序章
透明。
初めてその言葉耳にした時、なんて素敵な言葉なのだろうと思った。
どんなに素材の良い絵の具を混ぜ合わせても、透明という色彩は出せやしない。
否、透明と言葉はどのカテゴリーにも当てはまらない独立した言葉なのだろうか。
透明。
それは不可視で有りながら言語として可視出来るという矛盾する存在。
目の前にあるものを、無ではなく透明だと初めに表現した人は一体どれほど豊潤な心を持ち合わせていたのだろう。
私は今日もまた、透明を求めて旅に出る。
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深夜のバーで常連客である酒飲みがマスターに尋ねた。
「マスター、虹の国に憧れる奴らについて、どう思う?」
店内の薄紫色のライトを受けて鈍く光るガラスコップを拭きながらマスターは、何も言わず苦笑する。
「俺は馬鹿な奴らだと思ってるよ」
男は無感情な声でそう言うと再び酒を仰いだ。空になったコップをコースターの上に丁寧に置き、アルコール臭漂う息を大きく吐く。
「芸術なんて所詮は娯楽さ、なんの足しにもなりゃあしない」
「そうは言いますがね」
マスターはゆっくりと口を開き、柔和な表情で男に微笑みかけた。
「貴方の働いている建築業も、フランスでは第一の芸術と言われております。つまり、貴方もある意味で芸術に関わるものと言えるのかもしれませんよ?」
マスターの芸術家を擁護する発言に男は怒るでも反論するでもなく、半開きになっていた口を強く横に結んだ。
「マスター……、お勘定頼む」
「はい」
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人間には、合理的に生きる者と非合理的に生きる者がいる、とアリンは思った。
他人と共有する時間長さで金や地位を得ることがほぼ一般常識となっているこの社会において、個人の感性が重要視される芸術は相反する存在だ。存在しなくても良いものを必死で創り出そうとする者が、そんな一般的常識を生きる者たちに揶揄される事はこの道を通るからには避けて通れない道である。それでも、彼らの芸術に対する熱意と情熱が冷めぬ限り、その道は一生涯途切れる事のない道であろうと、アリンは思った。
絵画、音楽、建築、陶芸品ーー最も優れた芸術作品が集う美術館が街中に陳列する国、虹の国。
芸術家なら誰しもが憧れ、生きている間に一度は訪れたいと願う者も多い。
虹の国について知ったのは確かリトからだったか。アリンは「なぜ人間は、 何かを創りたがるのだろう」というふとした疑問に対するリトの返事を思い出す。
『それはねアリン。自分の中の、これを生み出したいという感性が抑えきれないからよ』
『よく、分からないな』
『それは貴方がそちら側に生きる人間だからでしょうね』
『機械人間で悪かったね』
『何も悪いとまでは言ってないでしょう。あのね、アリン』
『うん?』
『私が小さい頃から音楽を習っていたのは知っているでしょう? 私、自分の生み出すメロディーが好きなの。いつ頃からかそれを誰かに見てもらいたいと思うようになったのだけれど、でもこの国じゃその願いは叶わない。様々な芸術に関して絶対的評価が成されるのは、虹の国』
『虹の国?』
『ええ。色とりどりの芸術作品が四季折々、老若男女の手によって尽きることなく生み出されていく芸術の国。虹の出た直後にしか道筋が現れないことから虹の国と呼ばれるの。虹が現れた際に森林内でとあるルートを歩くの。一定以上の芸術に対する才能或いは情熱が無いとそのまま森を抜け出てしまうとのことだわ』
『その国に、リトは行きたいのかい?』
『人生は一度きりなんだもの。後悔はしたくないわ』
アリンは彼自身が撮った、彼女の最後の写真をじっと見つめた。
写真立ての中で風に攫われぬように帽子を片手で押さえて此方に笑みを浮かべるリト。リトは突然吹き付ける強風に、帽子が攫われぬよう押さえつけてくるりと振り返ったその瞬間に撮ったものだ。白いワンピースのスカートもふわりと翻り、白くて細い足がちらりと見えている。
最初で、最後の彼女の写真。その後、彼女がどうなったかは知らない。
虹の国へ行くことはすなわち行方不明になる事も同義である。最近見かけなくなった彼女は無事虹の国に辿りつけたのか、はたまた虹の国へ行こうとする者を狙う賊に襲われたのか。
アリンは彼女の居場所を突き止める方法を知らない。知っていたとして、彼女を探しに行くのかと言われれば否だ。ただの知人あり、赤の他人である。だが、こうして彼女の住処だった所に訪問している以上は、彼も何かしら気にかかっているのも事実だ。
ふとアリンは空腹を感じて、写真立てを卓上に置いた。階段を降りていき、真正面にある台所に入り冷蔵庫を漁っていると、背後から声がした。
「アリン? 珍しいね君が此処にいるなんて」
「僕だってお腹は空くさ」
「あ、いや、そうじゃなくて。この家にいること事態がさ」
アリンに声を掛けた丸眼鏡でそばかすの青年ーーダルクは目を丸くさせてアリンを見上げた。同い年で有りながら、彼らの間には十五センチもの身長差がある。アリンが別段大きいと言うわけではない。ダルクに成長期が来なかったといったような身長で止まっている為である。
アリンはダルクに背を向けたまま冷凍を開けて中から冷凍パスタを取り出した。
袋を割いて皿に入れ電子レンジに入れてボタンを押す。内部が明るくなって凍っていたパスタがみるみるうちに熱によって解されていく。
「いやー、便利な世の中になったものだね」
「そうだね」
「……パスタは好きなのかい?」
「普通」
「こらこら。適当に会話を終わらせようとしない。それだから君は機械人間なんて言われるんだぞ」
「知ってる」
だから何? とでも続くように、アリンは毅然とした態度でレンジ内でクルクルと回る冷凍パスタを見つめている。
電子レンジが温め終わる音が鳴る。アリンは眉を八の字にして此方を見つめるダルクを余所に机に向かう。
引き出しから金属製のフォークを取り出して椅子に座る。ダルクもまた彼の真正面の椅子に座り、無表情でパスタを口にする友人を頬杖をつきながら見つめる。
「美味しい?」
「食べられなくはない」
「またそうやって」
ダルクは再びアリンを叱責しようとした時だ。玄関口の扉が開く音が聞こえ、誰かが上がってきた。ダルクはヤバいという表情を顔に出して素早く机の下に身を隠す。ダルクが完全に身を隠したと同時に髭を生やした大男が勢いよく扉を開け放った。
「こおら! どこ行きやがったダルク!!」
アリンは突然現れた人物に別段驚くといった事もなく、ちらりと大男を一瞥してそのまま食事を続けていた。大男は周囲をくるくると見回し、アリンの存在に気づくと最後の一口を食べ終え手を合わせる彼に近づく。
「なあアンタ。このくらいの背丈の丸眼鏡のガキンチョ知らねえか?」
二メートル強はありそうな大男は掌を水平にさせて腰と臀部の間辺りに当てる。アリンはもう少し小さかったような気もするがと思いながらも、肯定すれば面倒ごとになりそうな気配を察したアリンは首を横に振った。
「そうか。悪かったな食事中によ」
男は素直に受け止めて後頭部をかきながら台所を後にした。男はそのまま玄関口に向かうと勢いよく扉を閉めた。扉が壊れていないだろうかと見当違いなことを考えていると、ダルクがゆっくりと顔を出す。
「危ない危ない。サボってるのバレる所だった」
「今の人は?」
「俺の親方。休憩の合間にこっそり抜け出してきたんだけどさぁ……」
ダルクは溜息を一つ吐き椅子の上に三角座りで座り込む。
「いいよなぁ。リトは。親が芸術肯定派でさ」
幼い頃から音楽の才能がある事を知ったリトの両親はリトが3歳くらいの頃から家庭教師を雇い、才能を伸ばしていったという。虹の国へ行くと宣言した日には大いに喜ばれたそうだ、ということをアリンは彼女の部屋にあった日記を読んで知っていた。
ダルクはジッと対角線上にある窓の向こう側を見つめていた。今やアリンの住処になりつつある元彼女の家は森林内にある。アリンは冷蔵庫からストローのついたコーヒーパックを取り出し定位置に座る。
ダルクはふうっと長い溜息を吐いた後に、無言でストローを啜るアリンに目を向けた。
「俺の名前の由来、知ってるよね?」
「ジャンヌダルク」
ストローから口を話し即答するアリンに、ダルクは頷く。
「そうそう。フランスの救世主のようなものだけれど。はぁ、全くなんでおばあちゃんはこんな名前つけたかなぁ。名前負けしてんじゃん……」
決してそんなことはないと思う。アリンは言いかけて止めた。かれこれ数年の付き合いだが、目の前で机に突っ伏して項垂れるダルクが名前負けしていない事をアリンは知っている。ただ、本人が自覚していないだけで。
「……ダルクは」
「ん?」
「虹の国に行きたいのか?」
「もちろんさ!」
ダルクは水を得た魚のように勢いよく顔を上げた。少し下にズレ落ちた丸眼鏡を直しながら語り始める。
「虹の国は言わばこの世で最も素晴らしい国といっても過言ではないからね。芸術が栄えるという事、それは即ち平和が続いているということさ。争いが続いてたら文化は栄えない。よって、芸術も栄えないんだ。そして今は漠然とした平和が続いている! またいつ隣国が宣戦布告するか分からないからね。全く、真面目人間が多いのも問題だな本当に。ともかく俺は何としてでも生きている間に虹の国へ行きたいんだよ」
「はぁ……」
アリンは掌を握りしめて熱弁するダルクを見た。彼の翠色の瞳の奥にメラメラと燃える焔が写っているようだ。ダルクはスッと立ち上がる。
「こうしちゃいられないな。ありがとなアリン」
別に何もしていないのだが、と思いつつもアリンは肩をすくめてみせた。ダルクはそのまま颯爽と部屋を出て行った。
パタンと木製の扉が閉める音がすると、周囲はしんと静まり返った。時折、窓の向こう側から鳥の鳴き声が聴こえる。アリンは少し考え込むと、椅子から立ち上がる。扉を出て渡り通路を通り倉庫へと向かっていき、自身の荷物を漁る。アリンはその中から一眼レフを取り出した。
数年前にリトを撮ったのを最後にカバンの奥底に眠っていたものだ。少々埃が被っているものの使えなくはない。アリンはネックを頭に通してカメラをお腹の前に降ろす。携帯や財布などの必需品をボンサックに入れて肩にかけると倉庫を出た。
倉庫の外は森に繋がっている。アリンは数歩足を動かすと身体を反転させ倉庫とその奥にある元リトの住処を眺めた。
紺色の屋根には蔦が幾重にも重なっており、伸びすぎた蔦が屋根の下に降りて窓辺辺りを伝っている。白い石壁も所々にヒビができ、黒い線を作り上げている。アリンはぶら下げていた一眼レフを家に向けて撮った。写真を撮り終えカメラを降ろす。その時だ。
背後からささやくような少女の声が聞こえ思わずアリンは振り返った。
だが辺り一帯は森林が広がるのみ。アリン以外の人間はおらず、いるのは時折吹く風を心地好さそうに浴びる獣や鳥だ。気にかかったアリンは声がした方向へと向かっていく。同時にアリンはリトの日記に書かれていたとある内容を思い出す。
森林内で何処からともなく自身を呼ぶ声が聞こえたら、それは虹の国へ繋がるゲートが開いている合図だという。リトの日記曰く、その声は虹の国へ招待する妖精の声だそうだ。
妖精だなんて馬鹿馬鹿しいと思いつつも、やはり気になってしまうものは仕方ない。
ソツのない行動と感情を一切顔に出さない性格、真面目すぎるほどの態度から機械人間だと言われているアリンだが、内面はとても感受性豊かで喜怒哀楽の激しいごくごく普通の青年である。ともすれば、妖精の声を耳にしたアリンが次に移った行動は、リトの日記に記載された虹の国へ行く方法を思い出す事だった。
(確か、西方向に向かって五本目の木に触れれば……)
アリンは木の幹に触れて空を仰いだ。木漏れ日が地面を転々と照らす中、七色に煌めく特殊な光を目の当たりした。アリンは特殊な光を放つ場所へと近づき、その光を空で掴もうとした。
しかし、突然厚い雲がアリンの上空に流れ光が消えた。雲が流れ去った後も先ほどの光は現れず、そこにはなんら変わりない平穏な森林が佇むだけである。アリンは肩を落としつつもそれほど落ち込むわけでもなかった。
アリンは森を抜けて彼の住む街ーーウェイへと戻って行った。
超高層ビルが立ち並ぶウェイや昼夜人工の光で明るい。街行く人々はほとんどがスーツ姿で、或いは作業着姿で行き交う。アリンのように、少し小洒落た服を着ているだけで目立つ。アリンは周囲からの視線を気にかけず悠々と我が道を進んでいく。ウェイはつまらない街だ、とアリンは物心ついた頃から思っていた。
生まれた時から定められた将来にそって生きて子供を作って死んでいくだけの、平坦で平凡な街。決まったルートから外れようとすると周囲からおかしい奴だと拒絶され弾劾される。時には暴力に至ることもあり、規則から外れようとする者に対する暴力は改心するための手段として認められているため尚更タチが悪い。
誰もかれもが皆同じ顔で笑う。或いは死んだ目をしてただただ無表情に生きていく。この街はそんな街だ。
そして、そんな街に慣れてしまったこの自分もつまらない。そんな灰色な自分が簡単に美の国とも言える虹の国へ行けるとは思っていない。
生きているはずの生身の人間も、この世界では定められた動きをするロボットと同じだとアリンは思う。
科学技術が急激に進歩したこの街において、『遺伝子配列データ化による子育て支援』は義務化されている。生まれた時の体型、動作、両親の遺伝子配列などをデータ化し総合的に判断し、将来どのような人物像になるかをあらかじめ複数パターン予測して、社会のためになるルートを選抜し、両親たちはそのルートにそって育てていく。そんな街だった。いわば、楽に子育てをする為の取り扱い説明書のようなもので、この方法が取られた当初は倫理観だのなんだので猛反発されたが、月日が経つにつれ徐々に受け入れられ、多用されている現実だ。
今やこの街において子供の気持ちを思うという概念が存在しない、否、存在することは許されない。生まれながらにして誰しもが決定された運命。自我が芽生えた頃には既に社会の歯車になって動かざるを得ないのだ。自我を持ち己の意思で動き出した時点でそのものは社会的に死んでいく。そんな街ーーそして世界だ。
このような世界をおかしいと思う、或いは縛られるような人生はごめんだという人が、虹の国に憧れを持つのだろう。或いは、自身の技術と美意識に強い自身を持ち、尚且つ周りから誹謗中傷を受けても決して自身の意思を曲げない不屈の精神を持つ人物。そう、行方不明になったリトやこっそりと仕事場から抜け出したダルクのように。
そっと、アリンは首からぶら下げる一眼レフに触れる。彼の亡き祖父が残してくれた唯一の宝物であるそれは、何十年と月日を経ても変わることなく撮り続けられる。祖父に時代は今のように既に定められた将来があるわけでなく、誰しも自由に生きられたとのことだ。
ーーそんな時代に生まれたかったな。アリンは思う。
もしこのままデジタル化が進んで、このカメラを修理出来なくなると困るということで、幼い頃からカメラの修理の仕方も祖父に教わっていた。だが、アナログよりもデジタルを重視する時代になってからというもの、アナログ派はさらに肩身が狭くなっていた。それでお金を稼ぎ生きていける街ではない為、アリンは仕方なしに工場で汗水を流し、働いているというわけだ。
初めは事務職に就いていたアリンだったが、度重なるクレームや上司からの暴力に精神が病み、退職してしまった。その後、自分が生きていくために今の自分でも働ける場所を探し、今働く場所にたどり着いたという経緯である。退職してもすぐに誰かの為に働くという点において、この辺りの軌道修正は政府も目を瞑ってくれる。
「ちょっと君」
不意に誰かに肩を掴まれ振り返る。そこには向かい側の交番から出てきたのだろう警察官がいた。眉間に深いシワを作りアリンを見下ろす。
「なんだねその服浮ついた服は。まさか、違法侵入者じゃあるまいね? 身分証を出しなさい」
アリンは自身の服を見下ろした。少し丈の短いカーキ色のチノパンに、大きなロゴの入った黒いTシャツ、そしてその上には灰色のパーカーという格好だ。確かに、周囲のスーツ服や学生服などの統一された色彩の中でのこの格好は目立つ。
「わかりました」
アリンは肩にかけたボンサックから身分証を取り出した。警察は腰につけた黒いポーチから宅配社が使うような機械を取り出して身分証を写した。ピッと瞬時に音が鳴る。掌ほどの大きさの液晶にはアリンの顔写真、経歴、住所、氏名、働き先などが事細かに映し出された。警察は画面を指で操作して一つ一つ念入りにチェックをすると眉を八の字に下げ被っていた警帽を上げた。
「疑ってすまなかった。だが、そんな服を着て歩いては目立ってしまうよ。政府から贈呈されたスーツもしくは職業ごとの作業着があるはずだろう」
「すみません」
「これからは気をつけて」
「はい……」
アリンは警察から身分証を受け取りカバンに戻すと、そのまま自宅のある方角へと向かって行った。
「ただいまー」
家の扉を押しあけ中に入る。玄関付近の扉からテレビの音がする。家にいるのにおかえりも返さない両親。いつもの事だ。以前までは寂しさや切なさを感じていたがアリンはこの凍えた環境に慣れてしまっていた。
不意に扉越しから両親の会話が聞こえた。実の息子なのだから聞き耳立てるのもおかしい話だが、彼らにとってアリンはただの言う事を聞く肉体のある機械にしかみていないのだから。
「あのリトって子がどこかに引っ越してから、アリンの様子が変なのよ……」
「まさか。アリンは実にいい子できっちり俺たちの言う通りに立派に育ってくれた。育児に問題はなかったはずだ。何をそんな嘆く必要がある」
「でも、今日も急におじいさんのカメラを取り出して何処かへ行ってしまったし……」
そこでアリンの母ーージュリアンは何かに気づいたように顔を上げる。
「まさか。虹の国へ行こうとしているんじゃないでしょうね」
アリンは反射的に肩を震わせた。幸いにも彼の感じた恐怖が両親に気づかれることはなかった。
音を立てないようそっとドアを閉めアリンは忍び足で自室に向かう。アリンの部屋はこの廊下の突き当たりにある階段を上がってすぐ右側にある。自身の家だというのにまるで他人の家に不法侵入しているかのように居心地も悪い。アリンは息を殺してそっとドアノブに手をかけた。
続く