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国王夫妻のダンスで幕を開けた舞踏会は大盛況で、クラリスは目立たないように隅に立って、姉夫妻が帰る時を静かに待っていた。
もう義兄とは踊ったので、舞踏会に出席したという義務は果たしている。
自分がいかに世間知らずで田舎者だったかを、この舞踏会では痛いほどに思い知らされた。
初心な令嬢たちとその母親が集まる舞踏会とは違い、この王城主催の舞踏会は出席者からしてまったく違った。
リュシアン殿下は何人もの蠱惑的で華やかな貴婦人とダンスを踊り、パトリス殿下は一度王妃陛下と踊っただけで姿を消している。
クラリスは年配のふくよかな女性と踊る国王陛下をぼんやりと目で追いながらため息を吐いた。
王妃陛下は席を外しているようだ。
そこに女性たちの会話が耳に入ってきた。
どうやらクラリスの存在には気付いていないらしく、内容はかなり明け透けなものだった。
「国王陛下はまた年配の女性と踊っているわ」
「本当に……。王妃陛下とご結婚なされてから、妙齢の女性とは一切踊られないのよねえ」
「とはいえ、そろそろ愛妾を持っていただかないと。先王陛下が陛下のお年の頃にはもうお二人もいらっしゃったのに」
「ええ、リュシアン殿下とパトリス殿下のお母君よね」
クラリスは居たたまれなくなって、その場を離れようとした。
だが、次に女性が発した言葉に体が凍りつく。
「王妃陛下とはご結婚されてもう三年でしょう? その間にお生まれになったのは王女殿下お一人。それも二年も前よ? 今日のご様子からもご懐妊されているようには思えないしねえ」
「国民は王子殿下のご誕生を楽しみにしているというのに、今日も喜ばしい知らせがなかったことでがっかりしているんじゃないかしら。この場合、王妃陛下から陛下に愛妾をお勧めするべきでしょうに、何をなさっていらっしゃるのかしら」
「まったくだわ。このままでは、両殿下もいつご結婚なさるのやらわからないもの。早く王子殿下が――次代の国王陛下が誕生なさらないことには、この平和な時もいつまで続くのかと不安になってしまうものねえ」
もう我慢できなかった。
かあっと頭に血が上ったクラリスは、さっと女性たちの前に姿を現すと、驚く女性たちを睨みつける。
そして言い放った。
「国民って、どちらの国民でしょうか? 私の知る限り、そのように思っているモンテルオの民は一人もおりません。皆が王妃陛下を敬愛し、国王陛下を尊敬しております」
「まあ……」
「あなた、いったい――」
「それにこの国のどこに、継承に関する男女の定めがあるのでしょう? 喜ばしいことに王女殿下はとても利発でお元気でいらっしゃるとのこと。この先、……まだまだずっと先のことですけど、王女殿下が女王陛下として立たれることに何の問題がありましょうか? 私たちがなすべきことは、下世話で余計な心配などではなく、臣下として国王陛下のお力に少しでもなれるよう努力すべきことでしょう?」
そこまで勢いよく告げて、少しすっきりしたクラリスは、目の前で顔を真っ赤にさせている女性たちに気付いた。
さらに周囲には何事かと眉をひそめて見ている人たちまでいる。
一気に頭が冷めたクラリスは、この場での取り繕い方がわからなかった。
そもそも社交経験の浅いクラリスにできるわけはないのだが。
「あの、私……すみません!」
そしてクラリスにできる唯一のこと――その場から逃げ出した。
急ぎ後ろの窓からバルコニーに出ると、スカートを掴んで庭へと駆け下りる。
しばらく走って、重いドレスに疲れたクラリスは、歩きに変えて暗がりのほうへと向かった。
もうこのままここで隠れていたい。
それが無理なことはわかっていたが、本当に今日を最後に領地へ戻って引き籠ろう。
決意を新たにしたものの、今度は後悔がクラリスを襲った。
(それにしても、私はなんて愚かなことを……)
あの女性たちを見たことはなかったが、身分の高い女性だったらどうしようと、冷静になると今度はそのことが心配になってくる。
自分だけが恥をかくのはかまわないが、世話になった姉夫婦に迷惑をかけてしまうことが申し訳なかった。
だが、嫌なことはさっさと終わらせたほうがいい。
まず姉を捜して事情を打ち明け、場合によってはあの女性たちに謝罪するべきだろう。
中庭の小道から外れて、茂みに逃げ込んでいたクラリスは、渋々そこから出ようとして、誰かがやって来ることに気付いた。
思わず息をひそめて身を隠す。
できれば今は、警備のために巡回している兵士にも見つかりたくない。
早く行ってという願いも虚しく、足音は近くで止まり、男性の低いため息が聞こえた。
警備兵でなく、舞踏会の喧騒に疲れた誰かだろうかと、つい興味を引かれてクラリスはそっと窺う。
そして思わず声を出しそうになって慌てて息を止めた。
パトリス――パトリス殿下だ。
ずっと、会いたいと思っていた人がすぐ近くにいる。
それだけで、落ち込んでいたクラリスの心は舞い上がった。
舞踏会の間中、緊張状態にあったクラリスはそのために通常の思考力を失っていたらしい。
常識的に考えれば、鍛え抜かれた軍人に気配を消して近づけばどうなるかわかったはずなのに。
ただ驚かせたいという一心で、靴を脱ぎ、ぼんやりと月を見上げているパトリスへとクラリスは忍び寄った。
瞬間――クラリスは後ろにあった大木の幹に体を押しつけられた。
さらには首を締め上げられ、右手は幹と自分の体に挟まれ、左手はパトリスに拘束されて動けなくなっている。
「何者だ?」
低く殺気を含んだ声で誰何されても、喉が押し潰されて声が出せない。
パトリスはそこでさっとクラリスの全身を観察して、高貴な身の令嬢であると判断したようで首への圧迫を緩めたものの、代わりに肩を強く押さえて拘束を解こうとしない。
ようやく喉を解放されたクラリスは激しく咳き込んだ。
殺さない程度ぎりぎりでの首への圧迫は、クラリスの喉を傷めるには十分だった。
そこにクラリスの咳き込む音が聞こえたのか、誰かが急ぎやって来る足音が聞こえ、それから小さな悲鳴が上がる。
涙に滲んだ目でその悲鳴の正体をクラリスが確かめると、姉のケリーナとその友人だった。
友人の女性は先ほどのクラリスの失態を見ていた人たちの中の一人だとぼんやり思い出す。
どうやらクラリスのことをケリーナに教えて、一緒に捜しに来てくれたのだろう。
「まあ、何てことを……」
「クラリス? それにパトリス殿下? ここでいったい何を……?」
「それは――」
声が出せないクラリスの代わりに、パトリスが不機嫌を隠さない様子で答えようとした。
しかし、それは低く威厳のある声が割り込んできたために途切れてしまった。
「これは何の騒ぎだ?」
「――陛下……」
突然の国王陛下と、その腕に手を添えた王妃陛下の登場に、ケリーナと友人の女性は膝を軽く折って迎えた。
両陛下の少し後ろには護衛騎士が控えている。
おそらくこの場に、ケリーナの友人がいなければ、パトリスが不審者だと思ってクラリスを押さえつけたという説明で片がついただろう。
だが女性は、今自分が目にしたことをすぐにいつもの下世話なものへと結び付けて、国王に訴えた。
「陛下、私はイレブニア伯ジェームズ・キャラウェイの妻、イヴォンヌと申します。私から状況を説明させていただいてよろしいでしょうか?」
「……許す」
「ありがとうございます。私はこちらのブレッヒ子爵夫人であるケリーナと、彼女の妹でボナフェ前伯爵の令嬢であるクラリスを捜しておりました。ちょっとした騒動があって、クラリスは動揺しておりましたので……。それがまさか、このようなことになっているとは……」
イヴォンヌはそこで言葉を切り、意味ありげにパトリスとクラリスを見た。
今ではクラリスもすっかり解放されていたが、幹に強く押さえつけられたことによって髪の毛は乱れ、頬は紅潮しており、目は涙に滲んでいる。
しかも、近くにはクラリスの靴が落ちているのだ。
恋人同士の睦み合いにも見えるが、一歩間違えればクラリスは襲われかけたようにも見える。
普通にこの状況を目にして、誤解しないほうがおかしいくらいのまずい状況だった。
それでも、クラリスは違うのだと訴えたかった。――声さえ出せれば。
いつもは庇ってくれるケリーナもショックを受けているらしく、ただ青ざめてクラリスを見ているだけ。
そこで王妃がさっとクラリスに近づき、自身が纏っていたショールをクラリスにかけて守るように抱きしめ、パトリスを真っ直ぐに見つめた。
「パトリス、何か言うことがあるだろう?」
国王のその言葉は、弁明の機会であり、パトリスとクラリスを醜聞から守るために差し伸べられた救いの手でもあった。
イヴォンヌさえこの場にいなければ、パトリスはありのままに答えただろう。
しかし、イヴォンヌの目は言い逃れは許さないと告げており、パトリスの返答がどんなものでも自分の解釈を曲げるつもりはないと伝えていた。
パトリスにとっては結婚などするくらいなら、自分が卑怯者だと罵られてもかまわなかった。
それでも、兄夫婦に自分の不名誉な噂で迷惑をかけるわけにはいかない。
ただでさえ、ここ最近は馬鹿な女たちが、妬みから義姉である王妃に対しての皮肉や嫌みをわざと聞かせているのだ。
さらにはパトリスの心を動かしたものがあった。
決断は一瞬。
「――私は、こちらのクラリス嬢に求婚しました。そして了承していただけたことが嬉しく、つい抑えがきかなくなりました。お騒がせして申し訳ありません。また危うくクラリス嬢の名誉を汚すところでした。重ねてお詫びいたします」
いつにない饒舌のパトリスに向けて、国王は目を細めて見つめた。
王妃でさえ驚き、空色の目を見開いている。
ケリーナはまだ呆然としており、イヴォンヌでさえ初めて聞いたパトリスの声に驚いているのか何度も瞬きを繰り返していた。
その中で、クラリスは必死に否定しようとしたが、声が出せない。
「……クラリス嬢、あなたはパトリスの求婚を受け入れたのか?」
最後の機会を国王はクラリスに与えたが、それを遮ったのはパトリスだった。
まだ体が痺れて上手く動けないクラリスを王妃から奪うようにぐっと引き寄せ、冷たい視線でクラリスを見据えた。
「もちろんです、陛下。私をお疑いですか?」
「……いや。それなら――祝い事は早く皆に知らせたほうがいい。今からでも会場に戻って発表してはどうだ?」
クラリスから国王へと視線を向けたパトリスの灰色の瞳は決意に煌めいている。
国王は諦めのため息を吐き、それからクラリスにとっては拷問にも等しいことを口にした。
王妃は抗議しかけて、結局は思いとどまった。
ここで発表しなければ、イヴォンヌの口から今回のことが広まり、悪意ある憶測がクラリスをさらに傷つけることになるだろう。
それからのことは、クラリスにとっては悪夢を見ているようだった。
皆から祝福を受けながらも、羨望と敵意ある視線にさらされ、夫となるはずのパトリスも目を細めて何かを――文句の一つでも言いたげな視線を向けてくる。
その中でケリーナの代わりに、ずっと守るように傍にいてくれる王妃だけが、クラリスにとって唯一の味方であり救いだった。




