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 翌朝早く、パトリスは騎士たちを引き連れて城を発った。

 クラリスは見送りには出たが、最近の慣習になりつつある、妻が夫に対して武運を祈るためのお守りを渡すことはしなかった。


 それはエスクーム王国との戦で、王妃レイチェルが勝利の象徴である鷹を模した刺繍の香袋に瑠璃を入れ、鷹へと託して戦場の国王フェリクスに届けたという有名な話から広まった風習である。

 特にパトリスも期待していたわけではないらしく、別れの言葉を交わすでもなく、あっさりと馬に乗り、出発してしまった。


(次は、いつ戻ってくるかの言葉もなかったわね……)


 漏れそうになるため息を呑み込んで、クラリスは一行が見えなくなるまで見送ると、城内へと入った。

 ただ近いうちに騎士は派遣してくれると言ったのだから、それだけで満足しなければ。


 昨夜、部屋へと戻ってベッドに入り、冷静に考えてみると、パトリスはかなり譲歩してくれたのではないかと思えたのだ。

 馬たちのためであっても、クラリスの訴えを認めてくれ、新しい馬丁頭を呼び寄せてくれると言ってくれた。

 王都の屋敷で馬丁頭をしているセルジュがどういう人物かはまだわからないが、パトリスがよく知っているのだから馬たちに関しては間違いはないだろう。

 騎士たちに関しては、公爵家の体面を気にして怒ったのかとあの時は思ったが、おそらくパトリスの軍人としての誇りを傷付けてしまったのだ。


 自室に戻ったクラリスは、私室にある書物机の一番上の鍵付きの抽斗を開けた。

 そこには母や義姉からの手紙が収まっている。

 その手紙をどけて、一番奥にしまっていたものを取り出した。

 不自然な形で手のひらサイズに折り畳まれたハンカチは、華やかな蔓バラの刺繍で縁どられており、クラリスが剣を針に持ち替えて懸命に練習した成果が表れている。

 ハンカチをそっと開けると、鷹を模した刺繍が施された香袋があり、中には瑠璃石が収めてあった。


 まだパトリスと再会する前。

 クラリスも世間の少女たちと同じように、おとぎ話のような国王夫妻の恋物語に憧れていた。

 そして渡す機会などないとわかっていながら三年間練習を重ね、王都に出てくる前に完成させたのだ。


 それが先ほどは絶好の機会だったのに、どうしても渡せなかった。

 騎士たちの手前、パトリスが拒むことはなかっただろうに。

 クラリスはため息を吐いて、窓際へと歩み寄り、窓を開けた。

 途端に近くにとまっていた鳥たちは驚いたのか、羽ばたいて逃げていく。


(……私には王妃様のように鳥たちも味方してくれないみたいね)


 馬鹿なことを考えて、クラリスは自嘲した。

 レイチェル王妃は吟遊詩人たちに歌われるままに女神のようで、動物たちがその美しさと優しさ、勇敢さに魅せられたと語られるのも納得してしまうほどだった。

 母国のブライトン王国でも、多くの紳士や騎士が崇拝していたらしい。


 ぼんやり窓の外を眺めていると、剣の鍛錬に励む警備兵の姿が見えた。

 そこでようやくクラリスは我に返った。

 王妃様と――誰かと自分を比べて落ち込むなど間違っている。

 自分は自分でしかないのだ。


(私は、剣と弓矢を扱えるわ)


 警備兵は以前よりも剣の鍛錬に力を入れており、騎士ももうすぐ到着する。

 きっとクラリスの特技を活かす場面はないだろうが、自分にはできると自負していればいい。

 強い意思を取り戻したクラリスは居間へと戻り、アミラに声をかけた。


「ねえ、アミラ。私の剣と弓矢を出してくれない? 手入れをしたいの」

「ですが、クラリス様はもう公爵夫人におなりですのに……」

「別に今さら振り回したりなんてしないわよ。ただ、騎士が到着するまでは用心のためにも外に出る時に剣は携帯しておこうと思って。公爵様が軍へとお戻りになったから、馬たちが心配なの」

「……かしこまりました」


 最近はこの辺りでも物騒だと教えてくれたのはアミラだ。

 そのため渋々ではあったが、アミラはクラリスの衣裳部屋の奥に仕舞い込んでいる剣と弓矢を取りに入った。

 エネはハットン夫人を手伝って、パトリスたちが去った後の片づけに追われている。


 それから昼食を終わらせ、久しぶりにクラリスが厩舎に行くと、デッドが嬉しそうに迎えてくれた。

 ペイターには何か言われるかと思ったが、どうやらこんな田舎でなく王城の厩舎で働けることが嬉しいらしく、機嫌が良かった。


 それはデッドを広めの柵の中へと放した時に、ミックから聞いたことだ。

 そのことにクラリスはほっとしつつ、嬉しそうに軽く駆けるデッドを眺めた。


「公爵様はデッドのことについて何かおっしゃっていた? 足もずいぶんよくなったようだし、また人を乗せて走れるようになるかしら……」

「はい。大人の男はまだ無理だろうと言っておりましたが、体重が軽い者なら大丈夫かもしれないと。ですが僕はまだデッドに乗れるほどの腕がないので試すことができなくて……残念です」

「そう……。確かに、体重の軽い者で慣らしていく必要はあるかもしれないわね」


 答えながらもクラリスは思案した。

 自分なら乗れるかもしれないが、王都に出てからは一度も馬に乗っていない。

 まずは他のおとなしい馬に乗って、自分自身が勘を取り戻してからデッドにお願いしてみるべきだろう。

 ただそれを、ペイターが納得するかがわからない。

 もちろん自分で鞍をつけることもできるし、強行することは可能だが、これ以上は摩擦を起こしたくなかった。


(新しい馬丁頭のセルジュが話のわかる人ならいいけど……)


 王都の屋敷には一晩しか滞在しなかったので、セルジュとは顔を合せていない。

 ただ、あの使用人たちの態度を思い出すと、あまり期待できそうになかった。

 屋敷に戻りながら考えていたクラリスは、エントランスに足を踏み入れてすぐにサモンドと顔を合せてしまった。


「これはこれは奥様、お久しぶりでございます」


 サモンドは慇懃に頭を下げたものの、顔を上げながらクラリスの姿を蔑むように上から下からじろじろと見る。

 スカートの裾には泥がはねており、飼葉が一本ぶら下がっていた。

 きっと公爵夫人らしくないと思っているのだろう。


「ペイターをお望み通りに追い出すことができて、ご満足でしょうか?」

「……何を言っているのかわからないわ」


 もちろんわかっていたが、クラリスは相手にしようとせず、去りかけた。

 その背に、サモンドの声がかかる。


「明後日には、新しい馬丁頭が王都から到着予定でございます」

「そうなの? ずいぶん早いのね」

「閣下はこちらにいらっしゃって三日目には、王都のお屋敷へお手紙をお出しになりましたので。今度は、奥様のお気に召される者でしたらよろしいですね」

「……そうね」


 今度こそクラリスは踵を返して、その場を去っていった。

 平静を装ってはいたが、内心ではかなり傷ついている。

 パトリスが滞在して三日目には馬丁頭を交代させることを決めていたというのに、クラリスには一言もなかったのだ。

 もしあの最終日に話し合いの場をもたなければ、セルジュのことを教えてくれていたかも怪しい。


 もう気にしないなんて思いながらも、結局はこんなにもパトリスに振り回されている自分にため息を吐いて、クラリスは階段を上っていった。

 いつか、本当にパトリスのことで傷ついたり悩んだりすることがなくなる日を願いながら。




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