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「厩舎……ですか?」

「ええ、そうなの。公爵様は馬をとても大切になさっているでしょう? だから一度見てみたくて」

「……女性がいらっしゃるような場所ではないかと思いますが」

「あら、ずいぶん古臭いことを言うのね。女性でも普通に乗馬を楽しむ時代よ? 今は自分の馬をもっていないけど、以前はよく遠乗りをしていたわ」

「……さようでございますか。では、案内の者をあとでお部屋に向かわせます」

「ええ、お願いね。準備して待っているわ」


 昼食を食事室でとったクラリスは、そのまま書斎へ向かい、サモンドに厩舎を見学したいと申し出たのだ。

 すると、かなり渋い顔をされてしまった。

 だが結局は、クラリスに逆らえるわけもなく了承すると、サモンドはさっさと出て行けとばかりに廊下への扉を開ける。

 クラリスは念を押すと素直に書斎を出ていった。


 そして身軽な服装に着替えたところで、案内してくれる従僕がやってきた。

 付き添うためにアミラも着替えている。

 二人で従僕の後を歩いたが、従僕がアミラに一瞬向けた視線が気になった。

 だがそのことを忘れるほどに、厩舎に到着したクラリスは怒りにかられた。


「責任者はあなたよね?」

「へい、あっしですが……」

「ペイターと言ったわね? これはどういうことなの?」

「……どういうこととは?」


 厩舎に入って迷惑そうなペイターの挨拶を受け、馬房を見て回っていたクラリスは、さすがにパトリスの馬たちだと感心していた。

 しかし、一番奥、まるで隔離してあるような馬房を目にして愕然としたのだ。

 そこには三年前、パトリスがとても大切にしていたデッドが入れられていたのだが、その扱いがひどい。


「デッドよ。この子の馬房は適当にしか掃除されていない。何より手入れが行き届いていないわ。この子は公爵様の大切な馬なのよ? それなのに何てことをしているの?」

「あ……そいつは、気性が荒くて扱いが大変なんでさ。しかも怪我をして軍馬として使い物にならなくなってからは特にひどい。体に触ろうとしたら大暴れで、馬房の掃除だってやっとなんで」

「怪我? いつの怪我なの? 状態は?」


 怪我と聞いて、クラリスは心配になった。

 まさかあの時の薬草が効かず、デッドの怪我を治すことができなかったのだろうかと後悔が押し寄せる。

 だが、あの後もパトリスは何度かデッドに乗って小川に来ていた。

 そう思い出していたクラリスに、面倒そうにペイターが答える。


「ええっと、確か三年前のあの戦で勝利したあと、エスクームの残党を追っていた時に、突如襲われたとかで……ご丁寧に毒の塗ってあった矢に右後ろ脚の腿を射られたんでさ。それで筋肉が……まあ、ご婦人にこんなことを言ってもわからないでしょうがね」


 青ざめたクラリスを見て、ペイターは言いかけた内容を侮蔑に近い言葉に変えた。

 しかし、そんなことが気にならないほど、クラリスはショックを受け、デッドへ視線を向けた。

 残党を追っていたのなら、バイレモ地方でのことだろう。

 父である伯爵の死でごたごたしていたボナフェ伯爵家は大領主として、何も協力できなかった。

 その間に、パトリスたち王国軍が戦い、デッドは毒の矢を射られてしまったのだ。

 クラリスはペイターへの怒りも忘れ、デッドへと近づいた。


「奥方様、何をなさってるんです!」

「クラリス様!?」


 鼻息荒く、足を踏み鳴らし、両耳を後ろに伏せてデッドは威嚇している。

 それでもかまわず優しく声をかけながら手を伸ばすクラリスの行動に、ペイターは驚愕し、アミラさえ悲鳴に近い声を上げた。


 厩舎でそのように声を張り上げれば他の馬も怯えてしまうのだが、今はクラリス以外の誰もが動揺している。

 ペイターにしてみれば、いくら自分から近づいたといっても、奥方に怪我をさせてしまえば自分の責任になると慌てて止めようとしたが、クラリスは振り返って睨みつけた。

 そして、静かにしてというように人差し指を鼻に当てて見せる。


「デッド、私よ。覚えていない? 三年前、小川で会ったでしょう? 今はちょっと姿が変わってしまったから、難しいかしら?」


 そっと、これ以上驚かせないように、怯えさせないように、低く静かに声をかけ続けると、デッドの耳がぴんと立ち、足の動きを止めた。

 クラリスはいきなり撫でることなどはせず、伸ばした手をデッドへ差し出すように柵の中に入れ、何も持っていないのだと示す。


「ごめんなさいね。今日は何も持っていないの。でも次はきっと何か持ってくるわ」


 デッドがクラリスの手へと首を伸ばしたのを見て、ペイターたちは目を瞑った。

 噛みつかれると思ったのだが、クラリスから悲鳴が上がることはない。

 ペイターたちが恐る恐る目を開けると、あの狂暴な馬が甘えるように鼻先をクラリスの手へこすりつけている姿が映った。

 誰もが信じられなくて、ぽかんと口を開ける。


「だから、今日は何も持っていないの。明日は必ず持ってくるわ。ね?」


 くすくす笑いながらクラリスはデッドに話しかけた。

 香水などの匂いのきついものをつけていなかったのが幸いしたのだろう。

 昔と変わらない石鹸を使っているのもよかったのかもしれない。

 ただ、このままデッドを放置はできないと思い、クラリスはペイターに声をかけた。


「手綱を持ってきてくれない? 銜はいいわ。頭絡だけで。少し歩かせるだけだから」

「は? 無茶をおっしゃらないでください!」

「あら、どうして? 私がこの子を外に出すわ。その間にあなたたちはこの馬房の掃除をきちんとしてくれるかしら? この子は確かに怪我をして軍馬として戦場を駆けることはできなくなってしまったかもしれないけれど、こんなにしっかり足踏みをしているんだもの。この足はちゃんと使えるわ」


 クラリスはペイターがデッドのことを「使い物にならない」と言ったのが許せなかった。

 きつくペイターを睨みつけ、厳しい口調で言いつける。


「これはお願いじゃなくて、命令よ」


 ほんのわずかの間、静かに睨み合いが続いたが、その沈黙を破ったのは、馬丁見習いの少年だった。

 少年はクラリスの命令に従って手綱を持ってきてくれたのだ。


「ミック! 何を勝手なことを――」

「あら、ミックは私の命令に従っただけだわ。ありがとう、ミック。それからペイター、あなたここで大きな声を出さないでくれる? 馬たちが怯えているじゃない」

「な、何を……」


 皆の前で馬を扱う者なら当然のことを注意され、ペイターは顔を真っ赤にして言葉を詰まらせた。

 だが、クラリスはかまわずデッドを外に出すための準備を進める。

 そんな様子を、他の馬丁たちは驚きとともに見ていたが、ミックだけが手を貸してくれた。

 こげ茶色の髪のあちこちに藁が絡まっているミックは、年の頃は十四歳くらいで、どことなくパトリスと出会った頃のクリスに似ている。


「ありがとう、ミック。では、この子を外で歩かせている間、馬房の掃除をお願いできるかしら?」

「はい、奥様」


 元気良いミックの返事に微笑んで応え、クラリスは馬房からデッドを連れ出した。

 途端に馬丁たちが後ずさる。

 それほどにデッドを怖がるなど、いったいこの子はどれだけ暴れたのだろうと咎める視線を向けると、当のデッドはぶるると鼻を鳴らした。

 どうやらクラリスの責める気持ちが伝わったらしい。


「あなたは本当に賢い子ね」


 厩舎から出ながらクラリスは小さく笑って、できるだけデッドの歩幅に合わせて歩いた。

 デッドは走り出したくてうずうずしている。


「ダメよ、デッド。あなたが今まで皆を脅かせていたせいで、外に出してもらえなかったんだもの。急に走ってはダメ。それと、あとで怪我をした場所をマッサージさせてね」


 クラリスが言い聞かせるように言うと、デッドはしょんぼりとしたように見えた。

 本当に賢い馬だと思いながらもしばらく歩き、馬房に戻るとミックを呼んだ。


「これからこの子の足をマッサージするんだけど、手伝ってくれるかしら?」

「え? い、いや……だけど……」

「大丈夫よ。この子は本当はとても賢い子なの。ただちょっと好き嫌いが激しいから、気に入らない人間には冷たいそうよ」


 昔、パトリスから教えてもらったことをミックに伝える。

 おそらくだが、デッドはペイターを気に入らなかったのだろう。

 それでこんな扱いを受けたのだ。

 恐る恐る近づいたミックは、デッドが噛みついてこないとわかってほっとしたようだった。


「ここの筋肉が、たぶん毒のせいなんでしょうけど硬くなってしまっているから、こうして……ゆっくりマッサージしてくれる? できれば、朝、昼、夕方と三回。でも昼は私もできる限り来るから、一緒にしてくれるとありがたいわ」

「は、はい」

「ほら、大丈夫でしょう?」


 ミックがデッドに触れても怒ることはなく、クラリスもほっとした。

 大丈夫だとは思っていたが、デッドを怒らせれば二人とも怪我をしてしまう。

 ただミックはペイターと違って、仕事として馬の世話をするのではなく、馬を心から愛しているのだと感じたのだ。

 馬は人の心を察するのがうまい。

 幼い頃から、何度もファラに慰められていたクラリスにはそれがわかっていた。


「ところで、デッドはいつからここにいるの?」


 しばらくはペイターや他の馬丁たちが様子を見ていたが、やがて安心したのか飽きたのか、自分たちの仕事に戻ったので、クラリスはさり気なく訊いた。

 あのパトリスが大切な馬を――デッドをここに何か月も放置したままだとは思えない。

 だから次にパトリスがここにやって来るのがいつか、知ることができるのではないかと思ったのだ。


「デッドは七日前に殿下が――いえ、閣下がお連れになったんです。何でも閣下の赴任地がこのレスト地方のサクリネ王国との国境になったとかで。エスクームとの終戦からしばらくは各地を転々とされてましたし、ここ最近は王都にご滞在でしたから。今まではサクリネとの国境はリュシアン殿下が担当されていたようですが、きっとご結婚されたことで、この領地に近いサクリネとの国境を閣下が担当されることになったんですね?」

「……ええ、そうね」


 ミックの言葉に、クラリスは曖昧に微笑むしかなかった。

 ここ数年は、意識的にパトリスの話を耳に入れないようにしていた。

 しかし、結婚した今ならもっと自分から調べることをするべきだったのだ。

 夫の赴任地がどこかも知らなかったなんて、自分に呆れて仕方なかった。

 やはり不幸に浸っているだけではダメだ。

 そう決意したクラリスはデッドとミックに別れを告げて、心配しながらも辛抱強く待ってくれていたアミラと、城へと戻っていった。




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