17
次の日の昼過ぎ。
昼食を終えたクラリスは、また厩舎に行くために着替えようと部屋に戻りかけたところで、サモンドに呼び止められた。
大切な話があるというので、付き添いのアミラも一緒に書斎へと向かう。
サモンドはアミラに同席させることで不快感を顔に出したが、礼儀のために諦めたようだった。
「率直に申し上げますと、苦情がきております」
「苦情ですって?」
書斎にある応接ソファに座った途端に口にしたサモンドの言葉に、クラリスは眉を寄せた。
サモンドはその顔を見て満足そうに頷く。
「さようでございます。昨日、奥様は厩舎でひと騒動起こされたそうですね? そのために、馬丁頭のペイターは後始末が大変だったと申しておりましてね。他の馬丁はもちろん、馬たちにも影響があるので、もう厩舎へはいらっしゃらないでほしいと」
その内容にクラリスは呆気に取られ、危うく口をぽかんと開けるところだった。
しかし、どうにか取り繕い、唇を引き締める。
昨日のことで苦情を言いたいのはクラリスのほうだった。
それをペイターから都合のいいように報告するなど、信じられない。
アミラも怒りを抑えようとして呼吸が荒くなっていた。
「残念だけど、それは受け入れられないわね。私は今日もこれから厩舎へ行くつもりよ。公爵様が大切になさっている牡馬のデッドがどのように扱われているか心配ですからね。もしペイターが我慢できないっていうなら、彼がここをやめるべきだわ。とすれば、あなたは次に、ちゃんと馬に愛情を持った馬丁頭を雇うべきよ」
そう告げて立ち上がると、クラリスはさっさと書斎を出ていこうとした。
するとサモンドも立ち上がり、低く脅すような声を出す。
「あなたは私にそのような物言いが許されるとでも? ここを任されているのは私ですよ?」
「サモンド、あなたこそ許されると思っているの? 私はブレヴァル公爵夫人です。たかが家令のあなたがそのような口を利いていいとでも? 今回は大目に見るわ。でも次はないわよ」
クラリスは堂々としていたが、本当は震えていた。
今まで身分を盾に誰かに命令したこともなかったし、このような対決もしたことがなかった。
それでもサモンドの態度は許されるものではなく、けじめをつけるためにもきっぱり告げたのだ。
アミラは満足したようにほくほくと微笑んでいたが何も言わず、少し後ろに従ってくれている。
最大の敵を作ってしまったことにクラリスは不安になりながらも、これでよかったのだと自分に言い聞かせ、厩舎へ向かう準備を始めた。
厩舎にクラリスが姿を現すと、皆が驚き、ペイターは悔しそうな顔をした。
だが何事もなかったかのようにクラリスはデッドの馬房へと近づき、優しく声をかける。
「デッド、いい子にしてたかしら? 約束のものを持ってきたわ」
そう言って手を差し出すと、デッドは手のひらに載せていた角砂糖をすぐにぱくりと食べてしまった。
さらにまだないのかとおねだりするように鳴く。
その間にミックが気を利かせて手綱を持ってきてくれた。
「ありがとう、ミック」
お礼を言ってミックを見たクラリスは、その顔が腫れあがっていることに驚いて声を上げた。
「その怪我はどうしたの!?」
「あ、いえ。ちょっと転んでしまったんです」
「……転んだ?」
クラリスにはそれが嘘だとすぐにわかった。
間違いなく誰かに殴られたのだ。
これでも十四歳までは男の子として過ごしていたのだから、クラリス自身は殴られたことがなくても、取っ組み合いのケンカには何度も遭遇している。
相手はおそらくペイターだろう。
昨日、ミックがクラリスの命令を聞いたことで、理不尽にも殴られたのだ。
クラリスはペイターをじっと見つめながら、静かに告げた。
「もし、ここが怪我をすることが多い職場なら、改善しなければならないわ。ミックがいったいどうしてこのような怪我をしたのかはわからないけれど、次からはこんなことがないよう気をつけてちょうだい。ペイターあなたの監督責任になるわよ」
「……へい。わかりやした」
不満顔ながらもペイターは頷いた。
今はこれでいいだろうと判断して、準備ができたデッドを外へと連れ出す時、ぼそりと「女のくせにしゃしゃり出やがって」と聞こえたが、無視をする。
この城に来てまだたったの四日だというのに、かなりの敵を作ってしまった。
不安になりながらも、クラリスは立ったままじっと待っているアミラにちらりと目をやった。
アミラから聞いた話だが、どうもこの城の男性使用人は女性を見下しているような態度を取るそうなのだ。
もちろん全員ではないだろうが、それはかなり問題である。
アミラもさっそく昨日、厩舎まで案内してくれた従僕に言い寄られたらしい。
おそらくパトリスが女嫌いということで、男性使用人が勘違いしてしまったのだろう。
サモンドの態度がその最たるものだ。
(でも……もし、これをパトリスが容認していたら……?)
そこまで考えて、クラリスは打ち消した。
確かにパトリスの女嫌いは社交界でも有名で、群がる貴婦人に対しても不愛想ではあったが、それ以上の悪い噂は聞かなかったのだから。
しかも、弱者に対して威圧的な態度を許すような人だとは思えない。
(今度、パトリスに会ったら、このことは伝えないと……)
このままこの城に放置されるのだろうと思っていたが、パトリスのことだからきっとデッドに会いに、近いうちにやって来るはずだ。
手紙を書いてもまた封も切らずに戻ってきてしまうだろうから、とにかくそれまではクラリスがこの理不尽な状況に立ち向かうしかない。
それからのクラリスは毎朝食事をとると、ハットン夫人とその日の予定や何か問題がないかを話し合い、解決するように努めた。
そのせいで一部の男性使用人たちから反感を買っているらしい。
だがクラリスは毅然とした態度を崩さなかった。
するとメイドや下働きの女性たちからは徐々に信頼されるようになったのか、彼女たちの態度はあきらかに変わってきていた。
初めの頃は、公爵閣下を罠に嵌めた小娘という噂のせいか、見くびられているようだったが、今は女主人としてちゃんと接してくれるようになったのだ。
(まあ、このままだと男性使用人たちに仕事を放棄されかねないけどね……)
本来はサモンドが男性使用人たちを咎めるべきなのだが、ペイターや一部の反抗的な使用人たちを放置しているのだ。
クラリスはサモンドも職務怠慢でくびにしたいくらいだったが、それはさすがにできない。
(早くパトリスが来てくれればいいのに……)
自分のことを嫌っていても、この現状は改善してくれるだろう。
三年前の戦の時に耳にした噂では、パトリスは――王族の方たちは、身分に関係なく善悪を公平に判断してくれるとのことだったのだから。
ここのところずっと気を張り詰めていたクラリスは、少々弱気になっていた。
「奥様」
「……何かしら、サモンド?」
厩舎から城へと戻り、自分の部屋へと向かう途中でサモンドに声をかけられ、クラリスはひと息吸ってから振り返った。
サモンドはいつもの小ばかにしたような笑みを浮かべている。
「奥様が特別大切になさっている馬の具合はいかがですか?」
「……私はどの馬も大切よ。ただ怪我をしている馬――デッドの調子はずいぶんよくなったわ。このまま毎日丁寧に世話をすれば、ぐっとよくなるはずよ」
「さようでございますか。では明日も、厩舎へいらっしゃるのですね?」
「ええ、そのつもりだけど、いけない?」
「いいえ、めっそうもございません。ただその馬は閣下も大切になさっていると伺ったものですから……。それではお呼びとめして、申し訳ございませんでした」
「別にかまわないわ」
今までデッドのことを気にしたこともなかったのに、なぜいきなりそんなことを訊いてきたのか、クラリスは訝しく思いながらも問いただすことはしなかった。
デッドの回復具合を答えることには何の害はないだろう。
しかし、サモンドはデッドの調子ではなく、クラリスの午後の行動を知りたかったのだ。
その理由がわかったのは、クラリスが翌日いつものように厩舎で過ごした後、少しの散歩を楽しんでから戻った城内の慌ただしさに気付いた時だった。
ようやく城主であるパトリスがやって来たらしい。




