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社交シーズンはすでに終わっていたが、だからこそ王都へと戻ってきたクラリスの噂はあちらこちらで交わされることになった。
王都に残っていた貴族たちから領地へ戻っている者たちへ、驚くような速さで伝わっていく。
しかも、クラリスが公爵邸ではなく、実家であるボナフェ伯爵邸に滞在していることが悪い憶測を呼んだ。
しかし、王都滞在から三日後、驚くことにパトリスが伯爵邸を訪れ、それからも足繁く伯爵邸へと通っていることが広まると、皆はいったいどうなっているのかと首を傾げた。
その疑問を解消したのは王妃の侍女で、彼女が王妃から聞いた話として伝えられたのは、クラリスは王家専属の医師から怪我の治療を受けるために王都に戻ってきたのだと。
確かにパトリスは、少なくとも三日に一度は医師を連れて伯爵邸を訪れており、どうやら気兼ねなく療養するためにもクラリスは実家に滞在しているらしいと、新たな噂が流れ始めた。
だがそれは、あくまでも噂でのこと。
実際のところ、パトリスはクラリスに一度も会えないでいた。
応対するのはいつも母のジルダで、医師がクラリスを診察している間、パトリスはただ黙って応接間で待っているのだ。
その後、二人が帰っていく姿を、クラリスはカーテンの陰からこっそり覗いていた。
領館にいた時の謎訪問といい、クラリスにはパトリスが何を考えているのかさっぱりわからないままだった。
そして医師を連れてのパトリスの訪問も四回目を終え、二人が帰っていくと、ジルダがクラリスの部屋へとやってきた。
「クラリス、閣下はあなたのことをとても心配なさっているわ。お会いするくらいはしても……」
「公爵様は罪悪感を抱えていらっしゃるのよ。それで夫としての義務を果たしてくださっているんだわ。今日、お医者様も怪我はすっかり治ったとおっしゃってくださったの。だから、公爵様のご負担を少しでも軽くするためにも、近々カリエールへ発ちたいわ」
微笑んで言う娘の顔をジルダはじっと見つめた。
それからそっと問いかける。
「本当に、あなたはそれでいいの?」
「いいも悪いも……。公爵様には先日、離縁してほしい旨の手紙をお渡ししたもの。それについては、何もおっしゃっていなかった?」
そう問われて、ジルダは返答に窮した。
確かにクラリスから離縁をお願いしたと聞いてはいたが、パトリスがそのことについて口にすることは一度もなかったのだ。
もちろんジルダから切り出すことができるわけがなく、パトリスの考えがさっぱり読めずに戸惑うばかりである。
ただ、ここのところ顔を合せるパトリスはほとんど何も話さないが、ジルダに対しては礼儀正しく、噂に聞く〝女嫌い〟とは、少々違って思えた。
本当に心からクラリスを心配しているようでいて、それを口に出せないでいるだけではないか、要するにかなり不器用なだけではないかと。
だからといって、パトリスの仕打ちを許せるわけではない。
それでも全ての疑問を解決するには、やはり二人に話し合いが必要なのだ。
しかし、クラリスはパトリスに対してすっかり心を閉ざしてしまっている。
「……明後日、また閣下はいらっしゃるそうだから……それとなくお伺いしてみるわ」
「ありがとう、お母様」
クラリスはジルダの頬にキスをしてお礼を言うと、他愛のない話を始めた。
それからクラリスの部屋を出たジルダは、あの無口なパトリスにどう話を切り出すかを考え、頭を悩めたのだった。
そして翌々日。
パトリスと医師の到着を、クラリスは馬車が止まった音で知った。
もうしばらくすると、エネが医師を部屋へと通すだろう。
クラリスは頬の当て布に触れ、ため息を吐いた。
本当はもうこんな布も必要ない。
医師の診察も必要ないのだ。
だがそれも、今日で終わりになる。
きっと母のジルダなら、離縁について上手く話を導いてくれるはずだ。
そうすれば、パトリスも罪悪感から解放され、クラリスから自由になれる。
クラリスの心はまだ未練たらしく痛むけれど、いつか体の傷と同じように癒えるだろう。
失望か安堵かわからない吐息を漏らしたところで、部屋にノックの音が響き、クラリスは笑顔を張り付けて医師を迎えた。
「――ふむ。もうご存知でしょうが、怪我もよくなっておりますな。傷痕も時間の経過とともに薄くなるでしょう」
「はい。本当はこのように往診していただく必要もありませんでしたのに、今までありがとうございました」
「いやいや、私はこうして公爵閣下の奥様にお会いできて嬉しく思っておりますよ。まさか閣下が――パトリス様がご結婚なされるとは思ってもおりませんでしたのでな」
「それは……」
「ああ、これは嫌味でも何でもありませんぞ。パトリス様は幼い頃のご経験のせいか、女性に対してかなり偏った見方をされるようになっておりました。ですが、奥様にこうしてお会いできたことで、このご結婚もなるほどと納得できたのですよ」
クラリスはこの人の好い老医師を失望させたくなくて、曖昧に微笑むことしかできなかった。
しかし、医師は全てを見透かしたかのように温かく微笑み返す。
「私が王城の専属医師となってもう何十年になりますかな……。そしてパトリス様に初めてお会いしたのは二十年ほど前になります。あの時のパトリス様はそれはもう酷い状態でした」
「……酷い状態?」
「ええ。これからお話することは、私以外にはもうフェリクス国王陛下とリュシアン王弟殿下しかご存知ないことです」
「でしたら私が伺うわけには――」
「ああ、いや。もう一人おりましたな。今はパトリス様のお屋敷で執事をしているシルヴェスです」
「シルヴェスが?」
「はい。彼の勇気がパトリス様を救ったのですよ」
パトリスにとってとても大切な話を自分が聞くわけにはいかないと遠慮しかけたクラリスだったが、医師は気にせずに続けた。
クラリスも結局は気になって聞いてしまっていた。
「私は王城の一室を賜っているのですが、二十年ほど前のある夜、誰かが部屋の扉をノックする音で目が覚めたのですよ。こんな夜更けにいったい誰がと――王族の方々に何かがあればもっと騒がしくなっているはずですからね。警戒しながらも扉を開けてみれば、まだ年若い従僕が何か布に包まれた荷物を抱えて立っていた。てっきり私は怪我をした犬でも連れてきたのかと思いましたよ」
「まさか……」
本当はもうその荷物の正体はわかっていた。
それでもクラリスは信じられずに呟いていた。
医師はそんなクラリスの心情を理解したように頷く。
「私も布に包まれているのが人間だとは思いもしませんでした。しかも、それがまさか五歳の子供だとはね」
「五歳……?」
「はい。もうお察しだとは存じますが、従僕が抱えていたのはパトリス様でした。しかし、そのお体はやせ細り、とてもそのご年齢には見えないどころか、お体のいたる所に鞭で打たれた傷があり、一部は化膿しておりました。さらにはいくつかの火傷の痕もみられた。そして、その時のパトリス様は危険な状態でした」
はっと息を呑んだクラリスの顔はすっかり青ざめていた。
幼い頃のパトリスがそれほどの目に遭っていたのなら、もう相手は限られている。
それでもまだ、まさかという思いから、縋るように医師を見つめた。
だが残念ながら、医師はクラリスから目を逸らし、一度深く息を吐いた。
「陛下にはもうすでに正妃様との間に、フェリクス様という素晴らしいお世継ぎがいらっしゃった。またリュシアン殿下も幼いながらに、すでにその才能を開花させ、さらには明るいお人柄で皆を惹きつけていらっしゃった。パトリス様は……ほとんど忘れられた存在だったのです。誰も三番目の王子殿下を気になされなかった。国王陛下でさえ……。パトリス様のお母君はとてもお美しい方でしたが、気性の激しい方でした。ご自分のお立場を――三番目というお立場を受け入れられなかったのかもしれません。その怒りがひょっとしてパトリス様へと向かわれたのか……。あの方の宮では陛下以外に誰も意見を述べることは許されなかったようです。それでも従僕は――シルヴェスはあの方の勘気を被る覚悟で、私の許にパトリス様をお連れしたのですよ」
今のパトリスがあるのだから、どうにか助かったことはわかっているが、クラリスは安堵せずにはいられなかった。
さらにはシルヴェスの勇気に感謝もした。
シルヴェスがいなかったらと想像するだけで恐ろしい。
「私は直ちにパトリス様の治療を開始するとともに、今後についても考えました。怪我が酷く、体力もない発育不良の王子殿下をお救いするためにはどうするべきか。また勇気ある若い従僕も守るべきだと。そして、当時ご存命だった王太后陛下にご相談したのです。王太后陛下は近くにある離宮にお住まいでいらっしゃいましたから、内密ではありましたがすぐにパトリス様の許へいらっしゃると全てを解決してくださった。パトリス様だけでなく、シルヴェスをも王太后陛下の離宮へとお連れくださったのです。そこでパトリス様は療養なされ、やがてお体は回復されましたが、お声を発するようになるまでは時間がかかりました。お二人の兄君と過ごされることで、徐々に子供らしさを取り戻されたのですよ」
クラリスは泣きそうになるのを必死に堪えていた。
少なくとも自分は父から冷たく厳しくされはしたが、母をはじめとした伯父や姉、使用人たちからはたくさんの愛情をもらって育つことができたのだ。
しかし、父が傍にいた時はできるだけ気付かれないように、目に留まらないようにひっそりとしていたことを思い出す。
五歳までのパトリスがどのように過ごしてきたのかはっきりわかるわけではなかったが、想像するには難くなかった。
「私……先生にこうしてお話を伺うことができて、よかったと思います。私は自分のことばかりで、公爵様の――パトリス様について知ろうとは少しもしていませんでした。ただ自分の見たいものだけを見て……」
それ以上は喉が詰まったようで言葉にすることができなかった。
医師はクラリスの様子に気付いて励ますように軽く手の甲を叩くと立ち上がった。
「またお会いできることを楽しみにしておりますよ。もちろん、次の機会は私の診察を必要としない形でですがね」
「――ありがとうございました、先生」
部屋から出ていく医師を立ち上がって見送ったクラリスは、新たな決意をしていた。
もう一度、最後になってもいいからきちんとパトリスと話をしようと。
医師が出ていってから時間を置かずに入ってきた母に、今日はパトリスと会いたいと告げようとした。
だが、母はいつものようにパトリスと会うかどうかを訊ねることはなく、一枚の紙と封書を差し出す。
訝りながら受け取ったクラリスは、はっと息を呑んだ。
「閣下から渡されたの。あなたの署名が必要なんですって」
「私の……」
「ねえ、クラリス。本当にいいの? その手紙を今すぐ読んでみたら?」
心配そうに問いかける母に、クラリスは心とは裏腹に微笑んで首を横に振った。
今のパトリスを拒んだのはクラリスだ。
パトリスは遅くはあったが、どうにかクラリスに歩み寄ろうと、不器用ながらも努力してくれていたのだ。
きっとそれがあの謎訪問なのだろう。
また、この訪問はクラリスの名誉のため。
一緒に王都まで帰ってきてくれたパトリスに一度も会うこともせず、クラリスは頑なに自分の殻にこもっていた。
手紙を読むまでもない。
気付くのが遅かった。もう全てが遅いのだ。
「これで……やっと、解放されるわ……」
自分という重荷から、パトリスは自由になれる。
そしてクラリスにとっては、初恋が終わる。
クラリスは小さく呟きながら、母から渡された離縁状へ署名をしたのだった。




