ……えっと、パトリスが出席してくださるなら伯父も喜ぶと……」
畳みかけるような質問に、クラリスは動揺しながらも答えてくれる。
考える暇を与えなかったのがよかったのか、了承の言葉をもらえたパトリスは両脇で拳を握って密かに成功を祝った。
また、緩む顔は抑えられずに自然と笑みが浮かぶ。
「あの……」
「それでは……楽しみにしている、クラリス」
「はい!」
クラリスらしい元気な返事を聞くと、パトリスは嬉しくて足取り軽く図書室を出て自室へ向かった。
夢を見ているようで、未だに信じられない。
以前、リュシアンが「恋は本気になったら負けだ」と言っていたことを思い出す。
あの時は恋に勝ち負けなど関係ないだろうと、そもそも本気ではない恋とはいったい何か意味がわからなかった。
未だに本気ではない恋などわからないが、今なら剣の打ち合いで新兵にも負ける気がする。
しかし、何が相手でも勝てる気もするのだから不思議だった。
(謎だ……)
いったい自分の中で何が起こっているのかさっぱり理解できなかったが、気分は高揚している。
窓辺に立って空高く舞う鷹を見上げたパトリスは、普段は表情の乏しい顔に再び笑みを浮かべたのだった。




