6. 人違い
徹ってこんな顔だったっけ、とちらりと思った。告白を受けた以上は、多少は容姿にも好感を持っていたはずなのに。毎日のように顔を見てた高校時代の後、大学の四年間が空いて。次に会ったのは結婚式の準備の、親族の顔合わせで何度か。その後も、頻繁に会うことはなかった。妻とよく似た顔の双子の姉妹がうろうろしていたら――あのこともあるし――気まずいだろうと、有希子と示し合わせるまでもなく、何となく帰省の時期はずらしていたから。
「徹……」
それでも、かつてのクラスメイトで、ほんの一時期とはいえ彼氏だった。間近で顔を見ていたはずなのに、こんな表情の徹は見たことがない。有希子を見つけて安心した笑顔――と、そう思えれば良いのに、なぜか怖い。ある意味、さっき見た有希子の愉しそうな笑顔と似ている。細まった目は全然笑っていなくて、じっとりとこちらの挙動を見ている。
顎の下から光を当てて「怖い顔」を作るなんて子供だましの悪ふざけだ。修学旅行の夜、みんなで集まって怪談話でもする時みたい。でも、今は笑い飛ばすことはできなかった。私を見下ろす徹の目に浮かぶのは、喜びだけじゃない。手間をかけさせやがって、とでも言いたげな――苛立ちも、確実に滲んでいる。有希子の狙い通り――徹は、私と有希子を間違えてる!
「違う、私……有希子じゃない。亜希子だよ!」
必死に訴えようとした声はひどく掠れて、ちゃんと言葉になったか分からない。でも、自分の名前は言えたはずだった。よく見れば分かってくれるはずだと信じたかった。双子といっても、もともとの顔の造りはそっくりでも、私と有希子は別人だ。髪の長さや眉の形、微妙な体型の違い。徹は仮にも有希子の旦那さんだもの。ひどいことをしてるっていっても、有希子への執着はあるはず。それなら、私との違いは分かって当然だ。
そう、祈るように見上げていたのに――
「何言ってんだよ」
私を照らす光の輪が揺れた。徹の手が、彼の怒りと苛立ちを示すかのように戦慄いたのだ。それはつまり、私の希望や期待が砕かれたということだ。
「あいつのことは何とも思ってないって、何度言えば分かるんだよ。若い頃の勘違いだって。俺は、お前が好きなんだよ!」
ああ。堪え切れずに、目から涙がこぼれ落ちた。徹が拳を握りしめて壁に叩きつけて、その痛みにか唸りながら、腕を振り上げる。暴力の痛みの予感に震えながら、それよりもまず心の方が痛かった。
私はやっぱり要らなかった。徹はちゃんと有希子を選んでた。積極的に好きじゃなかった相手でも、十年も前の話でも、改めてそう突きつけられるのは辛い。でも、そのことさえも些細なことだ。
徹でも、見分けられないものなんだ。有希子を好きだと言ってるのに。夫婦として何年も過ごしたはずなのに。
呼び出したのは有希子だから、とか。暗い中で、メイクもしていないし趣味や仕事を匂わせてる訳でもない部屋着だから、とか。徹が興奮してよく見ようとしないから、とか。理由を幾つか挙げることはできるけど。結果は、同じだ。私と有紀子をちゃんと区別してくれる人なんか、いない。私たちは、同じようなもの。
「お前が、そんなことばっか言うから……っ!」
じゃり、っと。徹が床を踏みにじって足を踏み出した。さっきの有希子のように目を吊り上げた形相。靴が床と擦れる音の強さから、彼がどれだけ力を込めているか分かる。スローモーションのように、どこか遠い――膜を隔てたことのように見えた。私の注意は、目の前の徹よりも、完全に自分の頭の中に向けられていた。
有希子と徹の間にあったことが、ほんの少しだけ分かった気がした。あの子だって自分を見て欲しかったはずだもん。そう、自信を持ちたかったはずだもん。徹が有希子の期待に応えられなかったのは――愛がないからではなかったのかもしれないけど。そもそもの切っ掛けからして、そういう奴だった、ということでしかないのかもしれないけど。
有希子は徹の想いを疑ったし、有希子の疑いは徹には不本意なものだった。だから、二人の関係は少しずつ拗れてこうなった。
私と有希子が同じようなものなら、私が徹の拳を受けることになるのも仕方ないのかな。
もう逃げる気にもなれなくて、私はぼんやりとへたり込んだ。有希子が殴られるのも私が殴られるのも、どうせ一緒なんだから。逃げても無駄だし。ああ、でも拳が迫るのを見るのは怖い。
だから私はそっと目を閉じた。泣きながら、身体を緊張させて痛みを待つ。
「……え?」
間の抜けた声は、徹と私の口から、ほぼ同時に漏れた。私は、いつまでたっても覚悟していた痛みが訪れないのに驚いて。そして――徹は、どうして?
さすがに目を開ける。すると視界に入るのは徹の下半身。私を思い切り殴るか蹴るかしようとして、飛び掛かってきたところ。なのに、私は痛くない。振り上げていた拳は、と思って更に目を挙げると――
「徹っ!?」
徹が、私の肩を掴んでいた。でも、もちろんこの私じゃなくて。鏡に映っている私の姿を! 鏡がまるで水面で、私が液体の中に閉じ込められているかのように! 徹の腕が、鏡の中にめり込んで、掴んでいる!
「ゆ、有希子……? 何だよ、これっ、どういうことだよ……!」
この期に及んでも徹は有希子の名前を呼んだ。鏡の中の私と、こちら側の私を見比べて。あまりの驚きに――それとも、怖気づいてしまったのか――私を殴ろうとしていたことなど忘れてしまったかのように。
「わ、分かんないっ。腕……うで、大丈夫なの!?」
慌てているのは私も同じ。目の前で確かに起こった異常な事態に、動くことができないのも。瞬きをすることさえ。だから、私の見開いた目は、全てを見てしまった。
鏡の中の私は、私が浮かべているはずの表情とは裏腹に微笑んでいた。有希子と同じ、得意げな笑顔。そして、自分の身体を支えるので精一杯のはずの手を持ち上げて、徹の身体を抱き寄せた。鏡の水面を破って、私の腕がこちら側へと現れて――戻る時には、徹の身体を引きずり込んでいく。
「何だよ、何なんだよおおおっ」
徹の悲鳴は、頭が鏡に呑まれると聞こえなくなった。私に抱きしめられた上半身から腰、足と順に消えていく。そして靴の爪先までもが鏡に吸い込まれていくのを、私は最後まで見ていることしかできなかった。
「と、おる……?」
声を出すことを思い出した頃には、鏡に映っているのは涙に汚れた私の顔だけ。当たり前のはずなのに――なのに、ならどうして徹はいないの!?
「どうしたの……!?」
「きゃあっ」
恐る恐る鏡に触れようと手を伸ばしたところで、鏡の私の顔が迫ってきて、私は悲鳴を上げた。でも、光源が増えたことですぐに分かる。従業員エリアでこちらを窺っていたであろう有希子が、扉を開けて出て来たんだ。目の前を通り過ぎるジーンズに包まれた脚。その普通さ、当たり前にそこにいる質感に、やっと、少しだけ我に返ることができる。
「徹、徹は? どこ行ったの!?」
「わ、わかんない……」
といっても、声を出すことができるという程度のことだったけど。首を振るしかできない私に舌打ちを落として、有希子は懐中電灯で左右を照らした――らしかった。私は、まだ腰が抜けて立ち上がることができなかったから、光の移動でそうだろうと思っただけだ。ただ、どんなに目を凝らしても徹がいないであろうことだけは分かる。
「亜希子! 徹をどこにやったのよ!」
「分かんないって!」
懐中電灯でほとんど真上から照らされて、目を手で庇いながら怒鳴るように答える。どうしてこんなに責めるようなことを言えるんだろう。さっきは徹を嫌ってたような口ぶりだったのに。消えろとまで言ってた。私をどうにかすれば捕まるからとか、そんなことでも思い描いていた? なのに、今さら心配するようなことを言うなんて!
「あそこ……鏡に、吸い込まれていったの! 分かんないけど!」
あの鏡を直視することはもちろん、指さすことさえ怖かった。だって見てしまえば私が見返してくることになる。私の仕草を映して、ちゃんと同じ格好をしてくれているのかどうか――もしもまた、私とは違う動きをしていたらどうしようと思ってしまうから。
「何バカなこと言ってんのよ!」
でも、私の恐怖は有希子には分かってもらえなかったようで、軽蔑するような目で見下されてしまう。また舌打ち。有希子の脚が動いて、鏡の前に立つ。――そして有希子は、何か私を責める言葉を吐こうとしていたんだろう。徹のことばっかり言って。この子はあいつのことを本当はどう思っていたんだろう。徹は有希子のことを好きだって言ってたのに。
「怪談なんてバカバカしい……私、何度も来てたのに何もなかったんだから! 徹は――」
私が言ったことを笑い飛ばそうとするかのように、何もないと証明しようとするかのように、有希子は鏡に対峙していた。でも、捲し立てる言葉が不意に切れて――それが、さっきの徹を思い出させて――私は、はっとして顔を挙げた。
「――っひ」
そして、息を呑む。徹が遺していったのと、有希子が持っているの。二つの懐中電灯の灯りで照らされる鏡、そこに映った有希子。声は私を責めて徹を探して混乱していたようだったのに、何事もなかったように、にっこりと笑っている。また、本当とは違うことを映している!?
「なに、これ……!?」
有希子は鏡に手をついていた。実際の手と鏡像の手が、鏡を境にして掌を重ねている。その手が、離れる。鏡の中の有希子が、ゆっくりと手を上げる。
「有希子……!」
徹の時と同じだ。そう直感して、有希子を鏡から離そうと私は足に力を込めた。でも、鏡の中の有希子の方が早かった。有希子は有希子の手を握ると、鏡の中へと引っ張った。もう片方の手も、逃がすまいとするかのように有希子の背に回されて。
「やだ、助けて、亜希子!」
「有希子!」
手を伸ばそうとした。有希子の、服でも腕でも掴もうとした。でも間に合わなかった。有希子は私にも微笑みかけると、腕を引いて有希子を――本物の、こちら側の――抱き寄せた。そうなるともう徹の時と同じ。有希子の身体が水に沈むように鏡に呑み込まれていってしまう。
「有希子……有希子!?」
ミラーハウスに響く声は、もう私のものだけになってしまった。何度呼んでも、応える声はなくて。鏡に映るのも、本来映るべきもの――泣き喚く私の姿を、そのまま映したものだけだった。