人魚姫
あの頃。
子どもなりに、ぎりぎりの精一杯で生きていた。
なのに、これほどたくさんちゃんと好きなものがあった自分に驚く。
一歩間違えば死んでいただろうあの崖っぷちで、必死につかんでいた輝き。
けれど今、その熱量はいったいどこにいってしまったのだろう。
人と同じように振舞うことに全精力を注いできたその後の長い時間の中で、普通っぽい仮面を手に入れることと引き換えに失ってしまたものたち。
ありのままのかたち。
だって、剥き出しの自分は苦しすぎたのだ。
体中を棘で逆なでされてるみたいに、何にでも器用に傷ついたあの頃。
みんなと同じになれるのなら、何を失ってもいい気がしていた。
人になるのと引き換えに、声を失った人魚姫のように。
今わたしは、あのときの願いどおり、大勢の人々にうまく紛れて平和な時間を過ごしている。
なのに、のっぺらとした穏やかな日常の中で、時折子どものわたしがむくりと頭をもたげて問いかけるのだ。
「それでは聞くけれど、あなたは今、なにをつかんでいるの?」
その問いになにひとつ答えることができない自分に愕然とする。
今のわたしは、ほんとうに生きていると言えるのだろうか。
あんなに願ったことなのに。
どうして辛かったはずの過去ばかりが、本物のように思えてしまうのだろう。