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プロローグ


「ブレヴァル公爵閣下、公爵夫人、ご成婚おめでとうございます!」


 クラリスが震えながら署名した結婚神誓書が掲げられると、礼拝堂に集まった参列者から声が上がった。

 そして拍手が起こるが、華々しい結婚式にはありえないほどにまばらに聞こえる。

 この結婚がどれほど皆に歓迎されていないか、改めて突きつけられたクラリスは唇を噛みしめた。


「ご覧になって、この豪華なお式。本当に、どこまでずうずうしいのかしら」

「殿下が――いいえ、公爵閣下がこのような派手なことを望まれるわけがないもの。きっとあの女狐の希望ね」

「お気の毒な閣下。あれほどに女性を避けていらっしゃったのに、まさかあんな小娘の罠に嵌まるなんてねえ」

「いったいどんな手を使ったのやら……」

「あら、閣下は女性を避けてはいらっしゃったけれど、それでも紳士ですもの。怪我をしたふりか何かしたんじゃないの?」

「きっとそうね……」


 聞こえよがしに噂に勤しむ参列者たちの間を通って礼拝堂を出ることが、クラリスにとってどれほどの拷問であろうと、夫となったブレヴァル公爵――パトリス王弟殿下は助けてくれない。

 まるでクラリスがその腕に手を添えているのにも気がついていないかのように、いつもの無表情な顔を真っ直ぐ前へと向けて歩いていく。

 その歩幅は大きく、クラリスは繊細で美しく重いドレスを懸命に引きずって、パトリスに合せてスカートの中で小走りしながらついていった。


 クラリスへの拷問は、王城で催された披露宴の間も続いた。

 今日一日、クラリスはパトリスの言葉を一度も聞いていない。

 兄である国王陛下に話しかけられて何か答えているのはわかったが、ぼそぼそと低い声が聞こえただけ。

 しかし、どんなにつらくても態度に見せるわけにはいかなかった。

 母であるボナフェ伯爵未亡人や義姉であるブレッヒ子爵夫人、そして王妃陛下が心配そうな視線を向けてくるのだ。

 そのため、クラリスはどうにか幸せに見えるように笑顔を張り付けていた。


 それがまた他の貴婦人たちの反感を買ったらしい。

 さり気なく近づいてきては、嫌みの言葉を浴びせていく。

 そんなことができるのも、結婚披露宴だというのに最初のダンス以来、花嫁の傍に花婿がいないからだ。

 無防備な状態のクラリスに、どうやってパトリスを結婚に追い込んだのかとあからさまに質問してくる女性たちはまだよかった。

 出席者たちに酒が入ってくると、次第に紳士とされている男性陣までが近づいてきて、花嫁をダンスに誘い、断る術を知らないクラリスをフロアに連れ出しては、いやらしく体を触ってくる。

 花嫁の母や義姉として忙しい二人に助けを求めることはできず、本来なら花嫁を守るべき花婿は傍にいない。


 とある酔っぱらった男性の一人が、大声で「このように結婚を早めたのは、やはりそれなりの理由があるのでしょう。数か月後が楽しみですな」と言い、周囲の笑いを誘った。

 そんな露骨な言葉にも反論できず、クラリスはただその場からもごもごとわけのわからないことを口にして逃げるしかなかった。


 全て自分のせいだとわかっている。

 自分の軽率な行動がこのような事態を招いてしまったのだと。

 それでもクラリスは限界で、声をかけてくる人たちを張り付けた笑みで半ば無視し、人ごみをどうにか抜けて扉まであと少しというところで、誰かに腕を掴まれてしまった。

 お願いだから放してほしいと、泣きそうになりながら振り返ったクラリスは、その相手を目にして動きを止める。


「パトリス、殿下……」

「閣下だ」


 結婚した王族は正式に王籍を抜ける。

 そのため殿下と呼ぶのは間違っていたのだが、パトリスは冷たく指摘しただけで、好奇の目に満ちたその場からクラリスを連れ出した。

 背後から新婚夫婦を冷やかすような声が追いかけてくる。

 だがパトリスは振り返りもせずにクラリスの腕を掴んだまま扉を抜け、会場に比べて驚くほど静かな廊下を進んだ。

 あれほど扉の外に出たかったのに、今のクラリスはとても怖かった。


「あの、陛下にご挨拶を――」

「もう終わらせた」


 両陛下への退室の挨拶は、パトリス一人で行ったらしい。

 普通なら花嫁と二人きりになるのが待ちきれないためだと思うだろうが、両陛下もそうではないとわかっているはずだ。

 無言のパトリスに、クラリスも黙ったまま従うしかなかった。


 そして待っていたブレヴァル公爵家の家紋が入った馬車に乗り込んだ時も、クラリスは口を閉じたままだった。

 どこに向かうかなどと野暮なことは訊かない。

 整備された道を進む馬車の軋む音、馬の蹄の音だけが静かな車内に響く。

 ブレヴァル公爵の――パトリス殿下の女嫌いは有名だった。

 しかし、クラリスは生家があるボナフェ伯爵領地から王都へ出てきて初めて知ったのだ。


 あの時なぜ自分は、自分だけは違うと思ってしまったのか。

 自分の正体を打ち明ければきっと、パトリスは笑ってくれると、そう信じていた。

 そんな愚かな自分が引き起こしたことがこの結果である。

 悔やんでも悔やみきれない。

 自分の将来に対してではなく、こんな茶番にパトリスを巻き込んでしまったことがつらかった。


 やがて馬車が止まり扉が開かれると、パトリスはさっさと一人で下りてしまった。

 別に期待していたわけではないので、クラリスは気を引き締めて従僕の手を借りて馬車から下りる。

 そして地面に下り立つと、荘厳な造りの屋敷を見上げた。

 やはりブレヴァル公爵邸のようだ。


 とはいっても、王都での滞在用のもので、公爵領にはもっと立派な屋敷があるのだろう。

 気がつけばパトリスは数段ある石段を上っており、クラリスを見下ろして待っている。

 慌ててスカートを掴み、クラリスが石階段を上ると、執事をはじめとした使用人がずらりと並んでいた。

 だが、その顔はどれも冷ややかなもので、新しい女主人を喜んで迎えるようには見えない。

 それどころか、執事にいたっては侮蔑の色さえ浮かべていた。


「ようこそいらっしゃいました。私はこのブレヴァル邸の執事を務めさせていただいております、シルヴェスと申します。何かございましたら、私にお申し付けくださいませ」


 シルヴェスの言葉には感情がこもっておらず、さらには暗に細かいことでパトリスを煩わせるなと告げていた。

 しかもパトリスはその間、黙って立っているだけで、クラリスを紹介することさえしない。


「……よろしく、シルヴェス。クラリスです」


 仕方なく自分で名乗ったクラリスを、パトリスはちらりと見ると、これで終わったとばかりに背を向けて屋敷の中へさっさと入っていってしまった。

 クラリスは自分の足で屋敷に入り、パトリスについていこうとしたが、その前にシルヴェスが立ちはだかる。


「他の使用人についてはまた機会があれば、おいおい紹介いたします。それでは、クラリス様はお疲れでしょうから、お部屋にご案内させていただきます。お部屋にはクラリス様がお連れになった侍女が待機しておりますので、ご安心ください」


 相変わらず平板な声のシルヴェスに案内されながら、屋敷中央の階段を上っていたクラリスはふと気付いた。

 シルヴェスはクラリスのことを客人のように呼び、本来呼ぶべき〝奥様〟と口にしないのだ。

 それだけ自分は受け入れられていないのだと思うと、クラリスは悲しみよりもおかしくなってきていた。

 思わずこみ上げてきた笑いをどうにか抑え、自分は公爵夫人になったのだから、せめてパトリスに恥をかかせないようにだけはしなければと、背筋を伸ばす。

 しかし、部屋に入り、乳姉妹であり侍女のアミラを目にした途端、気が緩んでしまった。


「アミラ……」

「クラリス様……いえ、奥様。今日はお疲れになったでしょう? 湯の用意をしておりますので、ゆっくりなさってください」

「……ありがとう。エネは?」

「母はもうすでに浴室で待機しております。ですが、先にお茶になさいますか?」

「いいえ。この窮屈なドレスを早く脱ぎたくて、たまらないの」

「かしこまりました」


 アミラはくすくす笑いながら、浴室へとクラリスを案内した。

 浴室ではアミラの言っていた通り、エネが湯浴みの準備をしている。


「まあ、クラリス様。今日はお疲れ様でした。大変でございましたでしょう? ですが、私とアミラがついておりますからね。もう安心なさってくださいませ」


 アミラの母でクラリスの乳母であるエネの言葉に、ずっとこらえていた涙がついにこぼれた。

 二人ともクラリスが今日一日、どれほどつらい思いをしていたのか知っているのだ。

 さらには、この屋敷の使用人たちの態度にも気付いているのだろう。

 すぐにクラリスは手の甲で涙を拭うと微笑んだ。


「ごめんなさい。ちょっと気が抜けちゃったわ。でも泣くのはあとね。とにかくこの窮屈なドレスを脱がせてもらわないと」

「クラリス様……」

「ええ、もちろんですとも。今日はコルセットをきつく締めておりましたから、本当におつらかったでしょう」


 クラリスがわざと明るく言うと、アミラは涙を滲ませていたが、エネは笑って答えてくれた。

 ドレスを脱いでゆっくり湯に浸かったクラリスの体から、緊張が徐々に解けていく。

 この後の夜のことは、一応母から聞きはしたが、正直なところ心配はしていなかった。

 夫婦となった男女の営みに関しては驚くどころか、恥ずかしくて本当なら逃げ出していたかもしれない。

 だが、クラリスにはわかっていたのだ。

 パトリスが妻となったクラリスの寝室に訪れることなどないということを。


 だから翌朝、大きなベッドで一人目覚めた時も気にしなかった。

 パトリスは跡継ぎを必要としていない。

 そのため、パトリスがクラリスの寝室に訪れることはこの先もないだろう。

 クラリスは大きく息を吐いてベッドから起き出すと、鈴を鳴らしてアミラを呼んだ。

 そして朝の支度をしながら、朝食はどうすればいいのかと訊ねた。


「朝食室でおとりになることもできますが、この部屋に運ばせたほうがよろしいかと思います」

「……そうね。じゃあ、お願いするわ」


 昨夜の冷たい使用人たちの顔を思い出し、アミラの提案を受け入れたクラリスはそこでさり気なく、一番気になっていることを訊いた。


「ところでパトリスで……公爵閣下はどちらにいらっしゃるのかしら? これからのことをお訊きしたいのだけど」


 自分がこれからどう振る舞えばいいのか、公爵夫人として社交の場に出るべきなのかどうか、夫婦一緒に出席しなければならない行事などはあるのか知りたかった。

 すると、それまで黙っていたエネが、一度息を吸ってからクラリスの疑問に答えてくれる。


「公爵閣下は今朝早く、軍に戻られたそうです」

「……え?」

「クラリス様は――奥様はブレヴァル公爵領へ向かってほしいと。そこで過ごしてほしいと公爵閣下はお望みなのだと、執事のシルヴェスさんがおっしゃっていました。ですので、今日にでも発てるよう、公爵領に向かうための馬車やその他諸々の準備は整えているそうです」

「今日にでも……」


 自分がお飾りの妻になることはわかっていた。

 きっと公爵領に捨て置かれることになるだろうことも。

 だけどこんなにも早く、その日が来るとは思ってもおらず、クラリスは呆然として呟いたのだった。




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