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 少しずつ部屋の中で歩く練習を始めたクラリスは、十日が過ぎた頃にはすっかり痛みも軽くなり、不自由しない程度には動けるようになっていた。

 クラリスが寝室から出られるようになった五日前には、パトリスが午前中に部屋に訪ねてきた。


 何を言われるのかと身構えていたクラリスだが、パトリスが告げたのは、これから領地の視察に行ってくるとだけ。

 わけがわからなかったクラリスだが、次の日もその次の日も、パトリスは毎朝やって来てはその日の予定を告げていく。


 昨日は騎士五人を伴い、それぞれを紹介してくれた。――というより、騎士自身が名乗ってくれた。

 パトリスがこの城に滞在してもう二十日近くになる。

 いったいいつ軍に戻るのだろうかと思いながらも、午前中の儀式めいた訪問は続いた。


 以前、パトリスが面会時に謝罪したように、おそらくクラリスの怪我に罪悪感を抱いているのだろう。

 そう思うと、早く怪我を治さなくてはと、クラリスは動く練習に精を出した。


 セルジュはもうすでに厩舎で仕事を再開したと聞く。

 自分も甘えてはいられないとパトリスが城を出ている間に、クラリスは城内をゆっくりと歩いた。

 そこで気付いたことがある。

 使用人たちとあまり出会うことがないのだ。


 もちろん、ハットン夫人の家事室付近にいけば使用人はいるが、城の主棟などでは騎士以外に鉢合わせしない。

 本来、使用人とはそういうもので、上級使用人以外を身分の高い者が目にすることはないのだが、ここでは反抗的な男性使用人がよくうろうろしていた。


「ええ、お気付きになりましたか? 実は、閣下の秘書官であるケイン・フィニヨン様が使用人一人一人と――洗濯女とまでお会いしてくださり、この城で働く上での不満点などをお聞きくださったのですよ。それでどうやら、あの問題児たちは罰を受けることになったんです」

「解雇されたの?」


 部屋に戻り、疑問に思ったことをエネに伝えると、予想外の答えが返ってきた。

 付き添ってくれていたアミラは、別の用事で席を外している。


「いいえ、そうではないようです。私も初めはそのように考えたのですがね。さすがに職を失うのは気の毒だという……名目で彼らは兵卒として国境警備に送られたと、ハットン夫人から聞きました。どうやらそこで、性根を叩き直すとかどうとか。いいことですよ」

「兵卒……」


 パトリスがついに動いてくれたのだと思うと嬉しかった。

 最近、メイドたちの表情が明るかったのもこのせいだろう。

 あの男性使用人たちは、女性使用人に対して性的な嫌がらせをしている者も少なくないと聞いていた。


 そのことについてサモンドに訴えたこともあるが、公爵夫人が使用人風情の痴情のもつれに口を出すなど下世話だと、取り合ってくれなかったのだ。

 それがようやく動いてくれたと聞いてクラリスは嬉しくなったが、すぐに自戒した。


(期待してはダメ。パトリスは主として、当然のことをしただけなんだから……)


 怪我はずいぶんよくなった。

 顔の傷も一応は当て布をしているが、本当なら軽く薬を塗る程度でいいくらいには回復している。

 だから早く、馬車での移動に耐えられるほどの体力をつけて、この城を出て行こう。


 心配していた使用人たちのことも、もう大丈夫だろう。

 そんな考えに囚われていたクラリスは、サモンドについてのことはすっかり頭から抜け落ちていた。

 それはさらに十日後、エネから知らされることになった。


「サモンドが解雇された?」

「はい。公爵様が色々とお調べになって……職務怠慢が過ぎると……」


 今回のならず者たちのことに関して、領内に入ってきたらしいとの領民からの報告をサモンドはもみ消し、さらにはクラリスが城壁を出て散策に行くことを知っていたのに警告さえしなかったのだ。

 その証拠がようやく見つかったことによって、サモンドは収監され、近々裁きを受けることになる。

 ただエネはそのことは伝えず、話題を変えた。


「それよりもクラリス様、もうすぐカリエールへお戻りになることができるんですよ!」

「カリエールへ帰れるの?」

「さようでございます。閣下がお許しくださったのですよ」


 カリエールへ帰れると聞いたクラリスは顔を輝かせた。

 だが、パトリスの名前を聞いただけで、途端に表情が曇る。


「公爵様は、いつ離縁してくださるのかしら?」

「はい?」

「ううん、何でもないわ」


 クラリスはエネに笑って答えながら、ふと疑問が浮かんだ。

 エネはクラリスを心配そうにまだ見ている。


「ねえ、なぜ実家であるボナフェ伯爵家でなく、カリエール家なの?」

「それは……クラリス様が寝込んでおられる時に、うわ言のようにおっしゃっていたので……勝手ながら私が閣下にお願い申し上げたのです」

「エネが? ……大丈夫だったの?」

「はい。無礼を承知ではございましたが、閣下はお怒りになることもなく、受け入れてくださいました。それから色々と調整をなさってくださったようです」

「そう……」


 がっかりするなど間違っているが、やはりクラリスはがっかりせずにはいられなかった。

 一瞬、パトリスがカリエールでのことを――ビバリーの森でのことを気付いてくれ、そして配慮してくれたのかと期待したのだ。

 そんなに都合のいい夢物語などあるはずはないのに。


(本当に、私って学習能力がないわね……)


 そう考えて最近の癖になってしまった頬の傷に触れようとして、慌てて手を離す。

 もう気にしてはいけないのだ。

 そこに耳を疑うような話が聞こえ、思わず訊き返した。


「エネ、もう一度言ってくれない? 公爵様が何ですって?」

「ですから、閣下は……王都まではクラリス様とご一緒なされるおつもりのようだと……」

「まさか私は、あの公爵邸に滞在しなければいけないの?」

「いいえ! もちろん伯爵邸でございます」

「そう……。ありがとう、エネ」

「いいえ、私は何も――」

「ううん。エネもアミラも、私のためにたくさんのことをしてくれているわ。本当にありがとう」


 穏やかな口調でお礼を言うと、クラリスは疲れたように枕に頭をつけた。

 多少の遠回りにはなるが、一度王都で休んでからカリエールへ向かったほうがいいのは確かだ。

 国を横断する形になるのだから。

 ただ今回は王都までとはいえ、パトリスが同行するらしいことが気になった。


(でもきっと、何か陛下に報告をしなければいけないことがあるのかもしれないわね。あのならず者のこととか……)


 嫌なことを思い出し、つい顔をしかめて傷がひきつれ、慌てて表情を戻す。

 ここで働いている者たちには申し訳ないが、クラリスにとってはこの城での出来事はつらいことばかりだった。


「公爵様はいつお発ちになるおつもりかしら?」

「クラリス様のお体が旅に耐えられるほどに回復なされたらと、おっしゃっておりました」

「では、明日でも大丈夫よ」

「クラリス様、それはさすがに……」

「冗談よ。でも、本当に大丈夫なの。だからできるだけ早く発ちたいわ」


 くすくす笑いながらもクラリスの言葉は本音だった。

 エネもそれはわかっているようで、わざとらしく呆れてみせる。


「それでは、フィニヨン様にその旨をお伝えしてまいります」

「待って、エネ。あの……心配はいらないと思うけど、今は誰にも会いたくないの。だから……」

「かしこまりました」


 クラリスの言葉はパトリスにも会いたくないということだった。

 その気持ちを汲んで、立ち上がったエネは大きく頷き部屋から出ていく。

 クラリスは部屋に一人になると、深く息を吐き出した。


 三年前の自分はパトリスに恋をして、女性になりたいと思ったのだ。

 だが、実際は女性として生きることはちっとも楽しいものではなかった。

 非力で自由もなく、男性に――夫に従わされて生きている。


 前ボナフェ伯爵を父にもったクラリスは、男性とは横暴で身勝手なものだと思っていた。

 しかし、カリエールの伯父をはじめとして、ミカエルたちに囲まれて過ごした三年間でその考えも変わり、全ての男性がそうではないと思うようになっていた。

 そして、パトリスもきっと素敵な男性なのだろうと夢見てしまったのだ。

 この三年間は、両殿下の武勇伝と国王夫妻のロマンスが国中の女性たちの心を掴んでいたのだから。


 この先はカリエールで伯父たちに甘えよう。

 それから心に余裕ができたら、自領地に引っ込んで自由に暮らせばいい。

 将来テメオが結婚した時には、変わり者の伯母として甥や姪を可愛がろう。

 あの母に育てられるのだから、テメオはきっとカリエールの男性たちのように、信頼に値する人物になるはずだ。


 王都まではパトリスも同行するらしいが、馬車に同乗するわけではないだろうし、今まで通り無視されるだろうからいないものと考えればいい。

 この城にいい思い出はないが、それでもハットン夫人をはじめとした心優しい使用人たちとの別れは惜しかった。

 それでも、もう大丈夫だろう。


 新しい家令は近いうちに到着するだろうし、問題が起こればハットン夫人もパトリスへと訴えることが許されたのだから。

 そうしてこの日から四日後、クラリスは朝の不思議な日課以外にはパトリスと会話することもなく、城を発つことになった。




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