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「クラリス! あなた、大丈夫なの!?」
部屋へと駆けこんできた人物を見て、クラリスは立ち上がって両手を広げ迎えた。
ずっと堪えていた涙がこみ上げてくる。
「お母様……」
周囲が花嫁支度に慌ただしくしている中で、ずっとぼんやりしていたクラリスはようやく感情を取り戻したようだった。
どうせ結婚をするのなら早いほうがいいとパトリスが提案したらしく、王族の結婚ではありえないほどに早く準備が進められ、あと五日後には挙式である。
あの舞踏会の日からまだたったのひと月足らず。
三年前、国王夫妻は婚約発表から十日で式を挙げたが、あれは同盟を急ぐためでもあったのだから仕方ないだろう。
「パトリス殿下と結婚だなんて……。知らせを聞いてすぐに来たけれど、嫌ならやめたっていいのよ? そもそもこんなに早く式を挙げるだなんて、馬鹿にしているわ。相手がいくら王家の方だとはいえ、抗議してしかるべきよ」
「ち、違うの、お母様。私が悪いの。私のせいで、殿下は……私に求婚しなければいけないって思ってしまって……。ご自分の名誉のためなんかじゃなくて……王家と、ボナフェ伯爵家のために……」
「……それって、あなたのためではないじゃない。家名のためだなんて間違ってるわ。伯爵家のことならいいのよ。あなたのお姉さんたちはみんなもう結婚しているし、テメオには関係ないことなんだから。心配しなくても、あなたのお父様だって今さら土の中から怒って出てきたりなんてしないわ」
「やめて、お母様。怖いこと言わないで」
伯爵家の名誉を何より大切にしていた前伯爵のことを冗談めかして言う母の言葉に、クラリスは笑った。
一時は母を恨んだこともあったけれど、大きくなった今なら、母がどれだけ自分を大切にしてくれているのかわかる。
きっと、この結婚が嫌だと言い張れば、クラリスを大切に想ってくれる人たちが全力で阻止してくれるだろう。
だがそれが、どれほどに不名誉で迷惑をかけることか、そしてパトリスに恥をかかせるかと思うと、言い出せなかった。
だからクラリスは、母を安心させるための嘘を――ちょっとだけ真実を混ぜて口にした。
「お母様、私ね、ずっと前……三年前にパトリス殿下とお会いしたことがあったの」
「三年前? まさか……」
「ええ、あのエスクームとの戦の少し前、カリエール領のビバリーの森で出会ったの。狩猟小屋近くの小川で……」
「ああ、あの小川ね。私も幼い頃はよく遊んだわ」
昔を懐かしむように微笑む母に、クラリスは微笑み返した。
母ジルダの乳姉妹であったエネは、おてんばなジルダに苦労したとよく話してくれる。
「あそこで、殿下は馬を休ませていたの。馬は少し怪我をしてしまっていて、狩猟小屋から薬草を持ち出して渡したのが最初の出会い。お互い名前しか名乗らなかったから、私も敬称では呼ばなかったわ。殿下は私のことを男の子だと思っていたし、私も誤解は解かなかった。それから何度か小川で会って、話をして……でも、もうすぐ戦争が始まるから、ここにはもう来ないって、私にも危険だから来てはいけないって言われて……そこでようやく殿下に恋していたんだって気付いたの」
「そうだったの……。それじゃあ、今シーズンに社交界にデビューすることをすんなり受け入れたのは、殿下にお会いするためだったの?」
「ええ、その時は殿下が女嫌いだって知らなかったから。もしお話する機会があれば、打ち明けて驚かせようと思っていたの。でも、早々に諦めたわ。それなのに、まさかこんなことになるなんて……」
楽しげに思い出を打ち明けていたクラリスだったが、あの舞踏会でのことを思い出すと、再び涙がこみ上げてきた。
それでも、鼻をすすり続ける。
「私、今でも殿下が……好きみたい。だから、殿下との結婚が嫌なわけじゃないの。ただ、殿下に嫌な思いをさせてしまっていることが悲しいだけ。私は元々結婚するつもりなんてなかったんだもの。だから傍にいられるならそれだけでいいの」
「でも、それはかえってつらいんじゃないの? 好きなのに、相手にしてもらえないなんて……」
「わからない。でも、殿下が婚約を破棄してくれないのなら、私からはするつもりはないの。それだけは確かよ」
「そう……。ごめんなさいね、クラリス」
「なぜお母様が謝るの?」
「だって、母親ならこういう時、もっとしっかりとしたアドバイスをしてあげられるはずなのに。残念ながら、私は恋をしたことがなくて、何を言えばいいのかわからないわ」
「お母様、それは違うわ。私はアドバイスがほしいわけじゃないもの。ただこうして、抱きしめてくれればいいだけ。私は幸せよ。お母様にも、伯父様にも、お姉様たちにも愛されているんだから。大丈夫。ありがとう、お母様」
「クラリス……」
母に話したことで、クラリス自身も自分の心の奥にあった想いにようやく気付いた。
あの初恋はまだ終わってなかったのだ。
色々と理由をつけて自分から無理に婚約を破棄しなかったのは、やはりパトリスの傍にいたいから。
嫌われているのはわかっている。
だから、自分がクリスだと打ち明けるつもりはもうなかった。
もしあの時のクリスに少しでも好意を持っていてくれたなら、クラリスだと知ることで嫌われたくない。
あの想い出は、クラリス一人が大切に抱えていればいいのだ。
そう決意して、クラリスは話を変えた。
「ねえ、お母様。テメオはどうしたの? ひょっとしてお留守番?」
「え? ええ。あまりにも急だったし、テメオはまだ六歳ですからね。伯爵位を正式に継いだわけではないし、今回はお留守番」
「じゃあ、きっとテメオは寂しがっているわね。私もちゃんとお別れできなかったし、またいつか……機会があれば、テメオに会いたいわ」
「馬鹿ね、機会なんていつでもあるわよ。まさか殿下はあなたを辺境の地に閉じ込めるわけじゃないでしょうし……ブレヴァル公爵家の領地ってどこにあったかしらねえ?」
「いくつかあるみたい。お姉様が調べて教えてくれたの」
そこからは伯爵家の近況などを聞いた。
心の内を打ち明けたことで、クラリスはどこか気持ちが軽くなり、それからの母と過ごす四日間は比較的楽に過ごすことができたのだが、いよいよ結婚式当日になると、やはり緊張せずにはいられなかった。
今にも吐きそうで、朝から何も喉を通らない。
そもそも一睡もできずに朝を迎えてしまったのだ。
無理に紅茶とビスケットを一枚だけ口に押し込んだが、それさえも吐き出していた。
そして足を引きずるようにして玄関へとたどり着いた時には、父親役を引き受けてくれた母の兄であるカリエール卿にひどく心配をかけてしまった。
幼い頃からクラリスを知っている伯父には誤魔化しの笑顔も通用しない。
「本当に大丈夫なのか? クラリス、今からやめたっていいんだよ? いっそのこと、このままカリエール領に向かってもいい」
「馬鹿なことをおっしゃらないで、伯父様。ただ緊張しているだけ……。花嫁ってきっとみんなそんなものでしょう?」
「……つらかったら、いつでも帰ってきていいんだ。世間体なんて気にする必要はないからな」
伯父の温かく優しい言葉にすがりそうになる自分を叱咤して、クラリスはどうにか声を出して笑うことができた。
それからドレスが乱れるのもかまわず、伯父をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、伯父様。その言葉だけで十分よ」
伯父の頬にキスをして、クラリスは離れると、涙を見られないように顔を逸らし、馬車へと向かったのだった。




