掌編:スプラッシュ
困ったものですね。
掌編スプラッシュ
椎名 蜜
彼女は泡である。
それは炭酸のように駆け抜け、シャボン玉のようにもろいものである。
それ粒になろうとした。
その粒は何にでも溶け込んでしまいそうなくらい小さい存在で、それでいて小さいながらもハッキリとした存在の粒であった。
「みんなは何をしているのかな?」
彼女は駆け抜ける泡のなかから、外の泡を眺めていた。ほのかな梅の香りが鼻腔をくすぐりどこかむず痒くなる。周囲を満たすひんやりとした黄金に包まれて体はふわふわとした幸福感に包まれている。
彼女はある時突然生まれ、そして気づいたら一人で泡の中にいた。泡の中から見える黄金に揺らめく世界しか彼女は知らない。自分の名前も、生まれてきた意味も、何をするべきなのかも知らない。彼女は泡である。泡なのである。
「みんなはどこに向かっているのだろう?」
彼女は一人で考える。
周りの泡は皆上へ、上へと急いでいた。まるで何かに追われるように急いでいた。そこには上へ行かなければいけないという強迫観念すら感じた。しかし、彼女は気づいた。上へと急いでいたのは自分も同じことであった。と。
泡たちのなかには上へと行けずに力尽きてしまうもの、他の泡に飲み込まれていくものもあった。泡は泡を飲み込み大きな泡となっていく。大きな泡は我が物顔で上へ上へと黄金を駆け抜けていく。
そのとき彼女は他の泡に飲み込まれるということに幾分かの恐怖を抱いた。私はひとつの泡でありたい。そう思った。
ある時、隣から大きな泡が彼女に近づいてきた。
「一人だろ?俺らと一緒になって上がろうぜ、みんなで上に行けるからよ」
大きな泡は彼女に自分達同様一つの泡となる事を提案した。しかし、彼女は悩む間もなくこういった。
「ごめんね、私は一人で進むの」
彼女はひとつの泡となることに恐怖を抱いていた。私は一つの泡になったらどうなってしまうのだろう?私は私のままなのだろうか?
すると大きな泡はこう言い放った。
「『変なやつ』だな」
私は『変なやつ』なのかな。
彼女はまたも一人で考える。
ふと周りを見ると彼女の周りの泡は大きな泡ばかりであった。
大きな泡が泡を取り込み、大きくなり、また他の泡を取り込む。そうして泡たちは大きなひとつの泡となっていった。
「みんなはどうして一つの泡になったの?」
彼女は周りの泡に訪ねた。
しかし周囲の泡は彼女などまるでいないかのようにだんまりを決め込んだ。中には「『変なやつ』だぜ、かかわらないほうがいいぞ」とあからさまな嫌がらせをしてくる泡までいた。
どうして私は無視されるのだろう?
どうして私は嫌がらせをされるのだろう?
彼女にはその答えがどうしてもわからなかった。
ふらふらと一人で黄金を上へ上へとあがっていく。ふらふらと。ふらふらと。どれだけ周りに冷たくされようとも、どれだけ嫌がらせを受けようとも。彼女は一人で上へと進んでいった。私は何か悪いことをしたのかな?私の何が悪かったのかな?彼女はやはり一人で悩んだ。周りの黄金がこの時は恨めしくすら思った。
パチン、パチン。
次第に泡が弾け、粒へと生まれ変わっていく音がし始めた。カランコロンという音も聞こえ、耳が心地いい。私はここに来るために。この瞬間のためにここまで上がってきたんだ。そう実感した。
あぁ、私ももうすぐ粒になれるのかしら。
彼女は新しい自分へと生まれ変わることへの期待を抱いた。
もうすぐで粒になれる。そんなとき、彼女は自分がぐいぐいと押されていることに気がついた。
「やめて!押さないで!」
これ以上に押されると自分が潰れてしまうような気がした彼女は必死にになって大きな泡に叫んだ。すると、大きな大きな泡はニタニタと笑いながらこういった。
「みんなと違う『変なやつ』はいない方がいいだろ?」
この泡は私が『変なやつ』だから割ろうと。そう言っているのだ。
「違うもん!私は私よ!」
すると大きな泡は声を出して笑った。まるで馬鹿にするかのように。最初から笑ってやろうと考えていたかのように。
「そうやってみんなと同じ泡にならないやつだから『変なやつ』だって呼ばれてるんだろ?」
「みんなと違う泡でも私は私なの!一つの泡にまとめようとしないで!」
彼女は強く言った。それでも大きな大きな泡は彼女を端へと追いやる。
「どうして一つの泡にならないといけないのよ!大きな泡にならないとあなた達は上にいけないの?私はここまで来たわよ!」
すると大きな泡のなかでモゾッと動くものがあった。
「どうしてあなた達は周りに合わせているの?」
大きな大きな泡がブルブルブルッと震えた。
「うるさいな!『変なやつ』のくせに!生意気なんだよ!」
「あなた達は一つの泡になって満足したの?」
そのとき、大きな大きな泡は狂ったように右へ左へ。まるで中から空気が溢れようとしているかのようにブルブルと震えた。そしてパチンッと軽い音をたてたくさんのそれはそれはたくさんの彼女と同じ大きさの小さな泡へと変わっていった。
彼らが勢いよく粒へと変わっていくのを見届けて、彼女もまた一つの粒へと変わっていった。
さて、本文をシュペルヴィエルのように締めるのだとしたら、
彼女は価値観が生み出した社会の苦悩であった。というところであろうか。
彼らは皆、社会の上へ上へと。高みへと上っていくうちに、
ある価値観を一般認識として集団をつくっていく。
そしてそれにそぐわないものを異端として見なしていく。
彼女の選択が正しいか正しくないかはわからない。
しかし、それでも自分を強く持ったものが。その意思が。悩みが。彼女を創り出してしまったのだ。
ここまでをあえて半端に述べさせてもらった上で筆を置かせてもらう。
価値観って人を殺すんです。
私は変人扱いをされてきたのでいつも固定化された価値観の外にいたんですよね。
まったく。困ったものですね。