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クラリスがパトリスを連れて屋敷に戻ると、母や伯父のカリエール卿はかなり驚いていた。
しかも伯父は礼儀正しく接しながらも、パトリスに対して警戒している。
だが、クラリスが久しぶりに見せる本物の笑顔にほだされたようだ。
そこで、街に宿をとっているというパトリスに、主として屋敷へ滞在するようにと説得し、その日のうちにパトリスは従者とともにカリエール館へと移ってくることになった。
パトリスは今回のことで五か月の停職処分を受けており、時間はあるらしい。
初めはどうしても遠慮していたクラリスだったが、三年前にビバリーの森で出会った頃のようなパトリスと過ごすうちに、自然に振る舞えるようになっていた。
二人は一緒に乗馬を楽しみ、図書室ではお互いのお気に入りの本について語り、時には領地運営についての意見を交わす。
パトリスはこのふた月の間、放置していた他の領地がきちんと管理されているか、使用人や領民が不当な扱いを受けていないかと見て回っていたそうだ。
そのことについては、伯父にアドバイスを求めてもいた。
また、あの夜に再会してからの日々を、パトリスは後悔とともに語ることもあった。
「結婚式のあの時も、私は酷い態度だった。今さらではあるが、本音を言えば、怖かったんだ」
「怖かった? パトリスが?」
「ああ。私は着飾った女性が苦手だ。しかし、父上がご存命の時には、よく夜会が催されていた。ある程度の年齢になった私は必ず出席しなければならず、またダンスを避ける上手い口実を見つけることもできなかった。そして、女性たちと接することで……嫌悪するようになっていた」
先代国王の存命当時に何があったのか、パトリスが詳しく語ることはなかったが、クラリスは何となく想像がついた。
パトリスは息を吐いて続ける。
「その後、サクリネ王国との戦が始まり、夜会どころではなくなった。また兄上が即位されてからの夜会では、欠席することも、女性たちを避けることもできるようになったが……。結婚式では自分が招いた状況でありながら、早く逃れたいばかりに、あなたを気遣うことすらしなかった」
あの時に逃げ出したいと思っていたのは自分だけではなかったのだと新たな事実に驚きつつ、本当にパトリスは不器用な人なのだと、クラリスはつくづく思い知らされた。
それでも今、こうしてたくさんの気持ちを語ってくれている。
「当然、宴席では陛下からお叱りを受けた。そして、あなたの傍から離れるべきではなく、顔色が悪いようだから早く連れ出すようにとも言われた。女性とはパーティーが好きなものだと思っていたから、私はあなたも楽しんでいると思っていたんだ。そして、二人きりになったらなったで、何を話せばいいのかわからなかった。あの時になってようやく、あなたは本気で私との結婚を拒絶していたのだと気付き、クリスのためにと強行したものの、もう後悔していた。だから私が傍にいないほうがいいだろうと結論づけて……要は逃げ出したんだ」
「私は……近づくことさえ許されないのだと思っていました」
「そう思うのは当然だろうな。あの時の私は怒りと恐怖と後悔で混乱し、まともに考えることができなくなっていた。そのくせ、あなたに会いにいく理由付けのために、わざわざデッドを領館へと連れていったんだ。しかし、領館では先にサモンドの訴えを聞き、あなたが私の知っている女性像そのままだったことに私は失望してしまった。勝手に期待していたくせに、勝手に裏切られたと思い、あなたに当たってしまったんだ。どんな言い訳も償いもできない、最悪な態度だった」
つらそうに吐き出すパトリスにクラリスは何も言えなかった。
パトリスの知る女性像とは、お妃様のことだろうかと思ったのだ。
さらには、他の知らない女性のことだろうかとも考え、嫉妬している自分が恥ずかしくなった。
こうして話を聞けば聞くほど、二人にはきちんとした話し合いが必要だったのだとわかる。
そのせいで、パトリスもクラリスも後悔ばかりしているのだ。
もういい加減に後悔ばかりの気持ちから解放できないかと、クラリスは思い悩んでいた。
そしてある日、カリエール家で食事をともにしていて気付いたことがあった。
どうやらパトリスは豆類が苦手らしい。
料理を出されるときちんと残さずに食べるのだが、豆類の時だけ一気に口に入れた後すぐに飲み物を口に含むのだ。
そのことを指摘すると、パトリスはばつが悪そうに肯定した。
「豆類は乾燥させれば保存がきくから、隊では嫌というほど出される。乾燥豆を水で戻しただけの食事が何日も続いた時もあった。あれで私は苦手になってしまったんだ」
「そうだったんですね……」
クラリスは同情して答えたものの、その夜は料理人にお願いして豆料理を中心に出してもらった。
その時のパトリスの困惑した表情と、自分へと向けた視線に、クラリスは笑いを堪えるのが大変だった。
翌日、パトリスに責められたクラリスは、頬の傷が引きつれるのもかまわずに笑い、そして告げたのだ。
「これで私の仕返しは終わりです。ですから、どうかもうパトリスも後悔は終わりにしてください。私たちは友達なのですから、何かに縛られることなく、対等でいませんか?」
「……そうだな。クラリスもクリスも、私にとっては大切な友達だ。ありがとう」
「お礼を言われるようなことは何も。それに、もう豆料理ばかりを頼んだりもしませんから安心してください」
今度は頬が引きつれない程度に微笑んで、クラリスは立ち上がった。
今日は久しぶりに二人でビバリーの森に遠乗りに来ていたのだが、馬たちもしっかり休んだはずだ。
自分で言いだしておきながら、改めて友情を差し出されるとつらい。
こうしてパトリスとの時間が増えれば増えるほどに、クラリスの初恋は再燃し、さらに想いが募っていた。
だが結婚していた時のすれ違いの日々よりも、今のほうがずっと心が通っている。
だからクラリスはこれで十分なのだと自分に言い聞かせた。
近いうちにパトリスは軍へと戻り、クラリスは領地に引きこもるのだ。
ひょっとして二度と会うこともないかもしれないが、きっと手紙での交流は続けることができるだろう。
あのまま別れて、一生を後悔して過ごすよりも、ずっといいのだから。
こうしてクラリスはパトリスとの時間を大切に過ごしていた。
そんな日々が続いたある日、図書室で本を読んでいたクラリスに、パトリスが声をかけてきた。
「クラリス、明後日に夜会が開かれるそうだな」
「あ、はい。少し騒がしくなりますのでご迷惑をおかけしますが、招待客は近隣の方たちばかりですので、この屋敷にお泊りになる方はいらっしゃいません。ですから、パトリスはお好きになさっていてください」
「……あなたは出席されるのか?」
「少しだけ。伯父の受勲を祝う会ですので」
「そうか……」
以前、パトリスにエスコートしてくれることを賭けた夜会だった。
夜会自体はそれほど規模の大きなものではないが、使用人たちは今から準備に勤しんでいる。
おそらく伯父がパトリスを誘ったのだろう。
しかし、パトリスは〝夜会嫌い〟としても有名で、出席してくれることをクラリスは期待しておらず、ただ気まずかった。
それよりもこれを機会にパトリスが屋敷を離れてしまうのではないかと不安になっていた。
そのため、次に発したパトリスの言葉には本当に驚いてしまった。
「では、あなたのエスコートを私にさせてくれないか?」
「え?」
「もうすでにエスコートは決まっているのだろうか?」
「い、いえ! 私は従兄弟たちの誰かが適当にしてくれるはずで、特に約束はしていません」
「それならば、私でもかまわないか?」
「で、ですが賭けでは……」
「あの賭けは勝負がついた。だからこれは単純に、私がクラリスに申し込んでいるんだ。しかし、私たちの関係を考えれば、やはり迷惑だろうか?」
「い、いえ! もちろんです大歓迎です! あ……えっと、パトリスが出席してくださるなら伯父も喜ぶと……」
信じられない思いで、それでもクラリスは意気込んで答えていた。
思わず立ち上がっていたクラリスは、微笑むパトリスを目にして自分がどれだけ必死になっているかに気付き、すごすごと腰を下ろす。
「あの……」
「それでは……楽しみにしている、クラリス」
「はい!」
早くこの喜びを母やエネたちに伝えたい。
パトリスが図書室から出ていく姿を見送ると、クラリスは急ぎ自室へ戻ってエネへと飛びついた。
「エネ、アミラ、聞いて! なんと明後日の夜会に公爵様がエスコートしてくださるの!」
「まあ! 閣下が!?」
「なんて素敵な! クラリス様、よろしゅうございましたね!」
「もう夢かと思えるくらいよ!」
「ですが、皆様はどう思われるでしょうか?」
アミラは自分のことのように喜んでくれたが、エネは二人の関係が微妙なために心配を口にした。
また嫌な噂が流れるかもしれないのだ。
そこでクラリスはにっこり笑って安心させる。
「確かに、私と公爵様の関係を思えば、みんな訝しむでしょうし、噂になると思うわ。でも公爵様は気になさっていないみたいだから、私が気にすることもないわ。だって、私たちは友達だもの。言いたい人には言わせておけばいいのよ」
「クラリス様がそのようにお考えなのでしたら、私は何も申しません。本当によろしゅうございましたね」
「ありがとう、エネ! さっそくお母様にも伝えたいの! お母様はお部屋かしら?」
「おそらくそうではないでしょうか? テメオ様はお勉強のお時間ですから」
「では、ちょっとお邪魔してくるわ!」
「かしこまりました。ですがクラリス様、廊下は走ってはなりませんよ」
「わかっているわ、もう子供じゃないんだから!」
今の勢いでは廊下を走りかねないため、エネは久しぶりの注意をした。
すると、少しだけ拗ねたように答えて、クラリスは部屋を出ていく。
まるでクリスとして生活していた頃の元気を取り戻したようで、エネもアミラもその後ろ姿を笑顔で見送ったのだった。




