なくした欠片
彼に出会う前のわたしは、負ける寸前のオセロみたいだった。
盤面をほぼ埋め尽くした黒い石。どう攻めてみてもそれがひっくり返ることはなくて、わたしはほとんど人生という勝負をあきらめていた。
なのに。
彼が打つ一手はことごとく、びくともしないように思えた黒い石を次々と裏返していく。
大嫌いだった自分という人間が、彼の目を通したとたんにあっけなく別の姿を見せ始める。
それはまるで奇跡のようで。
どうやって他人と関わったらいいかわからずにあれこれ考え過ぎて凹んでばかりのわたしを、彼はいつもこう励ました。
「変に人づきあいが上手い奴なんて逆に信用できないよ。冬子は冬子らしくいさえすれば大丈夫、もっと自信を持ちなさい」
それでも相変わらず些細なことで揺れ動いてしまうわたしを見て、彼はひとつの提案をしてきた。
「よし、それじゃあね、これから毎日、その日感じたことを全部話してごらん」
その日から、来る日も来る日も彼に向かって心の中にあるすべてを吐きだし続けた。
そのときのわたしはまるで、「あのね、今日ね……」と母親に向かって話し続ける幼い子どもみたいだったと思う。
仕事先での人間関係や、常にまとわりつく自信のなさや、ちょっとした父の表情に湧きおこるどうしようもない不安。
ひとりではどう治めていいかわからなかった思いの丈をひとつひとつ受け止めてもらうことで、頼りない根なし草だった自分がやっとこの世界に根をおろしはじめた気がした。
自分に欠けた何かを取り戻そうともがいていたのは、彼もまた同じだった。
浮気と借金を繰り返す父親と、半狂乱の母親。
崩壊寸前の家庭で育ってきた彼は必要以上に人の心を読むことに長け、結果ますます人間不信に陥っていた。
だからこそ、ありえないほどバカ正直なわたしという人間が必要だったのだと思う。
そのころわたしが塾のバイトと並行してやっていたのは出版関係のフリーの仕事で、月に一度声がかかり、電話もない別室に缶詰めになって作業をすることが多かった。時間もひどく不規則で、何時間も待たされた挙句にいざ始まると分刻みで〆切に追われ、すべてが終わるころには終電もなく、タクシーチケットで家に帰るということが何度となくあった。
数時間、そして半日と連絡が取れなくなるたびに、彼はわたしを問い詰めた。
「どこで誰と仕事してたの? どうして電話してくれなかったの?」
「ああ、ごめんね。午後はずっと忙しくて、別室から出られなかった」
「電話もかけられないくらい忙しかったの?」
「うん、そもそも時間が押してるから、とても抜けられる雰囲気じゃないんだよね」
特に深く考えもせず、聞かれるたびにただありのままを答える。何度となくそんなやりとりを繰り返すうち、彼が不安そうに問いかけてきた。
「あのさ、いつもこんな風にしつこく聞かれて、うんざりしないの?」
「え? 何が?」
わたしが苦手だったのは誤魔化すことや嘘をつくことで、ありのままを答え続けることなどはちっとも苦にならなかった。
あっけらかんと答えるわたしに、彼はやっとホッとした表情を見せた。
「冬子ってホント不思議だよね。たいていの娘は、こんなの絶対嫌になると思うけど」
「でも、それで言ったら普通の男性は、絶対わたしのどうしようもない話を毎日聞き続けたりしないと思うけど」
「あ、そっか」
そう言って笑い合った2人。
それからもわたしは毎日彼にその日のできごとを話し続け、彼はわたしの居場所をしつこく確かめ続けた。
そうやって、それぞれが長らく抱えてきた欠落をゆっくりと埋め合う作業が繰り返されていったのだった。