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騎乗したままいつでも剣を抜けるようにしながら、再び馬を歩かせ近づくと、二人の騎士がすでに剣を抜いて構えていた。
しかし、そのうちの一人が幸いにしてパトリスの顔を知っており、すぐに剣を下ろすとカリエール家の騎士だと名乗る。
パトリスも馬を下りて正式に名乗り、ひょっとしてクラリスがいるのかと訊ねると、騎士たちはその通りだと答えてくれた。
そこで会わせてほしいと乞えば、騎士たちはためらった後に通してくれる。
パトリスは礼を言うと馬を預け、緊張しながら向かった。
速まる鼓動とは逆に、ゆっくり歩んで茂みの先に足を踏み出すと、クラリスは剣の柄を握っていつでも抜けるように構えていた。
「パトリス……?」
目を瞠ったクラリスは思わずといった様子で呟き、慌てて口を押えた。
だがパトリスは久しぶりに聞いた呼び名に期待が高まり、足が速まる。
「公爵様、あの――」
「パトリスだ」
「はい?」
「パトリスでかまわない。三年前、そう呼んでくれたように」
呼び名を改められ、咄嗟に願望を口にしてしまったが、ずうずうしかっただろうかとクラリスを窺えば、焦っているのだとパトリスにもわかった。
その姿が可愛らしくて思わず笑みが浮かぶ。
「い、いつから……」
パトリスは傍まで歩み寄ったものの、クラリスの問いかけに足を止めた。
正直に答えたとして、呆れられるかもしれない。
そう思うと怖かったが、パトリスはやはり正直に答えた。
「あなたが……怪我を負ってしまった時――意識のないあなたの腕の傷痕を見るまでは気付かなかった。だが一番の問題は、あなたに癒えない傷を負わせてしまうまで、自分の愚かさに気付かなかったことだ」
クラリスは三年前に負った傷痕の残る右腕に触れ、考えるように目を伏せた。
しかし、すぐに顔を上げて真っ直ぐにパトリスを見つめる。
その碧色の瞳には強い意思が浮かんでいた。
「この怪我は、油断が招いた私の自業自得です。それに私はずっと公爵様を騙して――」
「いや、それは違う。私は先入観に囚われ、本当のあなたを見ようともしなかった。あなたときちんと向き合えば、こんなにも簡単なことに気付かないわけがなかったんだ。クリスのことは……戦争が終結した後に調べたのだから」
「気にしてくださったのですか?」
「この周辺は無事だったが、少し南に下った土地は戦場になってしまったからな。私の知るクリスは好奇心旺盛で少々無鉄砲だった」
「それは……」
口ごもるクラリスを見て、パトリスは昔を思い出し、温かな気持ちになった。
だが、自分の愚かさも思い出し、ため息を吐いて続ける。
「それが、病で亡くなったと知って愕然とした。今まで多くの死を見てきたというのに、おかしな話だがな。そこで妹がいるということも知った私は、あの舞踏会の夜、あなたの名前を聞いて驚いた。だがすぐに、クリスの名誉のためにあなたと結婚するべきだと思ったんだ。それがあの友情に報いることになると。それなのに腹も立てていた。クリスが亡くなって間もないというのに、あなたが着飾って夜会に出ていることに。その傲慢な怒りのままに、私は正しいことをしていると思い、あなたの望みも、周囲の意見にも耳を貸さなかった」
「……公爵様のおっしゃる〝本当の私〟とはクリスのことでしょうか? それで私への見方を変えられたのですか?」
「違う。そうではない。あなたはクラリスだ。でなければ、私は……」
言いかけたパトリスの言葉は続かなかった。
ここで告白するのは虫がよすぎる。
どう言えばクラリスは納得してくれるのだろうかと、パトリスは悩んで右手で頭を掻きむしった。
「私は……その、あなたにお礼を伝えなければと……」
「……お礼?」
結局、何を言えばいいのかわからず、パトリスは話題を変えて懐に手を入れた。
そして取り出したのは、クラリスが贈ってくれたお守り袋だった。
「軍人にとって、これほどに素晴らしい贈り物はない。ありがとう」
「い、いいえ。その、お渡しするのが遅くなってしまって……」
その時の状況――別れの手紙とともに贈られたことは無視してお礼を口にしたパトリスだったが、失敗したらしい。
やはりクラリスにとっては忘れたいことだったようで、目を逸らされてしまった。
期待がしぼんでいくのを感じながら、パトリスはお守りを仕舞って話を続ける。
「それに、私はあなたに謝罪しなければならないことばかりではあるが、シルヴェスからも謝罪の手紙を預かってきている」
「シルヴェスから?」
顔を上げて訝しげに問うクラリスに、パトリスは重々しく頷いた。
「シルヴェスはあなたへ無礼な態度をとったことを私に打ち明け、謝罪した。噂を真に受け、私のために怒り、公爵邸を居心地の悪いものにしたかったのだと。他の使用人も同様らしい。だが、本当に悪いのは私だ。あなたについてシルヴェスに何の説明もしなかったのだから。どうかシルヴェスの謝罪を受けてやってはくれないだろうか?」
そう言って、パトリスはお守りに代わって、懐から封書を取り出し、クラリスへと差し出した。
受け取ってくれるか不安だったパトリスは、クラリスが一歩前へと足を踏み出して手紙を手に取った時にはほっとした。
次の瞬間、クラリスにそのまま手を握られてパトリスは息を呑んだ。
「シルヴェスからの謝罪は受けます。悪いのは公爵様だけではないのですから。私は……クリスとして、公爵様を騙していました。結婚が決まってからも、正直に打ち明けることなくずっと騙していたんです。そんな私に、公爵様は罰を与えられるのではなく、多大な恩情をくださいました。そのことに私がどれだけ感謝しているか……言葉では言い表すことができません。皆様の前で陛下に離縁を命じられるようにと取り計らってくださったのは、公爵様でしょう?」
一気に告げたクラリスは、一度大きく息を吸って満面の笑みを浮かべた。
途端にパトリスの胸が高鳴る。
「私を心配してくださり、こうしてわざわざお越しいただき、ありがとうございます。私はこの通りすっかり回復しておりますので、大丈夫です。ですからどうか、もうご自分を責めないでください。もう私に縛られることなく、ご自分を解放なさってください」
右頬の傷も大丈夫だと示すように、クラリスは指先で軽く叩いた。
確かに傷は注意しなければわからないくらいに薄くなっている。
パトリス自身は傷などまったく気にならないが、やはり女性としては大切なことなのだろうと安堵した。
同時に、手を離そうとしたクラリスを逃がさないかのように、パトリスは気がつけばその手を強く握り返していた。
「……公爵様?」
「パトリスと呼んでくれ。私にその資格がもうないのはわかっている。だが私はこの手をまだ離したくない」
「こ、パトリス、どうして……?」
「――三年前、世情は不安定で戦続きだった私は、かなり心が荒んでいた。仲間といても心休まる時がなく、息苦しくてあの日は隊から抜け出したんだ。そしてここでクリスと出会った。それからは、一人になりたかったはずなのに、いつの間にか時間があればここに向かっていた。クリスと――あなたと話をしたくて」
「そ、そんなふうには見えませんでした。いつも、私は邪魔をしてばかりだと……。それでも、楽しくて遠慮することもできずに……」
「本当は私も楽しかったんだ。会話が楽しいと感じたのは初めてだった。それに、あのように小枝を振り回すなど、兄上たちと遊んだ子供の頃のようだった」
懐かしさに微笑んだパトリスだったが、同時につらかった記憶までがよみがえってしまった。
そんな苦しみの思い出からパトリスを引き上げるように、クラリスが強く手を握る。
「パトリス、私はあなたに、もうここに来てはいけないと、会えないと告げられて、ようやくあなたが好きだと自覚しました。そして、このまま男としては生きられないとも痛感しました。もちろん、この気持ちが報われるとは思ってもいませんでしたけど……ただ一度だけ、女としてあなたに会いたかったんです。私がクリスだと打ち明けて、驚かせたかった。贅沢を言えば……綺麗になったと言ってほしかったんです。それであの舞踏会の夜、あなたを驚かそうとして……愚かなことをしました。そのせいであなたにはどれだけ迷惑をかけたか――」
「そうではない。あの夜、愚かだったのは私だ。そして、それからの日々も。結婚すればそれで義務は果たせると思っていた。あなたからの手紙もただの駆け引きで本気だとは思わず、下世話な噂も披露宴の時に兄から教えられて初めて知ったんだ。それで私は混乱し、とにかく噂から遠ざけるために領地にやればいいと考えた。これで全て解決するはずだと」
「そのような……」
「あなたは今までずっと理不尽な仕打ちに挫けることなく、立ち向かい戦ってきた。私はあなたの強さに感服し、尊敬している。だがそんなあなたを傷つけたのは、賊でもサモンドでもなく、私だ。再会してからずっと、私はあなたを傷つけていた。だから、あなたを自由にしなければならないと思った。今さらやり直すにはもう遅いと」
「パトリス……」
「私はあなたが相手だと、こんなにも言葉を紡ぐことができる。良いことも、悪いことまでも。だからあなたと別れて一人になった時、自分の人生がどれだけ寂しく虚しいものかを思い知らされた」
正直に自分の気持ちを打ち明けてくれたクラリスに対して、パトリスもまたはっきりと自分の気持ちを語った。
そして傍に落ちていた枝を拾うと、クラリスに差し出す。
「クラリス、今さら虫がいいのはわかっている。だがこのまま何もせずに後悔はしたくはない。だからどうか……また友人になれないだろうか?」
ぽかんと口を開けたクラリスは、枯れ枝とパトリスを交互に見た。
だがやがて驚いた表情は笑顔に変わり、パトリスが差し出した枯れ枝を手に取った。
「条件があります」
「……条件?」
「はい。あの日のように私と勝負をしてください。もちろんパトリスは……これで」
クラリスは受け取った枯れ枝の半分にも満たない小枝を拾って見せる。
昔のようで楽しくなったパトリスが軽く片眉を上げると、クラリスは笑みを浮かべたまま続けた。
「パトリスが勝ったら友人として始めましょう。ですが、もし私が勝ったら……」
「クラリスが勝てば?」
「その……もうすぐ催される伯父の祝賀会で、私をエスコートしてください!」
再び期待に胸を膨らませたパトリスは、予想もしていなかった条件に驚いた。
思わず笑みが浮かびそうになり、慌てて表情を引き締め頷く。
「わかった。条件を飲もう」
これは真剣勝負だ。
どんなに負けたくても、手を抜くわけにはいかない。
「いきます!」
「ああ」
元気のいいかけ声とともに、クラリスが打ちかかってくる。
その全ての剣筋をパトリスは見抜いて受け止め、何度目かでクラリスの枝を弾き飛ばした。
惜しい気持ちはしたが、それでもクラリスの笑顔を見ると、これでよかったのだと思う。
パトリスもまた微笑んでクラリスと握手を交わし、二人の友情を確かにしたのだった。




