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「クラリス! 怪我をしたと聞いたけど、大丈夫なの!?」

「お母様……」


 王都にあるボナフェ伯爵邸の前で馬車を降りたクラリスは、待ち構えていた母に迎えられた。

 母の顔を見た瞬間、クラリスはつい公爵夫人としての立場も忘れて子供のようにその胸に飛び込んだ。とはいっても、すでに背は母を追い越している。

 母ジルダは一度クラリスをぎゅっと抱きしめると、そっと離れて淑女らしい礼をとった。


「閣下、大変失礼いたしました。ここまで娘をお送りいただき、まことに感謝しております。長旅でお疲れでしょう? ご休憩の用意もできておりますので、どうぞお入りになってくださいませ」

「いや、……ご厚意はありがたいが、私は陛下に報告せねばならぬことがあるゆえ、このまま失礼いたします。……その、妻をよろしくお願いいたします」

「……かしこまりました、閣下。――クラリス」


 大方の事情をエネからの手紙で知っていたジルダは、パトリスに対してかなり腹を立てていた。

 だからこそ一行が到着した時にも非礼を承知で、パトリスに応対するより娘を優先したのだ。


 だが、今のパトリスの言葉は今までの噂からは信じられないものだった。

 しかもずっと俯いたままのクラリスへちらりと向けた灰色の瞳は、はっきりと心配に滲んでいる。

 ジルダはクラリスにも挨拶するようにと促した。

 お転婆な娘ではあったが、礼儀を失するようなことはなかったのに、それがこのふた月足らずで、クラリスはすっかり変わってしまっている。


「……公爵様、今まで、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。どうかこの先も公爵様の下に勝利の鷹が舞い降りますよう、ご武運をお祈りしております。ありがとうございました」


 まるで戦場に行く夫を見送るような言葉でありながら、お世話になった恩人に対する最後の別れのようで、ジルダは息を呑んだ。

 それでもクラリスは用意していたらしい少し膨らんだ封書をパトリスへと差し出す。


 パトリスはわずかに目を細めてその封書を見下ろしたが、結局は何も言わずに受け取った。

 そして踵を返して騎乗すると、そのまま去っていく。

 その間、クラリスは一度もパトリスを見ることはなかった。


「……クラリス、疲れたでしょう? さあ、屋敷に入りましょう」

「ごめんなさい、お母様」

「馬鹿ね。何を謝ることがあるの」


 すっかり痩せてしまった娘の肩をそっと抱き寄せ、怪我に障らないようにジルダはゆっくりと屋敷の中へと入っていった。

 そのまま居間へと向かうことはなく、クラリスが独身時代に使っていた部屋へと導く。


「とにかく今は休みなさい。それから、もし話したいことがあるのなら、いつでも、いくらでも聞くわ」

「ええ、ありがとう」


 部屋にはすでに湯の用意もしてあり、エネとアミラがクラリスを浴室へと連れていった。

 二人がいなくても、馴染みの使用人がクラリスの荷物をてきぱきと片づけていく。

 その様子を監督するでもなく、静かに見守っていたジルダはかすかに眉を寄せた。


 公爵夫人の旅としては、驚くほど少ない荷物。

 しかも衣裳部屋へと仕舞われていくドレスは、クラリスが娘時代に好んで着ていたものばかりで、この度の結婚で揃えたものは一着も見当たらない。

 ジルダは後悔に歯噛みした。


 別にドレスなどが惜しいわけではない。

 この結婚を許してしまった自分に腹が立って仕方なかった。

 やがて浴室から出てきたクラリスは、昼用の簡単なドレスを着ていた。

 その姿を目にしたジルダに笑って見せる。


「お母様、まだ寝るのには早いわよ。馬車の中で少しうとうとしたし、それほど疲れてはいないの。でも旅の埃を落とせてさっぱりしたわ」

「そうなの? それなら少し話をする? それとも一人でゆっくりしたい?」

「話がしたいわ。テメオや領地のみんなの話も聞きたいし。きっとテメオは私がお母様に甘えてばかりだから、怒っているんじゃないかしら?」

「あら、そんなことないわよ。うるさい母親がいなくてのびのびしているんじゃないかしら? 今頃は甘やかしてばかりの家庭教師と遊んでいるわよ」

「ロランド伯父様ね?」


 自分の家庭教師もしてくれていた母の三番目の兄であるロランド伯父のことを思い出し、クラリスはくすくす笑った。

 心配性で過保護だった母とは違い、ロランドはクラリスをかなり自由にさせてくれていたのだ。


 今ならあの時の母の過保護ぶりも理解できる。

 やっぱり帰ってきて正解だった。

 旅の埃を落とすために湯に浸かり、懐かしい伯爵邸にいるだけでこんなにも気持ちが明るくなれる。


 何より母とこうして少し話をするだけで、今まで心に溜まっていた澱が消えていくようだった。

 久しぶりの母娘二人の再会を邪魔しないように、お茶を用意してくれた後は、エネたちは姿を消している。

 しばらくはテメオが最近した悪戯の話を聞いたりして笑っていたクラリスだが、しばらくして話が途切れたところで、小さく息を吸って切り出した。


「お母様、私ね……公爵様に離縁していただくよう、あの手紙でお願いしたの」

「そう……」

「驚かないの? 反対したりは?」

「あら、クラリスは反対してほしいの?」

「いいえ、そういうわけじゃないけど……」

「あなたにはいつも驚かされてばかりだもの。今さら、これくらいで驚いたりしないわよ」

「公爵様と離縁することが、これくらい?」


 きっと普通の母親なら卒倒するような内容だろう。

 だがジルダは悪戯っぽく笑うだけ。

 その笑顔につられて、クラリスも笑った。


「私が反対するべきだったのはね、この結婚そのものよ。あなたが苦労するのは目に見えてわかっていたのに、何もできなかったわ……」

「まさか! 結婚したいって言ったのは私よ。お母様は何も悪くない。本当に、苦労ばかりかけて、ごめんなさい。私が女として生まれてこなければ――」

「クラリス!」


 それ以上を母は言わせなかった。

 厳しく遮ったものの、席を立ってクラリスの隣に座るとぎゅっと抱きしめる。


「あなたには余計な苦労をたくさんかけたわ。だから、こんなことを言うのはずうずうしいかもしれない。でも、私はあなたが娘で嬉しいの。あなたを誇りに思っているわ」

「お母様……」

「あなたが公爵様と離縁したいなら、そうなさい。まさか公爵様も今さら反対はなさらないでしょう。陛下のお許しは必要かもしれないけれど、きっと陛下もわかってくださるわ」

「この醜聞がテメオの縁談に響かなければいいんだけど……」

「馬鹿なことを言わないで、クラリス。テメオはまだ七歳よ。あの子が結婚だなんて……」


 ジルダは噴き出し、それからクラリスの怪我をしている頬にそっと触れた。


「本当につらかったでしょう? でもあなたは十分に頑張ったわ。だからもう頑張らなくていいの。ゆっくりしなさい。そして好きなように生きなさい」

「……カリエールの伯父様は迷惑に思わないかしら?」

「迷惑どころか、もう今からあなたが来るのを待ち構えているわよ。むしろ自分がここまで迎えに来ると言ってきかないんだから。お義姉様が必死に止めているのよ」


 やれやれといった調子のジルダの言葉に、クラリスは今度は声を出して笑った。

 もう笑っても頬は痛まないほどに回復している。

 本当は当て布などいらないのだ。

 これから先、クラリスは誰の目を気にすることなく生きていける。

 その場所に帰ることができるのだと思うと嬉しくて、一抹の寂しさを心の奥に押し込めた。




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