5
怪我を負ったクラリスの意識が戻ったと聞かされた時には、パトリスは今までにないほど安堵した。
クラリスの怪我は通常では命を脅かすほどではなかったが、治癒力というのは人によって違い、精神状態でも大きく変わる。
彼女の「もう、いや」とのうわ言を聞いたパトリスは、生きることをクラリスが諦めていないことを祈るしかなかった。
無事に意識が戻ったら彼女に謝罪し、希望通りに解放しよう。
そう考えていたパトリスは、会いたくないと言われても当然だと受け入れた。
しかしクラリスは初めこそ拒絶したものの、その後に会うことを許してくれたのだ。
ただその時に、クラリスから謝罪されたことは未だに胸が痛む。
クラリスに謝罪をしなければと思わせていたことが情けなく、自分の不甲斐なさに腹が立った。
賊の捕縛を終えた後、すぐに城内の使用人たちに調査を行った結果、クラリスの訴え通りだったことも確かになった。
一部の男性使用人はパトリスたちがいないと仕事をサボり、女性使用人たちへ嫌がらせをしていたらしい。
そのことをサモンドは把握していながら何も対処しなかったどころか、パトリスへは何も問題ないと報告していたのだ。
サモンド自身は本気で問題ではないと考えており、そんなサモンドを全面的に信用していたパトリスの責任は重い。
今回、サモンドときっちり話をした時、パトリスは鏡を見ているようで気分が悪くなった。
きっと他の者には――クラリスには、自分もサモンドと変わらずに見えるのだろう。
どうしようもない後悔に思わず漏れ出たため息を聞きつけて、領地の見回りに従ってきているゴードンが振り向いた。
「閣下、いかがなされましたか?」
「別に何もない」
「さようでございますか。ところで、奥様のお加減はいかがですか?」
「……もう歩く練習を始めたらしい」
「こんなに早くですか!? それはさすがと申し上げるべきですな。賊を相手に弓と剣で立ち向かわれたのですから……」
「だが、まだ無理をするべきではないだろう」
感心したように呟くゴードンになぜか苛立ち、パトリスは不機嫌に答えた。
するとゴードンは呆れたように息を吐き出す。
「閣下、そこは責めるべきでなく、賞賛するべきですよ。ちゃんと治療師がついているのですから無理はなさらないはずです」
「……そうか」
「そうですよ。誰だって自分の努力は認められたいものでしょう? 私の妻など、髪の毛をほんのわずかばかり切っただけでも『褒めて褒めて』とうるさいですよ。綺麗になる努力をしたのだから、と。ああ、それに新婚の頃は私によく質問してきておりました。今日は何をするのかとか、何をしたのか、誰と会ったのかなど。私のことを早く知るには一日の出来事や交友関係を把握するのがいいとか言って……」
ゴードンとしては、あまりに遅すぎる初恋を経験しているらしい上官に、アドバイスをしたつもりだった。
要するに、何でもいいから会話しろと言いたかったのだが、まさかそのまま行動するとは思ってもいなかったのである。
翌朝からパトリスが一日の予定をクラリスに毎日報告していると聞いた時には、頭を抱えた上に腹も抱えて笑った。
真面目な人間ほど拗らせると面倒くさい。
そのため、故郷へ帰りたがったクラリスをひとまず王都へと送り届けた時、離縁の申し出をパトリスが素直に受け入れたと知って、ゴードンは非常に歯痒い思いをしたのだった。
王都に戻ってから数日後。
パトリスは何度目かの伯爵邸への訪問から公爵邸に帰ると、書斎の椅子に腰を下ろして深く息を吐いた。
医師が言うにはもうクラリスの怪我はほとんど治っており、これ以上の診察は必要ないらしい。
次の診察では医師もカリエールへ向かって大丈夫だと告げるそうだ。
ならばもう王都へと引き留めておく理由がなくなってしまう。
パトリスは再び大きくため息を吐くと、机の一番上の抽斗を開け、宝物を取り出すように一通の封書を取り出した。
それはクラリスを伯爵邸まで送った時に、別れ際に渡されたものだった。
手紙の文面は読まなくても覚えてしまっている。
クラリスは手紙で、これまでのパトリスの恩情に感謝し、己の愚行と力不足を謝罪し、離縁を求めていた。
嫌味でも何でもなく、クラリスは心からそう信じているのだろう。
しかし、その全ての言葉がパトリスを責め苛んでいた。
クラリスの恩情に感謝し己の愚行と力不足を謝罪しなければならないのはパトリスなのだ。
そのことに償いをするならば、彼女の望み通りに離縁するべきだとわかっていた。
もう解放するべきだと。
地位も名誉も何も、彼女は望んでいない。ただ自由を求めている。
あの森の小川のほとりで出会ったクリスは――クラリスは自由に見えた。
馬で森を駆け、パトリスと模擬剣代わりの枝で手合わせをし、悩みなど感じさせないほどに快活で、生きることを楽しんでいたのだ。
その明るさに惑わされ、パトリスはクラリスの影の部分を見ようともしなかった。
産まれた時から女であることを否定され、暴虐な父から逃れるためにおそらくカリエールで匿われていたのだろう。
だがそれは一時の自由であり、所詮は籠の鳥のようなもの。
先代伯爵が亡くなって初めて、クラリスは本当の自由を手に入れたのではないだろうか。
クラリスは一回限りのシーズンを楽しんだ後には領地へ戻り、誰と結婚することもなく静かに暮らすと当初から宣言していたと聞く。
あの事件の後、彼女は何度も手紙を送ってきていた。
それをパトリスは、婚約を破棄してほしいと書かれた最初の一通だけに目を通して一蹴し、後は無視したのだ。
あの時は王族としての名誉だの彼女の名誉だのと理由をつけてはいたが、結局は自分のプライドのためだったと今ならわかる。
勝手に自分の母と重ねてクラリスを〝女〟という枠にはめ、最初から否定していた自分は、彼女の父親と何も変わらない。
(それなのにクラリスは……)
パトリスは不自然に膨らんだ封筒をそっと撫で、中から見事な鷹の刺繍が施されたお守りを取り出した。
クラリスは手の込んだ刺繍を施し、冷たい夫であったパトリスの安全を今になっても祈ってくれているのだ。
三年前のエスクーム王国との戦でレイチェル王妃が勝利の象徴とされる鷹を遣わして、フェリクス国王に届けたお守りの話は有名である。
実際、パトリスも兄であるフェリクスの下に鷹が舞い降りた姿を目にしたのだ。
それでも、パトリスはブライトン王国の王女であったレイチェルを疑っていた。
〝女〟は平気で嘘を吐く。
それが援軍を条件に、慕っていた兄に押しつけられた我が儘な王女だとすればなおさらだった。
だが、無事に勝利を収めた戦が終わり、兄王のフェリクスに紹介されたレイチェルは噂とはまったく違っていた。
その時、改めて噂などあてにならないと気付いたのに。
結局は何も成長してなかった。
できる限り人と関わろうとしない自分が、いったいクラリスの何を見て判断できたというのか。
パトリスは自分の愚かさに腹が立ち、その怒りを鎮めるために椅子に背を預けて目を閉じ、何度も深呼吸を繰り返した。
その時、書斎の扉がノックされ、パトリスは体を起こすと応じた。
すると入ってきたのは、執事のシルヴェスだ。
パトリスが書斎に籠っている時にシルヴェスが邪魔をすることはめったになく、余程のことなのだろうとパトリスはすぐに目で先を促した。
それなのに、珍しくシルヴェスはためらっている。
「どうした、シルヴェス?」
「その、クラリス様は――奥様の……お加減はいかがなのでしょうか?」
「ああ、順調に回復している。お前にも心配をかけたな」
「いえ……」
傷痕が残ってしまうことは口にしなかった。
それはパトリスにとってはまったく問題ではないのだ。
ただそれを伝える言葉を自分が持たないことがもどかしかった。
きっとクラリスはあの嫌な記憶とともに、心の傷になっているだろう。
「私は、旦那様と奥様に謝罪しなければなりません」
「……謝罪? どういうことだ?」
訝しげに眉を寄せたパトリスに気圧されたように、シルヴェスはごくりと唾を飲みこんだ。
しかし、本来の生真面目さから打ち明けずにはいられなかった。
「私は……世間の噂を信じ、結婚式当日に奥様がこのお屋敷にいらっしゃった時、歓迎の意を表すことも祝福をさせていただくこともなく、非常に失礼な態度で接してしまいました。私の態度から、この屋敷に仕える者も皆同じように……。また翌朝も、奥様を追い出すように領地へと送り出してしまったのです」
「世間の噂?」
シルヴェスが何のことを言っているのかはわかっていた。
ただ信じられなかったのだ。
幼い頃に自分を助けてくれたシルヴェスは命の恩人と言っていい。
そして、それからもずっと自分に忠誠を誓い、職務にも忠実な執事が世間の噂に惑わされていたなどと。
「私どもは――私は、旦那様が奥様と名誉のためにご結婚なされるのだと……。その、奥様が旦那様を――」
「もういい、シルヴェス」
パトリスの声はとても静かなものだったが、シルヴェスはびくりとして口を閉ざした。
そんなシルヴェスを目にして、パトリスは無意識に首を振る。
パトリスはかなり腹を立てていたが、それはシルヴェスに対してではなく自分に対してだった。
これらは全て、どこまでも鈍感で無神経な自分が引き起こした結果である。
だがクラリスは文句ひとつ言うことなく、領館でも苦難に果敢に立ち向かっていた。
そんな彼女の勇気を挫いたのは、賊でもサモンドでもなくパトリスなのだ。
今さら後悔しても遅いが、これから正しい方向へ導くことはできる。
パトリスがそう決意した時、シルヴェスもまた決意を漲らせて口を開いた。
「旦那様、今回のことで自分がどれほどに浅はかで愚かな人間かを私は知りました。セルジュから届く手紙は、奥様のことを褒めたたえた内容であったにもかかわらず、初めは信じられませんでした。それが、この度のお怪我もセルジュを庇ってのことだと知り……。セルジュは奥様をとても心配しております。セルジュだけではありません。領館に仕える者たちからこれだけの手紙が私宛てではありますが、届いております」
そう言って、シルヴェスは懐から幾通もの封書を取り出した。
その手紙をパトリスの机に置き、シルヴェスは深く頭を下げる。
「私にはこれ以上、旦那様と奥様にお仕えする資格はございません。どうか職を辞すことをお許しください。後任をお決めになるまでは――」
「いや、どうかとどまってくれ、シルヴェス」
「ですが、旦那様……」
「お前のせいではない。これは全て私のせいだ。お前たちに誤解をさせてしまったのも、彼女に――妻に怪我を負わせてしまったのも全て。だから、お前が私に愛想を尽かしたのでなければ、どうかこれからも仕えてくれないか?」
「……私には、もったいないお言葉でございます」
パトリスの言葉に、シルヴェスは涙声で再び深く頭を下げた。
普段無口な主人であるパトリスが、これほどに言葉を連ねるのはクラリスのためなのだ。
不遇の幼少期を過ごしたパトリスを知っているシルヴェスは、その意味を正確に汲み取り、軋む胸を押さえた。
そしてシルヴェスが出ていった後、パトリスは国王である兄に宛てて手紙を書き始めたのだった。




