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パトリスは二階へと駆け上がったものの、次に取るべき行動に悩んだ。
いきなり自分の寝室から、一度も使ったことのない扉を開いてクラリスの寝室に入るのは非常識だろう。
そのため、クラリスの私室へと繋がる主扉の前に立ち、呼吸を整えてからそっとノックする。
応対に出たのはクラリスが連れて来ていたアミラという侍女で、パトリスを目にして一瞬驚いたようだったが、すぐに部屋へと通してくれた。
主人の――クラリスの意向を訊ねることがないのは、その状況ではないからなのだ。
知らず難しい顔になって居間で待っていたパトリスの許に、年配の侍女ともう一人――治療師が寝室から出てきた。
「妻は――クラリスの容態は?」
「……奥様の傷は五か所ございます。傷自体はそれほどひどいものではありませんが、左腕の矢傷が一番深く、その傷がかなりの熱を持って、奥様の体力を奪っております」
治療師の冷静な説明に、パトリスはただ頷くことしかできなかった。
しかし、隣で黙っていた侍女がキッとパトリスを睨みつける。
今まですれ違うことはあっても何も言わず、さっと脇へ避けて頭を下げるだけだった侍女の態度に、パトリスは驚いた。
「クラリス様は……クラリス様は幼い頃からずっと、あの伯爵の仕打ちにも耐えていらっしゃったんです。この結婚だって、公爵様に申し訳ないとどれだけ気に病んでいらっしゃったか……。それでも、クラリス様はいつも前向きに生きていらっしゃいました。この城の男連中が――サモンドさんをはじめとして、クラリス様に反抗的な者たちへも、私たち女の使用人のために立ち向かってくださっていたんです。セルジュさんがいらっしゃったことで、やっとクラリス様は大好きな乗馬ができるようになり、どれだけ喜んでいらしたか……。それなのに、ならず者どもが……クラリス様お一人なら逃げられたかもしれません。状況だってどうだったのか、伺っておりませんからわかりません。ただクラリス様は、怪我をされているのに意識を失ったセルジュさんを支えたまま、逃げていらっしゃったんです。矢傷はおそらくその時のものでしょう。もし、もし……クラリス様にこれ以上の仕打ちをなさるのなら、私は……」
クラリスの状況に耐えられなくなった侍女は――エネは滔々とまくし立てたが、これ以上の発言がパトリスを侮辱するものになると気付いて言い淀んだ。
今でも十分に不敬罪で罰せられても仕方ないのだ。
それでも本当は言いたかったが、そうなるとクラリスが悲しむだろうと、エネはぐっと堪えた。
そんなエネを見つめ、パトリスは静かに切り出した。
「私は……私はもう彼女を苦しめるつもりはない。私がどれほど狭量で偏見に囚われていたか、今ならわかる。私は間違っていた。もちろん、こんな状況になるまで気付かなかったことは愚かでならないが、できればやり直したいと思う。だからどうか妻に――クラリスに会わせてくれないだろうか?」
本来なら、わざわざエネたちにクラリスとの面会を乞う必要はない。
しかし、パトリスはそうすることによって、自分の気持ちを表したのだ。
途端にエネの張り詰めていたものが切れ、涙が溢れだす。
治療師はエネを長椅子に座らせると、パトリスをクラリスの寝室へと招き入れた。
すると、交代でクラリスについていたアミラが慌てて立ち上がろうとする。
それを手で制し、パトリスはそっと枕元に近づいた。
自然とパトリスの顔が険しくなる。
クラリスの右頬には当て布はされず、緑色をした傷薬が塗られており、上掛けから出された左上腕には治療のためかナイフによる傷も見えた。
他にもあと三か所も傷があるのだ。
その事実はパトリスを激しく打ちのめした。
いったい自分はクラリスに何をしたのかと。
最初から結婚に乗り気でなかった彼女に名誉のためだと言い聞かせて強引に結婚し、誰も知る者がいないこの辺鄙な場所へ閉じ込め、さらにはサモンドをはじめとした反抗的な使用人の相手をさせていたのだ。
しかも、彼女はこの城の現状改善を訴え、賊を警戒していたにもかかわらず、パトリスは全てをはねつけた。
(もしあの時私が偏見を捨て、彼女の訴えを真剣に聞いていれば……)
今さら後悔しても遅い。
そのことを十分にわかっているパトリスは、とにかく自分に今できることに取りかかることにした。
「私はこれから賊の討伐に向かう。その後、この城の問題を片づけるつもりだ。それまではどうか、妻を頼む」
クラリスを煩わせないよう、ベッドから離れたパトリスは、治療師とアミラにそう言い残し、部屋から出ていった。
すぐにゴードンと合流して賊を追わなければ――絶対にこれ以上の被害を出してはならないのだ。
それからパトリスは騎士たちと城の警備兵、街の警備兵を編成し、付近の森を捜索して賊の痕跡を追った。
今まで神出鬼没とされていた賊も、軍を慎重に避けての行動だったために上手くいっただけであり、少数精鋭の騎士たちを相手に逃げるには時間が足りなかったようだ。
その後、賊を捕えることに成功すると、あとは街の長に任せて今度は城の内情に取りかかった。
だがクラリスは目覚めることなく、夜中に何度かパトリスは自分の寝室からそっとクラリスの許へと会いにいった。
夜中でもエネかアミラが常についているようだが、二人とも疲れているらしく枕元に座ったままうとうとしている。
ただ物音一つでも立てれば目を覚ましてしまうだろうと、気配を殺してクラリスに近づき、その熱い額に触れた。
どうか早く目覚めますようにと祈りを込めながら。
そして三日目の夜、上掛けから覗くクラリスの右腕を目にしたパトリスは、はっと息を呑んだ。
それは手首から肘にかけて薄っすらと伸びる細い傷痕。
まさか、という思いがパトリスの頭を混乱させた。
その時、パトリスに気付いたのか、傍についていたエネが目を覚ました。
「……公爵様?」
昨夜もエネを起こしてしまい驚かせたのだが、今回はパトリスの様子がおかしいことに訝しんでいるようだった。
クラリスは苦しそうにしながら、それでも数日前よりはかなり呼吸が安定している。
そのクラリスを気遣い、パトリスは静かに離れてエネに近づくと小声で告げた。
「あの右腕の傷は古いもののようだが……」
「あれは……三年前のものです。クラリス様はカリエール領にいらした頃は、毎日のように馬を駆って出かけておりましたから。私どももせめてお一人ではお出かけにならないようにとお願いしていたのですが、かなりのお転婆でいらしたので……。ですから、お怪我をされて戻っていらっしゃった時には、本当に肝を冷やしました。今の淑女然としたクラリス様からは想像できないでしょうが……」
「――いや、デッドを乗りこなすほどなのだから……想像はつく」
昔を懐かしむように教えてくれたエネの言葉に、パトリスはどうにか答え、それから後を任せて部屋を出ていった。
今知った情報を整理するのに、一人になりたかったのだ。
あの傷はクリスが負ったもののはずで、クリスは亡くなり、入れ替わるように双子の妹――クラリスの存在が世間に知られるようになった。
ボナフェ先代伯爵の、女はこれ以上はいらぬという宣言はあまりに有名であり、パトリスでさえ聞いたことがある。
それらを全てつなぎ合わせれば、自ずと答えは出た。
しかし、その事実に衝撃を受けたパトリスは、足元から全てが崩れていくような感覚に陥っていた。
苦痛のあまり眩暈がする。
パトリスは壁に背を預けて固く目を閉じたが、流れる涙を止めることはできなかったのだった。




