18
城内に入ると、急いだ様子のメイドや荷物を抱えた従僕の何人ともすれ違った。
いつもの静けさが嘘のように、場内は騒がしくなっている。
おそらく突然に公爵が現れたことで、付き添いの者たちの部屋の用意などにハットン夫人たちが大慌てなのだろう。
いや、突然ではない。
サモンドは明らかに知っていたのだ。
知っていて、クラリスどころかハットン夫人にも教えなかったのだ。
(あり得ないわ……)
これは職務怠慢などではない。
あきらかな嫌がらせである。
怒りを胸に秘めて、クラリスはアミラを部屋に戻らせると、自分の恰好も忘れて書斎に向かった。
ただの勘だが、パトリスとサモンドはそこにいると思ったのだ。
書斎の扉をノックすると、誰何するサモンドの声が聞こえたのでどうやら当たったらしい。
「クラリスです」
答えたものの、かすかに間があり、ようやく扉が開かれた。
現れたのは当然サモンドで、クラリスの位置からはパトリスの姿は見えない。
「公爵様はいらっしゃるかしら?」
「ええ、こちらに……」
「では、お話があるので入れていただける?」
「それは――奥様!? 困ります!」
もったいぶったサモンドを押しのけ、クラリスは書斎へと足を踏み入れて部屋を見回すと、パトリスは窓際に置かれた長椅子に座っていた。
クラリスの姿を見ても眉を寄せるだけで、立ち上がろうともしない。
他に人がいないことにほっとしながら、クラリスは軽く膝を折った。
「閣下、お久しぶりです。こちらにお越しになるとは存じませんで、お迎えができず申し訳ございませんでした。いらっしゃるなら、お手紙ででもお知らせくだされば、手筈を整えてお待ちしておりましたのに」
その言葉を聞いて、パトリスはクラリスではなく、その背後を見つめた。
サモンドに説明を求めているのだろう。
「その、ちょっとした行き違いがあったようで……」
「まあ! では、サモンドは知っていたのね? それなら、ハットン夫人にはすぐに知らせるべきだったでしょう? それがあなたの仕事ではなくて? 閣下お一人でいらっしゃるわけではないのだから、ハットン夫人には前もっての準備が必要なのよ?」
パトリスの前で自分の失態を責められ、サモンドは悔しそうな顔をした。
それでもサモンドは何か言いかけて口を開いたが、パトリスによって遮られてしまった。
「サモンド、悪いが少し席を外してくれ」
「ですが——」
「サモンド」
「……かしこまりました」
パトリスの声は静かだったが、抗議しかけたサモンドを黙らせるには十分だった。
サモンドはパトリスに頭を下げると、クラリスに睨みつけるような視線を一瞬向けてから書斎を出ていく。
二人きりで話がしたいとは思っていたが、急な状況にクラリスは動揺していた。
言いたいことはたくさんあるのに、何も言葉が出てこない。
「サモンドから聞いたが、あなたはこの城で奔放に振る舞っているそうだな」
「はい?」
「家政婦を味方につけ、サモンドの役割を奪い、厩舎ではペイターたちが迷惑を被っているらしい。さらには苦情を申したペイターを解雇しろと命じたとか?」
「……それで閣下はわざわざこちらへいらっしゃったのですか? サモンドの訴えを聞いて?」
「いや……元々、城にはしばらく滞在するつもりだった。馬たちの様子を見たかったから」
あの不本意な求婚からようやくクラリスに向けて発した言葉が責めるためのもの。
しかも、クラリスからは事情を聴こうともせず、城にやって来ることを直接知らせなかったことにも触れず、滞在の目的は馬の様子を見たかったから。
不安でいっぱいだったクラリスのことは少しも気にならなかったらしい。
クラリスは悲しみよりも怒りよりも、ただおかしくて、こみ上げる笑いを堪えた。
初恋は実らないというけれど、あれは本当に幻だったのだ。
不器用ながらも優しかったパトリスという男性はどこにも存在しない。
「閣下はとても馬を大切になさって……いらっしゃると伺いました。それで、もう厩舎はご覧になったのでしょうか?」
「……ああ、乗ってきた馬を直接厩舎まで連れていった」
「そうですか。デッドにはお会いになりました? あの子はきっと、閣下と久しぶりにお会いできて喜んだでしょうね。怪我もずいぶんよくなりましたから」
「……そうだな。まだ放牧場の一角の柵の中でしか放してもらえないせいか、思いっきり走りたくてうずうずしているようだ。だが、ペイターの言う通り、全力で駆けるにはまだ早いだろう。だが、この滞在中に私が……」
馬のことになると、途端に声を和らげ饒舌になる。
無表情だった顔もかすかに感情が浮かび、クリスだった頃の記憶を刺激して、クラリスの胸はちくりと痛んだ。
しかし、パトリスは自分が誰を相手に話しているのか思い出したのか、訝しげにクラリスを見た。
その冷たい視線がまたクラリスを現実へと引き戻す。
「……閣下は、ペイターの仕事に満足なさっているのですね?」
「厩舎は掃除が行き届いていて、馬たちは十分に世話をされている。以前の雇い主からの紹介状にあった通り、問題は何もない」
「では、問題はないのでしょう」
答えながらも、クラリスは落胆していた。
まさかとは思っていたが、パトリスの〝女嫌い〟は重症のようだ。
サモンドとペイターから話を聞き、ハットン夫人やクラリスの事情はおかまいなしに、すでに判断を下してしまっている。
やはりこの結婚は間違いだった。
あの時、周囲の助けを得て婚約を破棄してしまえばよかった。
それなのに、心のどこかで夢を見ていたのだ。
ある日突然、パトリスがクラリスの正体に気付いて、それから心を開いてくれ、またあの笑顔を見せてくれることを。
(そんなの、おとぎ話の中だけよね……)
なんて虚しいのだろう。
いっそのこと、もう自領に逃げ帰ってしまいたかったが、この城の現状を見過ごすわけにないかない。
クラリスは両脇でぐっと手を握り締め、勇気を奮い起こし、パトリスの灰色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「閣下は、この城に滞在なさったことがおありですか?」
「――先日、一日だけ立ち寄ったのが初めてだが?」
「さようでございますか。では、いつまでご滞在の予定なのでしょう?」
「……自分の城に滞在するのに、許可がいるのか?」
「もちろん許可などは必要ございません。ですが、予定を知りたいだけなのです。閣下が望まなくても、私はこの城の女主人です。城を取り仕切るのが私の役目なのですから、閣下のお供の方たちの滞在日数を知ることは重要です。サモンドはそのことを忘れているようですけどね」
最後に嫌味を付け加えずにはいられなかった。
それがパトリスの癇に障ったらしい。
目を冷たく眇めてクラリスを見つめる。
「……私はこの城に女主人を迎えるつもりはなかった。サモンドもそのことを十分に理解していたからこそ、己の職務を全うしようとしているのだ」
「それでは、なぜ閣下はあの時、私に求婚なされたのですか? 確かに、状況はまずいものでした。ですが、きちんと説明すれば皆も納得してくださったでしょう。あの場に居合わせたのは、イレブニア伯爵夫人以外は両陛下と私の姉だけだったのですから」
「私は……両陛下にご迷惑をおかけするわけにはいかなかった」
「そうでしょうか? 私には閣下がただ一番無難な道を選んだとしか思えません。王族の方からの求婚を断ることが私たちにとって、どれだけ難しいかご理解いただけなかったのですか? 私は何度も〝婚約を破棄してほしい〟と手紙を送りましたが、そのつもりはないと一度だけお返事を頂いたきり、あとは開封されることなく戻ってきました。きちんと話し合うことさえできれば、この結婚を誰にも迷惑をかけることなく回避することはできたのかもしれませんのに。その道を閣下は自ら閉ざされたのです。迂闊だった私を責めるのはかまいません。ですが、この城にご滞在の間は、サモンドやペイターたち男性の意見だけでなく、ハットン夫人やメイドたちのことも気にかけてやってください。それでなお、何も思われることがないのでしたら、私は……」
一気にまくし立てたクラリスを、パトリスは化け物でも見るような目で見ていた。
おそらく女性がこのように反抗するとは思わなかったのだろう。
結局、パトリスは父と同じだった。
そう思った途端にクラリスの気力がくじかれていく。
そうして口ごもったクラリスにパトリスは我に返ったのか、いつもの無表情に戻って続きを促した。
「それで、あなたはどうするつもりだと?」
「私は……私は、閣下を軽蔑します」
たったそれだけしか言えない自分が情けない。
パトリスも同じように思ったのか、クラリスの返答を聞いて馬鹿にしたようにふっと息を吐き出し、急に立ち上がった。
瞬間、クラリスはびくりとして体を縮ませたが、すぐに背を真っ直ぐに伸ばし、パトリスを見つめる。
「私を鞭で打たれますか?」
「……なぜ?」
「夫である閣下に、生意気なことを申しましたから」
「まさか……いや、話はもう十分だと思っただけだ」
パトリスはかすかに驚いたように見えたが、冷たい声は変わらず、そのまま書斎から出ていく。
一人残されたクラリスは、今のやり取りに気力を奪われ、ふらふらとソファまで歩み寄り、がくりと腰を落とした。
そこで今まで自分が立ったままだったことに気付き、礼儀も何もなかった今の話し合いに、ついに笑いを堪えることができず、クラリスは一人くすくす笑い続けたのだった。




