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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
自分の足で
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誓い

 夏には入籍しようと決めていたわたしたちは、すでに彼の実家への挨拶も済ませ、着々と新しい生活の準備を整えていた。


 一日も早く彼と暮らしたい、彼を思う存分愛したい。

 泣けてくるほどの愛しさを持て余し、溢れそうになる感情を押しとどめながら過ごす。


 が、そのすぐ傍らで、なす術もなく無残に壊れていく家族。



 数年前に胃を切っている父は、無茶をしてはいけない体のはずなのに昼間から酒を飲み、その勢いであちこちに兄嫁の悪口を言いふらすようになっていた。


 苦労を重ねて体を壊した挙句に妻に先立たれ、ようやく老親を看とったと思えば長男の嫁は使い物にならない。

 周囲は父に同情の目を向け、兄嫁への風当たりはどんどん厳しくなっていく。


 彼女はますます態度を硬化させ、あたりかまわずヒステリックに当たり散らし、憂さを晴らすかのように買い物にのめりこんでいった。一生かかっても使いきれないほどの洗剤やタオルや化粧品が、家のあちこちに積み上げられていく。


 このままではダメだとわかっているのに、自分にはどうすることもできない。父が、兄嫁が、そしてこの家が壊れて行くのを、黙って見ているしかない日々。

 正直、逃げ出したかった。


「こんなの嫌だ、早く一緒に住みたい」

 たまりかねてそうぼやくわたしに、彼は悲しそうな目を向け言った。


「俺との結婚は、逃げる手段なのか?」


 頭をガツンと殴られたような気がした。


 目の前で繰り広げられる殺伐とした光景に、いつしか彼といたいと願うよりも家から逃げ出すことばかりを考えるようになっていた。

 自分でも意識していなかったその変質を、けれど彼は見逃さない。


「ごめん」

 しょんぼりと謝るわたしに、彼は「いいよ」と笑顔を向ける。


 大切なものを見失うのは、なんて容易いことなのだろう。

 本当の強さを持ちたいと思った。一番失くしたくないものを、決して手放さずに済むように。





 そうこうするうちに父はすっかり食欲を失い、見る見るうちにやつれていった。顔色がひどく悪くなり、だるそうに横になっていることが多くなった。

 見るに見かねて兄が病院に連れていくと、即入院。


 肝臓をやられていた。




 その日の夜、静まりかえった台所で兄がぽつりと呟いた。


「めぐみはもう無理だ。たぶん、ここを出ることになると思う」



 そうなる予感はしていた。


 そしてもし実際にそうなったら誰もが願うに違いなかった、冬子が家に残ってくれればと。


 その声を振り切って、病気の父をひとり置いて、本当にここを出て行けるのか。

 


 自分の気持ちを通すのはただのわがままに過ぎないと、長年慣れ親しんできた心の声が執拗にわたしを責め始める。


 この状況を考えろ、他にどうしようもないではないか。あの父をひとりぼっちで放っておけるのか。お前が自分の幸せを我慢しさえすれば、万事上手くおさまるのだ。


 まことしやかなその声に、思わず心を手放しそうになる。


 

 少し前の自分だったら、あっさりとそれに従っていたに違いない。


 それこそが、この家で当たり前に繰り返されてきた生き方だったから。



 でも、だからこそよくわかってもいた。


 今出て行かなければ、もう二度とこの家を出られなくなる、と。



 この家に残ったわたしは、表向きは淡々と暮らしながらも、胸の奥底で父のために犠牲になったことを一生引きずっていくだろう。


 また父も、自分が娘の幸せを奪ってしまったことをずっと後悔し、苦しみ続けるに違いなかった。



 わかってる、ひどい娘だ。ひとりぼっちの病気の親を捨てていくなんて。

 でも、もう認めなければならなかった。わたしが心を殺して孝行娘を演じても、誰も幸せにはならないと。


「冬子がやろうとしているのは、この家で初めてのことなんだよ」

 彼のことばに、流れに抗うことの苦しさを改めて思った。





 容態が落ち着いた父の病室を、彼と2人で見舞った。

 落ちくぼんだ目に力のない細い腕、うっすらと黄ばんだ肌。


 いいよ、わたしがずっと家にいるからねと、そう言ってあげられたらどんなによかったろう。

 引き返せるものなら引き返したい。

 でもどうしても伝えなければならなかった。



「あのね、その……前に話した通り、夏が終わるまでには2人で暮らしはじめたいの。

 わたし、彼と別々にいるのは、もう限界なんだ……」


 掠れた声でやっとそれだけ告げると、父は声を震わせ苦しそうにわたしたちを見つめた。


「……お前がやっとつかんだ幸せだから……それまで奪うことはできないよ。なあに、俺はひとりでも大丈夫だ、近所のみんなも見に来てくれるから……」


 笑いそうな泣きそうな顔でそれだけ言うと、さりげなく顔を背ける父。その肩が小刻みに揺れている。



「……うん」



 やっとのことでそれだけ答える。


 胸がつぶれそうだった。





 ごめん、父さん。

 わたしはあなたを捨てる。



 でもその代わり、絶対に幸せになってみせるから。



 だってそうでなければ、こんな想いをしてまであなたを捨てた意味がなくなってしまうから。





 初夏の日差しが明るく反射する白い天井。


 やつれた果てた父の背中を揺れる瞳で見つめながら、心の中でそう強く強く誓った。

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