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あの運命の日から十一年後。
ジルダは元気よく剣の鍛錬に励む息子のクリス――ではなく、娘のクラリスを窓から眺めながら、ため息を吐いた。
「なんて元気なの……。早く死ねばいいのに」
「奥様! なんてことをおっしゃるのですか!」
ジルダの言葉を聞きとめてしまった乳母のネリーが、普段は優しい顔を厳しくして窘める。
そんなネリーをちらりと見て、ジルダはまたため息を吐いた。
「だって、旦那様はもう六十一歳になられたのよ? それなのにいまだピンピンしていらっしゃるなんて……。そのくせあっちのほうはさっぱり。これじゃ、息子どころか次の娘もできないじゃない」
「奥様!」
「いつになったら、あの子を娘として飾り立てることができるの? もう十一歳よ。男の子と偽るのも限界だわ。今に初潮がきて、胸だって膨らんでくるのよ。旦那様はあの子の剣の腕にほれ込んで、騎士団に入れるべきかもとかってボケたことをおっしゃっているわ。どこの誰が、大切な娘を――いえ、息子だったとしても跡取り息子を騎士団に入団させるというの? ここのところ、サクリネ国との情勢だって不安定だというのに……」
今にも泣きそうになったジルダに、ネリーはそっと近づき慰めようとした。
が、本来図太いジルダである。
すぐに顔を上げ、ぐっと拳を握り締めた。
「いっそのこと、あの子に仮病を使ってもらって療養にと私の実家に戻すべきかしら」
「……仮病とおっしゃいましても、クリス様はあのように溌溂としていらっしゃって、どこからどう見ても、お元気でいらっしゃいますからねえ……」
「そうよねえ……。いったい、どうすれば……。ああ、ダメ。考えすぎて気分が悪くなってきたわ」
「まあ! 奥様がご気分が悪いなどと、天変地異の前触れです。どうかすぐに横になってくださいませ」
「ネリー、あなたねえ……」
気安い関係の乳母であるネリーを睨みつけながらも、普段は病気一つしない元気なジルダは本当に気分が悪く横になることにした。
そしてほうっと息と吐く。
あの時は生まれたばかりの娘を守るために必死だった。
伯爵は娘ばかりが四人続けて生まれ、それから十年以上も懐妊の兆しのなかった前妻を追い出すも同然に離縁し、目障りだと言わんばかりに娘の嫁ぎ先を決めてしまっていたのだ。
あの恐ろしい宣言の時も、目が血走っており、ジルダは「このおっさん、マジでやるつもりだわ」と思ったものだった。
それから十一年、愛しの我が子の秘密を守るため、クリスの周りは秘密を知る者だけでがっちりと固めており、今のところ本人自身でさえ女の子であることを忘れてしまっているのではないかと思えるほど元気に育っていた。
あれだけ待ち望んでいた息子を得た伯爵も、子育ては女のものと決めており、生まれた我が子を抱いたのは初めて対面した時のみ。
その時はおむつでしっかりガードしており、露見することもなかった。
協力者はあの時居合わせた四人の他に、乳母ネリーの娘でクリスの乳母を務めてくれているエネとエネの娘のアミラ。
さらにはジルダの実家の全面的協力を得て、三番目の兄・ロランドが教育係として、一番下の弟でクリスの二つ年上なだけのミカエルが遊び相手として付き添ってくれている。
上手くいくと思っていた。
早く次の子を産めば、いつかは男児が生まれて全てが丸く収まるだろうと。
それなのに、ジルダはちっとも妊娠しなかった。
そもそも五十歳を過ぎた夫にこれ以上の子を求めるのも無理なのだろうが、頑張ってもらわなければならない。
ジルダにとっては苦痛以外の何ものでもないのだが、我が子の将来がかかっているのだ。
しかし、無駄な年月が過ぎ、夫は六十一歳になりジルダも三十歳になろうとしている今、もう赤子は望めないだろう。
とすれば、あとは夫が亡くなってくれることを願うしかなかった。
冷たいと言われようがなんだろうが、所詮は政略結婚。
それもかなり強引なものだったのだから、ジルダに夫への愛情が湧くわけもなく、ただ貞淑な妻を演じているにすぎなかった。
もちろん、浮気などはしていない。
それはジルダの主義に反するし、魅力的だと思える男性もいないのだから。
エネに言わせれば、ジルダの兄弟がかっこよすぎて、目が肥えているのだということだが、ジルダは信じていない。
(クリスは――クラリスは私に似て美人なのに……)
今は馬を走らせ、剣の稽古に励む日々のクリスの色白の肌にはそばかすがいっぱい浮いている。
もう少しすれば女らしく肉づいてくるだろうに、筋肉ばかりがついてきており、どこからどう見ても元気な男の子だった。
伯爵はその姿を厳めしい顔で眺め、もっと勉学に励めと冷たく命令しているのだ。
あれだけ乗馬にも剣技にも長け、領地経営の勉強だってさぼることなくしっかりしているというのに、何が不満だというのか。
ジルダは怒りのあまり眩暈だけでなく、吐き気までこみ上げてきていた。
そしてそれから八ヶ月後、驚くことにジルダは元気な男児を出産した。
これがクリスの運命を大きく変えることになるのだった。