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クラリスの意識が回復してから三日。
もちろんベッドから起き上がることはできなかったが、久しぶりに髪を洗ってもらったクラリスはほっと息を吐いて枕によりかかっていた。
アミラがゆっくりと髪を梳いて乾かしてくれている。
あの日、クラリスがセルジュを連れて厩舎にたどり着いた時、クラリスの意識は朦朧としており、セルジュは完全に失神していたらしい。
幸いにしてセルジュは二日で意識を取り戻したが、クラリスは五日も目覚めなかったそうだ。
その間、ここ何年も平和を謳歌していた城壁の警備兵たちは右往左往し、ただ城の警備を強化しただけで、次の日に騎士を連れて戻ってきたパトリスの怒りを買うことになった。
パトリスは翌朝、近くの街の警備兵と城の警備兵を集め、通常の警備とならず者たちを追う班とに分け、騎士三人を連れて森へと捜索に入った。
また同時に奪われた馬の手配書を近隣に配ったのだ。
そしてクラリスが襲われてからたったの三日で、ならず者たちは捕縛された。
自分たちが襲ったのが、あのブレヴァル公爵夫人であったと知って、慌てて逃げようとしたらしい。
その足取りを追うのは簡単で、パトリスは捕縛したならず者たち七人を街の警備兵に託し、街ですでに縛り首にされたそうだ。
クラリスにとって、ならず者たちの行く末はバイレモ地方でもよく耳にしていたので、当然と受け止めることができたが、自分の迂闊な行動のせいでセルジュに怪我をさせたことが申し訳なかった。
しかも、デッドは二人を乗せて全力で駆けたため、怪我が悪化してしまい、今はまた一からリハビリを始めることになったらしい。
きっとパトリスは怒っているだろう。
そもそもなぜパトリスが騎士たちと城に戻ってきたのかわからないが、今回の早期解決にはそれが幸いした。
五人の騎士のうち、二人はならず者の捜索に加わらなかった。
その間、城の警備について徹底的な見直しを行ったようだ。
それをサモンドはよく思っていないらしい。
警備だけでなく、城内の使用人たちの態度に関しても口を出しているからだそうだ。
それはメイドの一人が喜々として教えてくれたことだった。
「クラリス様、いかがですか?」
「とても気持ちいいわ。体の痛みさえなければね」
アミラの問いかけに冗談で答え、クラリスは意を決して続けた。
「ねえ、アミラ。私、鏡が見たいの」
「……クラリス様、それは――」
「いいのよ。今さら隠さなくても、自分のことだもの。頬は痛むし、手で触れることもできる。だから顔に傷ができてしまったことぐらいわかっているわ」
何でもないことだというふうに言って、クラリスはアミラに視線を向けた。
本当は笑って安心させたかったが、まだ痛くて頬を動かせない。
「ただ、どれくらいの傷かを確認したいの。大丈夫よ。ショックを受けて泣いたりなんてしないから」
「……かしこまりました」
答えたアミラは櫛を置き、寝室から出ていった。
サイドチェストにあったはずの鏡は、きっとクラリスが手にしないように移動させたのだろう。
クラリスが自覚しているだけで、怪我は五か所ある。
背中と腕に矢傷が、腰と右太ももには剣で切り付けられたものが、そして頬には矢がかすめた傷があるのだ。
あの時、抵抗せずにただデッドを駆けさせ走り逃げたなら、怪我を負うことはなかったかもしれない。
だがおそらくセルジュはクラリスを庇って命を落としただろう。
あれこれ考えても仕方ないが、ああすれば、こうすればと考えずにはいられない。
そして最後には、怒りを滲ませるパトリスの顔が思い浮かぶのだ。
そのため、何度もパトリスから面会の申し出はあるのに勇気が持てなくて、この三日間ずっと断り続けている。
クラリスがふうっと小さく息を吐きだした時、アミラがエネと一緒に戻ってきた。
「もう、二人とも心配性ね」
できるだけ明るく声をかけると、二人は一瞬顔を見合わせ、そしてエネが近づいてそっと鏡をクラリスに持たせた。
クラリスがあっさり鏡を覗き込むと、予想通り右の頬には薬が染みた薄い布が当てられており、傷口はよく見えない。
普段はここにさらに布を当て、包帯を巻いて固定しているので仰々しいが、こうして見ればそれほど大したことはないのではないかと思える。
クラリスは動く右手を頬へとやり、布を剝がそうとした。
「クラリス様!」
「大丈夫よ。それに、ちょうど薬を新しく塗る時間でしょう?」
ついでじゃないとばかりにエネの制止する声を振り切り、そっと布をめくった。
すると緑色の怪しい塗り薬の下に傷口がかすかに見えた。
それは右頬の中ほどから耳の下へと真っ直ぐに伸びている。
「やっぱり、これは残るわね」
「で、ですが傷がすっかり治れば、白粉で隠すこともできますし……」
「完全には無理よ。でも引き攣れていないだけ、よかったと思うわ。笑えばどうなるかはわからないけどね。――さ、薬を塗り替えてくれる?」
「は、はい……」
クラリスは感情を込めずにただ感想を言うと、心配するエネとアミラに指示を出した。
エネがすぐ近くに置いてある新しい薬を持ち上げ、アミラが古い薬を拭うために水盆に布を浸して絞る。
傷口はやはり痛んだが、何も言わずにされるがまま、クラリスは黙って手当てを受けた。
しかし、その内心はひどいものだった。
覚悟はしていたつもりで、思っていたよりも軽いものだったのに、やはりどうしてもショックで涙がこみ上げてくる。
以前、反抗的な男性使用人たちが集まって噂していたことを思い出す。
――夫に相手にされない公爵夫人。
見かけはいいのに相手にされないのは、やはり性格に問題があるからだろうと、大声で笑っていた。
あの時は、聞かなかったふりをして、その場を去ったが、どうしても小さな棘のようにその言葉は胸に刺さっている。
きっと、性格だけでなく見かけにまで――顔に傷ができてしまった今ではもう、パトリスは夫婦のふりをすることさえ拒否するかもしれない。
エネとアミラが体の傷にも新しく薬を塗ってくれる間、クラリスはじっと黙っていた。
「クラリス様、痛むようでしたら、すぐにおっしゃってくださいね」
「そうですよ。クラリス様はすぐに我慢なさってしまうんですから」
「ええ、わかってるわ」
体の痛みなど、心の痛みに比べれば大したことはなかった。
そしてやはり自分がどうしても希望を捨てきれていないのだと思い知らされる。
(もう……離縁を申し出てもいいわよね……)
この顔では公爵夫人として人前に出ることもできない。
形ばかりの結婚で、妻としての役目も果たせないのなら、世間もきっと納得するだろう。
皆が皆、この結婚の実態を知っているのだから。
(それに、きっぱりと縁を切れば、未練も断ち切れるかもしれない)
体は痛むが、頭はしっかり回る。言葉もはっきりと話せる。
クラリスは決意が揺らがないうちにと、二人へ声をかけた。
「もし、次に公爵様からお会いしたいとお申し出があったら、受けてくれてかまわないわ」
「まあ、クラリス様。それはようございました。閣下は大変心配なさっておいででしたから、お喜びになりますわ」
「ええ、本当に。私、閣下は冷たい方だと思っておりましたが、クラリス様を心配されるお姿を拝見して、考えを改めましたもの」
「そう……」
二人の喜びようにどう答えればいいのかわからず、クラリスは頷くことしかできなかった。
それからは少し疲れがでたのか、昼食も食べずにクラリスは眠ったのだった。




