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備忘録1 生きにくさの根っこ  作者: 小日向冬子
自分の足で
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境界線

 3月も終わりに近づき、兄の家族が同居する日が近付いてきた。


 本当はそれを機に家を出たかった。けれど父の気持ちを考えるとそこまではできず、当分は今まで通りわたしは離れで寝起きし、兄夫婦と甥っ子たちは母屋に住むことになった。


 問題は、電話だった。


 わたしは、費用は自分で負担するからもう1本回線をひきたいと訴えた。携帯電話もない時代、すぐに彼と暮らせないならせめて時間など気にせずに話がしたかった。


 が、兄はそれを受け入れてはくれなかった。


「ひとつの家族なのに、2つの電話というのは不自然だよ」

「うーん、でも……」


 口ごもるわたしを、穏やかに微笑みながら諭す兄。


「だからさ、そんなに遠慮しなくていいんだよ。俺たちに気を使ってるんだろ? 思うほど周りは気にしてないんだから。

 みんなで家族としての一体感を持っていきたいんだ。そういうものを味わうことも、そのために努力して成長することも、これからの冬子にとって必要なことだと思うよ。

 だからね、電話も最初から線を引くような形で分けたくないんだ。冬子は下宿人ではないんだからさ」


 お日様のように翳りのない兄のことばに思う。

 むしろ、下宿人のほうがいい。

 わたしは本来、ここにいるべき人間ではないのだから。


 この家をとっくに巣立っていなければいけないはずなのに。

 ひとり立ちもできないままに出戻って、さらに足止めをされて、どっちつかずの宙ぶらりんで年齢だけを重ねていくねじれるような居心地の悪さ。


「だって……自分は何やってるんだろうって、思っちゃうんだよ。もういい大人なんだから、本当はもう早く独立しなきゃいけないのにって。


 そもそも家に戻ってきたときだって、落ち着いたらすぐ出るつもりだった。でも母さんがいなくなっちゃったから……今だって、彼のことで心配かけると思うから、かえって出られなくなって……」


 そう言いながら、なぜだか無性に泣けてきた。


 そして泣きながらふと思ったのだ。



 わたしは今まで一度も、この家が自分の居場所だと心から思えたことがない。




 ああそうか、だからいつも見えない壁を積み上げて、自分だけの小さな居場所を作ろうとしてきたのだ。


 すべてを呑み込み埋没させていこうとするこの家の中で、わたしという存在だけが異質なままぽっかりと浮いてしまっていたのだ。

 そんな気がしてならなかった。






 夜になり、彼に電話をした。


 今日のできごとを聞くと、彼は何もかもわかっていたかのような口ぶりで言った。

「冬子は俺と同じで、自分のテリトリーを作らないと生きて行けない人間なんだよ」


 そのことばが、すとんと腑に落ちた。



 きっと、この家に上手く呑みこまれて生きていける人間だっているはずだ。

 でもわたしはそうできなかった。


 おそらく自分は、きっちりと縄張りを作って自分を守っていなければ壊れてしまう類の人間なのだ。


 でも、それならそれでいいではないか。

 線を引いて、壁を作って、そうやって生きて行けばいい。





 そのことをきっかけに、わたしの中にいくばくかの変化が起こった。


 どんなにことばを尽くしても、人は完全には分かり合うことなどできないのだということ。

 他人が自分とはまったく別個の人間であり、相手にも自分にも踏み込んではならないエリアがあるということ。

 そこに踏み込まれそうになったら、拒絶してもいいのだということ。

 自分のことは、自分で決めていいのだということ。


 ことばとしてはわかっていた至極当たり前のことを、ようやく受け入れることができるようになっていった。



 今思えば、そのときわたしはやっと、自分の足で立とうとし始めたのかもしれない。

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