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 ――三年後。

 十八歳になったクリス――クラリスはボナフェ伯爵の屋敷に戻って、静かに暮らしていた。

 それはクラリスだけではない。

 喪に服しているために屋敷全体が息をひそめているように静寂に包まれているのだ。


 あの日、パトリスが忠告した通り、あれからすぐに戦は始まり、バイレモ地方だけでなくモンテルオ王国全体が混乱状態に陥った。

 その最中にクラリスの父であるボナフェ伯爵が倒れ、卑劣なエスクーム王国に対し、モンテルオ王国が無事に勝利を収めたのを見届けることなく、まもなく息を引き取った。

 戦時中ということもあり、伯爵の葬儀は身内だけでひっそりと行われ、生前の遺言通りに爵位等の諸々はまだ幼いテメオが継いだ。


 もちろんテメオが成人するまでは、カリエール卿などの何人かが後見人として指名されている。

 それから半年後、モンテルオ王国内が勝利に沸く中で、ボナフェ伯爵の長男であったクリス・デルボネルが亡くなった。

 葬儀は伯爵よりもさらに質素に行われ、会葬者は数人。

 その中でクリスの母であるジルダに寄り添う若い女性がいたことに気付いた者はいない。


 そして葬儀から数日後、テメオの後見人たちは集まると、テメオに贈与されたクリスの遺産をそのままとある女性に与えることに決めた。

 さらには伯爵家の家系図に新たに名前が記されたのだ。――クリスの双子の妹として〝クラリス〟の名が。

 産まれてすぐにクラリスがカリエール家に預けられていたという話を、疑う者はいなかった。

 前伯爵の宣言は有名であり、ことあるごとに「これ以上、娘はいらぬ」と口にしていたからだ。


 男児であるクリスが生まれたとはいえ、ジルダがクラリスの身を心配して隠したとしても仕方ないだろうと誰もが思い、複雑な生い立ちのクラリスに同情した。

 それどころか、クリスの死から数ヶ月後に伯爵家に現れたクラリスの姿に、屋敷に長年仕えていた者たちは涙したくらいだった。

 その姿はどこからどう見ても淑女そのものであったが、わずかに赤みがかった金色の髪に、碧色の瞳はクリスの幼き頃の姿を思い出させたのだ。


 あの日から一年が経った今も、クラリスは黒い服を着て日々を過ごしていた。

 そのことを心配したのはジルダだ。

 六年前に少年として別れたのが嘘のように、今のクラリスは淑女然としている。

 一緒に過ごせば楽しい話し相手であり、刺繍の腕もずいぶん上達しており、どこに出しても恥ずかしくないどころか、誇れる娘にクラリスは成長していた。


 そばかすの散っていた鼻や頬は、今は白磁のように白くなめらかだ。

 本人は結婚には興味がないと言っているが、社交界に出てそれなりの殿方に出会えれば考えもかわるかもしれない。

 それよりもきっと、求婚者が後を絶たないだろう。

 そう考えると楽しくなり、我慢できなくなったジルダは手紙を書いた。


 あて先は義理の娘であるケリーナ・ブレッヒ子爵夫人だ。

 ケリーナは身内の中で、義理の妹として突然現れたクラリスに対しても疑うことなく、一番に同情を示してくれた人物である。

 少々俗っぽいところもあるが、クラリスを託すには安心できる相手であった。


 夫を亡くしたジルダは、三年は喪に服さなければならないため、通常なら社交界にまだ出ることができないのだ。

 ケリーナからはすぐに色よい返事が届いた。

 そこでジルダは、クラリスを部屋へと呼んだ。


「――社交界、ですか?」

「ええ、そうよ。あなたはもう喪が明けたんだから、いつまでも私に付き合って屋敷に籠っている必要はないわ。王都へ行って楽しんでいらっしゃいよ」

「お母様、私は――」

「別に、他のお嬢さん方のように、結婚相手を探しなさいって言っているわけじゃないの。一度くらいは王都の華やかな社交界を楽しんでもいいと思わない? つまらなければ途中で帰ってきてもいいわ。それに何より、今シーズンはエスクーム王国との和平交渉締結一周年を記念して、王族方が参加される盛大な催しもあるそうよ」

「王族……」


 断ろうとしたクラリスに、ジルダは畳みかけるように続けた。

 その中の言葉の一つに反応して、クラリスの様子が変わったことに気付き、ジルダの説得は励ましに変わる。


「あら、気後れしなくてもいいのよ。あなたは立派な淑女になったわ。どこに出ても立派にやってのけると私は信じているの。ボナフェ伯爵令嬢として堂々としていらっしゃい」

「そう……ですね」


 はにかんだ笑みを浮かべるクラリスは、それはもう愛らしく、ジルダは確信した。

 きっと今シーズンの社交界の華になるのはクラリスに間違いないと。

 ブレッヒ子爵は求婚の許可を求めて連日屋敷に訪問する紳士たちをさばくのに苦労するだろう。


「では、さっそくあなたの義姉のケリーナに手紙を書くわね。ドレスは王都で仕立てることになるから、早めに出発したほうがいいわ。あなたはエネとアミラにこのことを伝えてきなさい」

「……わかりました、お母様」


 そう言って楚々と出ていったクラリスを見送ったジルダは、いったいどういう心境の変化かしらと考えた。

 だが、そんなことはどうでもいい。

 ようやく娘に――不遇の扱いをしてしまったクラリスに、普通の娘らしい楽しみを与えてあげられる。


「ネリー! ネリー!」

「はいはい。奥様、何でしょう?」

「いよいよなの! ようやくよ! やっと、クラリスを社交界にデビューさせられるのよ!」

「まあ! なんてこと! こんな素晴らしい知らせだなんて! エネもアミラもきっと喜んでいますよ!」

「そうよね! ああ、どうしましょう。クラリスはまだ結婚しないって考えは変えていないみたいだけど、素敵な男性が現れればきっと……」


 両手を胸の前で組み、夢見る少女のようにジルダはうっとりと呟いた。

 それは幼い頃のジルダの夢でもあったのだ。

 男兄弟に揉まれて育ったジルダだったが、いつか意地悪な兄や粗暴な弟とは違って、素敵な王子様が迎えにきてくれると。

 ネリーは込み上げてきた涙をそっと拭って、一緒にジルダと喜んだ。


 一方のクラリスは、部屋へと戻りながら複雑な心境に陥っていた。

 期待と不安。

 社交界デビューなどしたくはない。

 だがもう一度だけ、パトリスに会いたかった。

 会って、打ち明けるのだ。――あの森で過ごした自分は、少年ではなく、本当は女だったのだと。


 おそらくパトリスなら騙したと怒ることはないはずだ。

 ただあの無表情な顔で「そうか」と一言だけ。

 その時の光景が目に浮かぶようで、クラリスは自然と笑っていた。

 やはり期待のほうが大きいらしい。


「エネ! アミラ! 私、王都に行くことになったわ!」

「はい?」

「王都、ですか?」


 部屋に入るなり、乳母と乳姉妹であり侍女のアミラに、クラリスは告げた。

 何のことかわからないといった様子の二人に詳しく説明すれば、二人は顔を輝かせて喜んだ。

 それからこうしてはいられないと、まだ早いとのクラリスの制止も聞かずに、旅支度を始めたのだった。




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