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いつまでも笑いは止まらないように思えたが、ここにサモンドが入ってくる可能性に気付いた途端、クラリスは真顔に戻った。
もう期待などはしない。
ただやるべきことはやらなければと、クラリスは書斎を出て家事室に向かった。
これからのことをハットン夫人と話し合わなければ。
ハットン夫人は家事室ではなく調理場で、料理人にあれこれ指示を出しながら、自分も野菜を手際よく切っていた。
そして、クラリスに気付くと顔をしかめる。
「奥様、ここにいらっしゃることはないんですよ」
「わかってるわ。ただ、あなたと話がしたくて。忙しいのに邪魔をしてしまってごめんなさいね」
「いいえ、この忙しさは……まあ、少々お待ちください。場所を移しましょう」
そう言って、夫人は手を洗うとエプロンで手を拭きながら、調理場にいた下働きの少女に夫人の部屋へお茶を持ってくるように命じた。
クラリスは調理場の者たちを励ますようにかすかに微笑み、夫人のあとについて夫人の部屋に入る。
家政婦のハットン夫人は一階の家事室の隣に、自分の部屋を持っていて、クラリスが足を踏み入れるのはこれで二回目だった。
「今回は災難でしたね、奥様」
「何を言うの、災難なのはあなたのほうよ。ごめんなさいね、私とサモンドの争いに巻き込んでしまって。今の混乱を見るに、大変な迷惑をかけてしまったわ」
「あら、まさか。確かに驚きはしましたが、これくらいはどうってことありませんよ。むしろ活気があっていいことです。皆、すっかり怠けていましたからね」
けらけらと笑って、夫人が手を振る。
最初の警戒心を抱いていた時の態度とは大違いだった。
それだけ夫人はクラリスを受け入れてくれており、それをサモンドは気に入らないのだ。
先ほどの少女がお茶を運んできてくれたので、夫人とともにクラリスがお礼を言うと、少女は嬉しそうに頭を下げて部屋から出ていった。
少女と言っても、おそらくクラリスより二、三歳年下なだけだろう。
「さて、お話があるんでしたね? これからの食事のメニューでしょうか? でしたら、ご心配なさらなくても、食べ盛りの坊やたちを満足させるくらいのものは、お出しできるように調理人と相談して考えましたよ。ご覧になります?」
「そうね。あなたに任せておけば大丈夫なことはわかっているけど、一応は目を通しておいたほうがいいかもしれないわね」
パトリスの供でついてきた立派な騎士たちを〝坊や〟と呼ぶ夫人の言葉に、今度は本当に楽しくてクラリスは笑った。
それからお茶を一口飲むと、すっと息を吸って切り出す。
「先ほど、公爵様とお話したんだけど、失敗しちゃって……。結局、お供の騎士や、他の滞在者の人数も訊けなかったの。それと、夕食はどちらでとるとか……」
「あら、閣下はまだ怒っていらっしゃるんですか? しょうがないですねえ。まあ、そのうち怒りもおさまりますよ。そうすればご自分がどれだけ素敵な妻を迎えたのかに気付くでしょう」
「それはあり得ないわ」
「おやおや、先のことなんて誰にもわからないんですよ。まあ、この話はひとまずおいておきましょう。ご質問の件ですが、騎士の方は三人、他にお食事に同席されるのは、閣下の秘書官の方で、この方が一番ご身分が高いようですね。その四人を除くと、お供の方は八人ですので、総勢十二名です。皆様のお部屋は東棟にご用意いたしました。閣下は……奥様のお隣のお部屋です」
「……そう、わかったわ。ありがとう、ハットン夫人」
女主人として知るべきことを、家政婦から訊くのは情けなかったが仕方ない。
夫となったパトリスがあの調子なのだから。
そう思うと、女主人としてもてなさなければならない今夜からの夕食がとても憂鬱なものに感じられた。
ただ夫人の話にサモンドは出てこなかったので、食事には同席しないのだろう。
それだけが救いだった。
クラリスは夕食の開始予定時刻を聞くと立ち上がり、部屋へと戻ることにした。
滞在予定は十日。
このことをエネとアミラに伝え、毎夕食だけはしっかりと着飾ってもらわなければならない。
そこでふと自分の姿を見下ろし、唇の端だけで笑みを浮かべた。
厩舎でデッドと触れ合い、その後に敷地からそれほど離れていない森を散歩したスカートの裾はかなり汚れている。
元々汚れてもいい服装だったこともあり、淑女には見えない。
(この姿でパトリスの前に立ち、まくし立てたんだもの。嫌がられるのも当然よね)
もっと儚げな女性だったのなら、女性嫌いなパトリスでも少しは優しくしなければと思ったのではないだろうか。
これではスカートを穿いているだけで、クリスの時と変わりないように見える。
(パトリスはきっと、クリスのことも忘れているわよね……)
ボナフェ伯爵家とカリエール家との繋がりはすぐにわかるはずであるが、パトリスがそのことに触れることはなかった。
クラリスにとっては人生を大きく変える出来事でも、パトリスにとっては忘れてしまうほどに些細なことだったのだろう。
(あーあ、馬鹿みたい)
クリスからクラリスへと変わろうと決意してからの三年間の努力は、今となっては虚しいだけだった。
あのままいい思い出として胸に秘め、領地から出ることなどなければ、一目パトリスに会いたいと願わなければ、こんなことにはならなかったのに。
アミラとエネに窮屈なコルセットを締めてもらいながらため息が漏れる。
「クラリス様、締め付けすぎましたか?」
「ううん、大丈夫よ。ちょっと憂鬱になっただけ。ほら、女主人としてお客様をもてなすのは初めてだから。お母様のように上手くできればいいんだけどね」
「あら、クラリス様らしくもない。挑む前から弱気になっていらっしゃるんですか? 心配なさらなくても、クラリス様なら大丈夫でございますよ。この三年間、ずっと努力なさっていらしたじゃないですか。確かに、伯爵家では喪に服しておられましたから、大々的な晩餐会などはできませんでしたが、カリエール様のお屋敷では何度もご出席なさっていたんですから」
「そう……そうね」
エネの励ましに微笑んで答えたものの、肝心の騎士たちの名前を知らないことに気付いた。
夕食の同席者の名前を知らない女主人などいるのだろうかと思うと、おかしくなる。
普通なら前もって、最悪の場合でも、その場で名前を教えてくれるだろうが、主人がパトリスだとそれも怪しい。
(まあ、いいわ。私から直接訊いてしまえば解決だもの)
もうパトリスには頼らない。
馬鹿な夢を見てしまった自分が悪いのだから、自分で打開するしかないのだ。
(でもしばらく厩舎へは行かないほうがいいわよね……)
できればパトリスには会いたくない。向こうも同じ気持ちだろう。
パトリスが滞在している限り、デッドに関しては心配いらないのだから、夕食時だけお互い我慢すればいい。
この広い城内なら会わないように避けることは簡単なはずだ。
たった十八歳で虚しいだけの未来が決まってしまったのは悲しいが、選択の余地さえなく同じ十八歳で三十歳以上年上の父に嫁いだ母よりはずっと幸せである。
(そうよ。世継ぎを生むことも期待されていないんだから、お母様から聞いたような気持ち悪いこともしなくていいし、鞭で打たれることだってないんだもの)
父の癇癪は年を取るごとにひどくなり、クラリスも背中を叩かれたことが何度もあるし、母はよく手のひらを叩かれていた。
あの鞭のしなる音がクラリスは大嫌いだった。
だから馬に対しても決して鞭を使ったりはしない。
ファラに対しては使う必要もなく、クラリスの望み通りに駆けてくれた。
(ファラがいれば、ここでの生活ももっと楽しいものになったでしょうに……)
ほうとため息を吐いたクラリスの首筋を、開いた窓から流れ込んだ風が撫でていく。
それはまるでファラに慰められているかのようで、クラリスははっとした。
そんなわけはないが、クラリスは心強く感じて、部屋から出る時も真っ直ぐに前を向いていられた。
そして始まった夕食の席では、思っていたほど悪いものではなかった。
パトリスは相変わらず口を開くことはほとんどなかったが、そのことに慣れている秘書官や騎士たちはかまわずに自ら名前を名乗り、クラリスに礼儀を尽くしてくれたのだ。
食事中も騎士たちが率先して面白い話をしてくれ、信じられないことにクラリスは声を出して笑うことさえできた。
(これなら、明日からも大丈夫そうだわ)
食事が終わり、もてなすべき女性陣がいないために早々に自室に引き上げたクラリスは、楽しい気持ちのままでベッドに横になることができたのだった。




