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「ねえ、お聞きになった?」
「あら、何を?」
「ボナフェ伯爵令嬢のことよ」
「ああ、あのダークホースね! 彼女が彗星の如く現れたせいで、今年デビューした娘たちはみんな霞んでしまったらしいわね。お気の毒に」
「そうなのよ。彼女の後見人の一人でいらっしゃるブレッヒ子爵のお屋敷には、連日求婚に訪れる紳士で列を成しているそうよ。今年は色々と行事が重なるからと、うちの娘のデビューは来年にして正解だったわ。娘には恨まれたけれどね」
「まあ、そうだったの。賢明な判断だったわねえ。とはいえ、まさか彼女のような娘が現れるなんて、誰も思っていなかったもの。ブレッヒ子爵夫人なんて、鼻高々な様子だそうよ」
「でも嬉しいことに、彼女は未婚の娘たちの敵にはなり得ないのよね」
「あら、どうして?」
「なんでも、体が弱くて、結婚には向かないんですって。ただ一度だけ、王都での社交シーズンを過ごさせてあげたかったとか。どうやら彼女は生まれた時からずっと体が弱くて、伯爵家よりももっと田舎で育ったらしいわ。確か一年と少し前に、双子のお兄様を病気で亡くされているのよ」
「まあ、なんてお気の毒な……」
「本当にねえ」
今年の社交シーズンが開けてからしばらくして、あちらこちらで交わされるようになった会話。
それはもっぱらボナフェ伯爵令嬢の話であり、夫人たちの誰もが彼女の境遇に同情しつつも安堵していた。
ボナフェ伯爵令嬢は今年の話題をさらいはしても、来年からは出てこないのだ。
昨年は戦後間もないために、社交界でも華々しい催しは控えていたが、そのぶん今年は色々と盛大に行われる。
その一番の目玉が、エスクーム王国との和平交渉締結を記念した式典の後に開催される舞踏会だった。
三年前、エスクーム王国がカントス山脈を越えて侵攻を開始したことによって始まった戦は、モンテルオの同盟国であるブライトン王国が突如としてエスクーム王国に侵攻を開始したことによって終わった。
ブライトン侵攻の知らせに動揺したエスクーム軍は、フェリクス国王率いるモンテルオ王国軍に簡単に敗北を喫したのだ。
そのショックからか、当時のエスクーム国王は急逝してしまい、弟であった現国王が慌ただしく即位することになったため、和平交渉は難航し、ようやく無事に締結されたのが一年前であった。
ようやく国勢も安定してきた今年は、サクリネ王国との戦から続いた苦難の時を一緒に乗り越えてくれた国民に、フェリクス国王からの労いと感謝の気持ちを込めた祭りなどが各地で開催されている。
さらに王都で開催される記念式典では、城の広場を解放して国王夫妻がバルコニーに姿を見せるとあって、城下の人々はとても楽しみにしていた。
そして噂のボナフェ伯爵令嬢であるクラリスも、楽しみにしている一人だった。
街の人々と違って、クラリスは舞踏会で直接拝謁することができるのだ。
その名誉に胸を躍らせ、今か今かと指折り数えていた。
なぜなら、モンテルオ国王夫妻は、若い娘ならだれでも――いや、今や国中の女性が胸をときめかせる物語の主人公として、吟遊詩人たちに語られているからだ。
エスクームとの戦は忌むべきものだったが、そんな戦の中で起こった奇跡のような国王夫妻のロマンス。
それは、エスクーム王国の動向をいち早く察知した若き王フェリクスが、北の隣国・ブライトン王国に同盟を求めたことによって始まる。
ブライトン王城の舞踏会で初めて出会った王女レイチェルとフェリクス国王は、お互いに一目で恋に落ち、ブライトン国王の許しを得て結婚したのだ。
その後に始まった戦に、王妃となったレイチェルはブライトンからの援軍だけでなく、自分の私兵をも動かして卑怯なエスクーム軍に立ち向かった。
そんな王妃の懸命な姿に、勝利の象徴とされる鷹までが味方をし、王妃の戦勝祈願のお守りを戦場の国王の許へ届けたのは有名な話である。
さらには、バイレモ地方の北側にある街にエスクームの賊が襲った時には、王妃自身も私兵と共に戦い、その美しく気高い姿に魅入られた動物たちまでもが王妃を助け、賊を蹴散らしたと伝えられていた。
(王妃様は月の女神様のように美しいと吟遊詩人たちは歌っているもの。それに国王陛下はとても凛々しく、お若いのに威厳に満ち溢れているって。パトリスと――パトリス殿下と似ていらっしゃるのかしら。ああ、楽しみだわ……)
いよいよ記念式典の日になり、王都中がお祭り騒ぎに浮かれている中、同じようにクラリスも浮かれていた。
晩餐会やそれに続く舞踏会は好きではないが、ここまで我慢してきたのはこの日のためだったのだ。
いよいよパトリスに会える。
この日のためだけに、淑女のマナーを身につけ、舞踏会でも踊りたくない相手と踊ったりもして恥をかかないように練習した。
別にパトリスと踊りたいわけではない。
パトリスが女嫌いだということは有名で、王都に出てすぐに耳にした。
最初はショックを受け落ち込んだが、やがて当初の目的を思い出したのだ。
三年前のビバリーの森で剣の手合わせをお願いした少年は自分だと打ち明けて、驚かせたかったのだと。
騙したと怒りを買うはずはないだろう。
きっとあの時想像した通り、「そうか」と一言だけ無表情に答えてくれるのではないか。
ひょっとしたら、かすかに口角を上げる、あの笑顔を見せてくれるかもしれない。
この計画が上手くいってもいかなくても、明日には姉に伯爵領に戻ると告げよう。
もう十分に王都での生活は楽しんだ。――楽しんだと言えるかは別として。
アミラに今までで一番美しく支度を整えてもらい、部屋を出て階段を下りると、姉夫妻が待っていた。
そして義兄であるブレッヒ子爵から感嘆の目で見つめられ、姉のケリーナからはとても綺麗だと褒められる。
あの父が決めた結婚ではあったけれど、姉夫妻の仲は良好で、クラリスはそれが嬉しかった。
それから、ようやく王城にたどり着いたクラリスは、かなり疲れていた。
馬車寄せへ向かう馬車が渋滞しており、ゆっくりと進むことによって期待と不安を煽り、クラリスの胸は押し潰されそうになっていたのだ。
それでも馬車から下り、一歩城の中へと足を踏み入れると、感嘆せずにはいられなかった。
今まで、王都に来てから色々なお屋敷に招待され訪問したが、これほどに威厳があり壮麗な建物は初めてだった。
豪華さで言うなら、他の屋敷のほうが上回るかもしれない。
だが、歴史と威厳を感じさせる佇まいは、この国そのもののようで、一国民として誇らしくなる。
招待客の列に導かれるように舞踏会場に足を踏み入れた途端、クラリスの周囲を紳士たちが囲んだが、ダンスの申し込みを受け入れることはなかった。
一度だけ、義兄と踊れば十分だろう。
そもそも他の人にぶつかることなく踊れるのかと、不思議に思えるほどの人込みだった。
やがてファンファーレが鳴らされると、クラリスの胸も高鳴る。
いよいよなのだ。
王城の侍従が高らかに国王夫妻の入場を告げた。
そして両開きの扉が開かれ現れた二人の姿に、クラリスは息を呑んだ。
まさか本当に、これほどに美しい二人がいるのだろうかと。
レイチェル王妃陛下は吟遊詩人が歌う通りに、月の光を編み込んだような銀色の髪に、青空のような澄んだ瞳、艶めく紅い唇は瑞々しく、白い肌にひときわ映えている。
フェリクス国王陛下も、黒曜石のような黒い髪に、意志の強そうな灰青色の瞳。少々険しい表情は王妃陛下を見つめる時には驚くほど優しいものに変わる。
誰もが二人の姿に感嘆のため息を漏らし、見惚れた。
しかし、続いて侍従が告げた王弟殿下の名前にはっと我に返り、一部からは黄色い声が上がる。
リュシアン殿下と、パトリス殿下の登場だった。
クラリスは食い入るようにその姿を見つめ、三年前と何も変わっていないことに安堵とよくわからない感情に襲われていた。
薄い茶色の髪に、無機質な灰色の瞳。目の前の煌びやかな光景さえも見えていないかのように、無表情を崩さず、国王夫妻の少し後ろに立つ。
そこでクラリスは気付いた。
何も変わっていないわけがなかったのだ。
パトリスがクラリスに気付くはずがないほどに、二人の距離はこんなにも遠くなってしまっている。
今まで夢見ていたことがどんなに愚かなことだったのかと、むしろあの三年前の日々が夢だったのだと、クラリスは現実を突きつけられたのだった。




