31
あの日からふた月近くが経ち、クラリスは徐々に明るさを取り戻し、今まではすっかり元気になったように見えた。
だが内心では、どうにもならない焦燥感を持て余していた。
伯父がカリエール館へ戻ってから間もなくして、弟のテメオを連れてやって来た母から聞いた噂では、すっかりクラリスの名誉は回復しているらしい。
逆に、今まで英雄とされていたパトリスの評判は地に落ちているのだと。
その話を聞いて、クラリスは本当は違うと、今回のことでは自分の迂闊な行動が事の発端なのだと訴えたかった。
しかし、それはパトリスの心遣いを無駄にすることであり、フェリクス国王の判断に異を唱えることになるために、言葉にすることができない。
あの時、頑なにパトリスを拒むことなく、きちんと話し合っていれば何か変わっただろうか。
そうすれば、このようにパトリスに恥をかかせずにすんだかもしれない。
『きちんと話し合うことさえすれば――』
結婚後に領館で再会した時、パトリスへ放った言葉が自分に突き刺さる。
(本当に私って馬鹿だわ。パトリスと再会してからは、後悔してばかりね……)
クインと馬を走らせながら自嘲したクラリスは、いつもの小川のほとりまで来ると、馬を休ませてから周囲をぶらぶらと歩いた。
この辺りはエスクームの残党も一掃され、危険はまずない。
伯父は治安回復に務めたことで、このたびの叙勲下賜式に呼ばれたのだった。
「クラリス様?」
「大丈夫。心配しないで、いつもの場所だから。もし何かあれば大声だって出すわ」
少し先へ行こうとしたクラリスに、クインが心配して声をかける。
もう十分に懲りているクラリスは、腰に下げた小振りの剣を軽く叩きながら笑って答えた。
本当に遠くまで行くつもりはない。
ほんのわずかな先に腰を下ろすのにちょうどいい岩場があり、そこまで行きたかったのだ。
そこは少しだけ周囲から遮断された空間を作っており、一人になりたい時にはもってこいである。
クインもよく知っているので、反対はされなかった。
しばらく座ってぼうっとしていたクラリスだったが、足音が近づいてくることに気付いて我に返った。
思いのほか時間が経ってしまって、心配したクインが呼びに来たのかと思ったが、どうにも足音が違う。
クラリスはいつでも剣を抜けるように柄を握り、立ち上がって大声を出す準備をした。
そして茂みの陰から現れた人物に目を瞠る。
「パトリス……?」
クラリスは驚きのあまり思わず呟いて、慌てて口を押えた。
だがパトリスは何も言わずに近づいてくる。
動揺しながらもクラリスはその場に踏みとどまった。
「公爵様、あの――」
「パトリスだ」
「はい?」
「パトリスでかまわない。三年前、そう呼んでくれたように」
パトリスの声はとても穏やかだったが、クラリスはその内容に息を呑んだ。
いつから知られていたのかと焦るクラリスを安心させるように、パトリスはかすかに笑みを浮かべた。
めったに見せないその微笑みにクラリスの心臓は跳ね上がる。
「い、いつから……」
知っていたのかと問いたいのに言葉が続かない。
そもそもなぜここにいるのか、それよりも今回のことで謝罪とお礼を言わなければと、クラリスの頭は混乱していた。
パトリスは手を伸ばせば触れられる距離まで近づいて足を止める。
「あなたが……怪我を負ってしまった時、意識のないあなたの腕の傷痕を見るまで気付かなかった。だが一番の問題は、あなたに癒えない傷を負わせてしまうまで、自分の愚かさに気付かなかったことだ」
クラリスは思わず三年前に負った傷痕の残る右腕に触れた。
そして怪我で寝込んでいる時の朦朧とした意識のなかで、時々額に触れた冷たい手の感触を思い出す。
あれはエネかアミラかと思っていたが、かなり大きく骨張った手だったと今さらながら気付いた。
「この怪我は、油断が招いた私の自業自得です。それに私はずっと公爵様を騙して――」
「いや、それは違う。私は先入観に囚われ、本当のあなたを見ようともしなかった。あなたときちんと向き合えば、こんなにも簡単なことに気付かないわけがなかったんだ。クリスのことは……戦争が終結した後に調べたのだから」
「気にしてくださったんですか?」
「この周辺は無事だったが、少し南に下った土地は戦場になってしまったからな。私の知るクリスは好奇心旺盛で少々無鉄砲だった」
「それは……」
言い訳しかけて、できないことにクラリスは口ごもった。
パトリスは笑いともため息ともつかない小さな息を吐き出して続ける。
「それが、病で亡くなったと知って愕然とした。今まで多くの死を見てきたというのに、おかしな話だがな。そこで妹がいるということも知った私は、あの舞踏会の夜、あなたの名前を聞いて驚いた。だがすぐに、クリスの名誉のためにあなたと結婚するべきだと思ったんだ。それが、あの友情に報いることになると。それなのに腹も立てていた。クリスが亡くなって間もないというのに、あなたが着飾って夜会に出ていることに。その傲慢な怒りのままに、私は正しいことをしていると思い、あなたの望みも、周囲の意見にも耳を貸さなかった」
苦しげに吐き出されたパトリスの言葉を聞いて、クラリスはようやく理解できた気がした。
なぜあれほど頑なに結婚を進めておきながら、パトリスが怒っていたのかを。
同時に、複雑な気持ちになる。
「……公爵様のおっしゃる〝本当の私〟とはクリスのことでしょうか? それで私への見方を変えられたのですか?」
「違う。そうではない。あなたはクラリスだ。でなければ、私は……」
言いかけたパトリスの言葉は続かなかった。
目を泳がせて右手で髪の毛をくしゃりとする姿は、かなり動揺しているように見える。
「私は……その、あなたにお礼を伝えなければと……」
「……お礼?」
話題が変わったのか何なのか、さっぱりわからずクラリスは首をひねった。
パトリスは何も言わず懐に手を入れる。
そして取り出したのは、クラリスがずっと以前、パトリスのためにと縫ったお守り袋だった。
「軍人にとって、これほどに素晴らしい贈り物はない。ありがとう」
「い、いいえ。その、お渡しするのが遅くなってしまって……」
思いがけず自分が縫ったお守りを目にして、今度はクラリスが動揺してしまった。
鷹を模した刺繍のお守りは、伯爵邸でパトリスと決別するために、離縁を乞う手紙と一緒に封書に入れて渡したのだ。
それが、こうして改めてお礼を言われると気まずい。
思わず目を逸らして答えたクラリスに、パトリスはどこか気落ちした様子でお守りを仕舞いながら話を続けた。
「それに、私はあなたに謝罪しなければならないことばかりではあるが、シルヴェスからも謝罪の手紙を預かってきている」
「シルヴェスから?」
顔を上げて訝しげに問うクラリスに、パトリスは重々しく頷いた。
「シルヴェスはあなたへ無礼な態度をとったことを私に打ち明け、謝罪した。噂を真に受け、私のために怒り、公爵邸を居心地の悪いものにしたかったのだと。他の使用人も同様らしい。だが、本当に悪いのは私だ。あなたについてシルヴェスに何の説明もしなかったのだから。どうかシルヴェスの謝罪を受けてやってはくれないだろうか?」
そう言って、パトリスはお守りに代わって、懐から封書を取り出し、クラリスへと差し出した。
その表情はまるで自信なさげだ。
パトリスの弱さを初めて見たような気がして、逆に勇気を得たクラリスは一歩前へと足を踏み出し、手紙を受け取るとそのままパトリスの右手を握った。
途端にパトリスが目を見開く。
「シルヴェスからの謝罪は受けます。悪いのは公爵様だけではないのですから。私は……クリスとして、公爵様を騙していました。結婚が決まってからも、正直に打ち明けることなくずっと騙していたんです。そんな私に、公爵様は罰を与えられるのではなく、多大な恩情をくださいました。そのことに私がどれだけ感謝しているか……言葉では言い表すことができません。皆様の前で陛下に離縁を命じられるようにと取り計らってくださったのは、公爵様でしょう?」
一気に言ったために、クラリスの息は切れていた。
それでも、最後に今度こそ後悔のないように言わなければいけないことがある。
一度大きく息を吸ったクラリスは、精一杯の笑顔を浮かべた。
「私を心配してくださり、こうしてわざわざお越しいただき、ありがとうございます。私はこの通りすっかり回復しておりますので、大丈夫です。ですからどうか、もうご自分を責めないでください。もう私に縛られることなく、ご自分を解放なさってください」
右頬の傷も大丈夫だと示すように指先で軽く叩きながら、クラリスはどうにか言い切った。
傷は白粉と髪型でかなり誤魔化せるようになっている。
泣くこともなく笑顔のままでいられる自分に満足して、クラリスは握った手を離そうとした。
しかし、その手をパトリスに強く握り返されてしまう。
「……公爵様?」
「パトリスと呼んでくれ。私にその資格がもうないのはわかっている。だが私はこの手をまだ離したくない」
「こ、パトリス、どうして……?」
予想していた反応とあまりに違い、クラリスは戸惑った。
それでも、望まれた通りに名前で呼んで問いかける。
こんなふうに触れられたのは初めてなのだ。
「――三年前、世情は不安定で戦続きだった私は、かなり心が荒んでいた。仲間といても心休まる時がなく、息苦しくてあの日は隊から抜け出したんだ。そしてここでクリスと出会った。それからは、一人になりたかったはずなのに、いつの間にか時間があればここに向かっていた。クリスと――あなたと話をしたくて」
「そ、そんなふうには見えませんでした。いつも、私は邪魔をしてばかりだと……。それでも、楽しくて遠慮することもできずに……」
「本当は私も楽しかったんだ。会話が楽しいと感じたのは初めてだった。それに、あのように小枝を振り回すなど、兄上たちと遊んだ子供の頃のようだった」
再び微笑んだパトリスは昔を懐かしんでいるようで、幼く見えてどこか頼りない。
クラリスは思わずパトリスの手を強く握った。
「パトリス、私はあなたに、もうここに来てはいけないと、会えないと告げられて、ようやくあなたが好きだと自覚しました。そして、このまま男としては生きられないとも痛感しました。もちろん、この気持ちが報われるとは思ってもいませんでしたけど……ただ一度だけ、女としてあなたに会いたかったんです。私がクリスだと打ち明けて、驚かせたかった。贅沢を言えば……綺麗になったと言ってほしかったんです。それであの舞踏会の夜、あなたを驚かそうとして……愚かなことをしました。そのせいであなたにはどれだけ迷惑をかけたか――」
「そうではない。あの夜、愚かだったのは私だ。そして、それからの日々も。結婚すればそれで義務は果たせると思っていた。あなたからの手紙もただの駆け引きで本気だとは思わず、下世話な噂も披露宴の時に兄から教えられて初めて知ったんだ。それで私は混乱し、とにかく噂から遠ざけるために領地にやればいいと考えた。これで全て解決するはずだと」
「そのような……」
今明かされた事実にクラリスは驚き、言葉を失った。
クラリスという邪魔者を遠ざけるために、あの辺境の領地へ追いやられたとばかり思っていたのだ。
しかし、あれはパトリスなりの心遣いだったらしい。
確かに、あのまま王都に留まっていれば、社交の場には出なくてはならず、悪意にさらされ続けただろう。
「あなたは今までずっと理不尽な仕打ちに挫けることなく、立ち向かい戦ってきた。私はあなたの強さに感服し、尊敬している。だがそんなあなたを傷つけたのは、賊でもサモンドでもなく、私だ。再会してからずっと、私はあなたを傷つけていた。だから、あなたを自由にしなければならないと思った。今さらやり直すにはもう遅いと」
「パトリス……」
「私はあなたが相手だと、こんなにも言葉を紡ぐことができる。良いことも、悪いことまでも。だからあなたと別れて一人になった時、自分の人生がどれだけ寂しく虚しいものかを思い知らされた」
正直に自分の気持ちを打ち明けたクラリスに対して、パトリスもまたはっきりと自分の気持ちを語った。
そして傍に落ちていた枝を拾うと、クラリスに差し出す。
「クラリス、今さら虫がいいのはわかっている。だがこのまま何もせずに後悔はしたくはない。だからどうか……また友人になれないだろうか?」
クラリスは間抜けにもぽかんと口を開けて、枯れ枝とパトリスを交互に見た。
だがやがておかしくなってくる。
差し出されたのは花でも宝石でもなく、さらには「友人になりたい」などと、実にパトリスらしい。
本来ならもう縁を切るべきなのだろう。
だがクラリスもまた、二度と後悔をしたくなくて、枯れ枝を手に取った。
「条件があります」
「……条件?」
「はい。あの日のように私と勝負をしてください。もちろんパトリスは……これで」
クラリスは受け取った枯れ枝の半分にも満たない小枝を拾って見せた。
パトリスは軽く片眉を上げたが反論はなかったので、そのまま続ける。
「パトリスが勝ったら友人として始めましょう。ですが、もし私が勝ったら……」
「クラリスが勝てば?」
つい条件など上げてしまったが、いざとなるとためらってしまった。
そんなクラリスをパトリスは優しく促す。
「その……もうすぐ催される伯父の祝賀会で、私をエスコートしてください!」
自分でも愚かだと思う。
それでも一度だけ、三年前から抱いていた夢を実現させたかったのだ。
クラリスが勢いよく告げると、パトリスは一瞬驚いたようだったが、すぐに冷静さを取り戻したのか、真剣な表情で頷いた。
「わかった。条件を飲もう」
パトリスが承諾するのは当然だろう。
過去に一度も勝てたことがなければ、今も勝てるはずがないのだから。
実力差ははっきりしており、今のクラリスの服装を抜きにしても最初から勝負は見えていた。
ただ、最後の悪あがきをしたかったのだ。
「いきます!」
「ああ」
パトリスが小枝を受け取ると、クラリスは構え、打ちかかる。
だが何度か打ち合いを繰り返してクラリスの枝は弾き飛ばされ、勝敗は予想通り簡単に決まった。
それでもクラリスはとても清々しい気持ちで微笑んだ。
パトリスもまた微笑み、手を差し出してくれる。
その大きな手を取り、しっかり握手したクラリスは、新しい友人を連れてクインの許へと戻ったのだった。




